A60G03:実質的に一番偉い家
宣言通り、日の出前に出発したら朝日の中で岩山が見えた。
キメラが先行して足跡をつけ、アズートが一歩後ろから道を指示する。歩幅を狭く、爪先立ちで、一直線に。同じ足跡を何度も踏んで進む。人数や体格を足跡から割り出せなくする。
人の気配とは出会わないままで森林限界に来た。この先に植物は育たない。風が強すぎて土ごと飛び、寒すぎて耐えられない。
しかも今は冬だ。通常ならば服の着脱により体感温度を調整するが、脱を選ぶ機会は一度としてなかった。革で風を防ぎ、上質な布で空気の層を作る。特に口や鼻を守る。これを怠ると吐息が凍りついて体温を奪う。
「ユノア、そろそろ」
「そうだね。アズートくん」
「なんですかね」
二人の阿吽の呼吸がまだ読めず置いてけぼりになった。
「強引に行くと言っただろ。今がその時だ」
「ああそういう。集落は向こうに長く伸びます」
アズートが示す方向に小さな動きが見えた。植物がない場所に草食動物はなく、草食動物がない場所に肉食動物はない。可能性はふたつ。鳥の巣か、人間か。
左側が頂上へ続く崖で、右側が奈落へ続く崖になる。不安定な道幅で横に並べるのは二人がせいぜいで、所々にさらに狭い関門が待つ。見張り番を置くならそこだ。
この先に隠れられる場所はない。視力でも地の利でも劣る。しかし、他の道がない今は真正面から行く。一応、攻撃の意思がない使者の顔で。懐に潜り込む可能性くらいにはなる。
「キメラ、気づいてるね」
「風上だ。一方的に不利、とも言えないだろ」
「一応は。使う?」
「まだよしとけ。出方を見たい」
アズートにはよくわからないやりとりで、とりあえず手があると信じて後ろにつく。二人の仲だけでもなく、熟練ゆえの符丁と見た。似た話し方は王国でも見たが、こっちはもっと気持ちがいい。相手への好意か、他の理由か、答えを見つけるのはまだ先でいい。とにかく覚えておく。アズートはまだ若い。若い故に、遠くからも声をかけやすい。
「おいあれ! アズートじゃないか!」
「本当だ! アズートだ! どこ行ってたんだ!」
きっと同年代の、低い声とまだ高い声が叫んだ。キメラもユノアも出方を窺う機会と思っている。が、王国の言葉では狩りの合図だ。
アズートが何を言うよりも早く、矢がキメラの髪を撫でた。
「外した! あいつらできるぞ!」
人を食う野生動物、他では類を見ない攻撃性を最初から剥き出しにして、次の矢を構える。
武器を隠す意味がなくなった。腰の後ろから取り、構えた。
キメラはナイフを、ユノアは扇子を。体の側面を向けて的を小さくして、自分に迫る矢を弾いて逸らす。今なら相手が少なく、精度がやけに低い矢だ。本番まではこれでやり過ごせる。
ゆっくり確実に進んでいく。足場を足だけで確認し、隣と歩調をあわせる。
アズートは二人の陰でうずくまる。迫る矢に対し臆せずに進み、どんどん離れていく。
歳は近くても場数が違いすぎる。この二人はもっと幼い頃からアナグマにいた、と聞いている。急に、自分を恥じた。ここまでの道を知っているだけで、他はまるで役に立たない。少なくとも足手纏いにだけはならないように隠れる。姿勢を下げて、小さな段差の陰に体を置く。
「ユノア、あと三射で行く」
「了解。先に私がひとつ」
宣言通りに、三番目の矢が逸れた直後に、ユノアが扇を開いてひと振り、直後にキメラが進む。追い風を浴びる。キメラが着くまでに相手も次の矢をひとつ、弾けば次はない。逃げるしかない。
最初に風が着いた。逃げる脚がもつれて、キメラが距離を縮めていく。
ユノアの扇子から放たれた毒薬は風に乗って届く。少量での影響は小さいが、一瞬だけでも感覚を狂わせれば足りる。キメラが一人の首根っこを掴み、もう一人は逃がしてやった。まずはこれだけでいい。話をさせる。
「お前、聞かせろ。今の事情はどうなってる」
「言えるかよ、そんなの」
手持ちのナイフで左手の小指を落とした。
「ぐええ!」
「早く言え。時間が惜しい」
「い、言えない」
薬指を落とした。
「何も知らないんだよ! 知らせてくれないんだ」
「いい情報だ。お前は役に立つ。じゃあ次、なぜ知らせてくれない? 噂でもいい」
「エムが取り仕切ってる」
「へえ。それはどんなやつ?」
「でっかい装置を持ってるから実質的に一番偉い家だよ」
「場所は」
「手前から十三番目。ここの矢倉がアスタートで、次がビイで」
「名前っぽくないな」
「場所の名前だよ。でもいくつかは、記号しかないんだ」
「具体的に」
「ビイと、隣のシイと、あとは僕が入れる範囲にはない」
「噂だけでいい」
「エルは聞いたことある」
「お前はいいやつだ。楽に済ませてやる」
見張りの喉から脳へ貫いた。何を感じる間も無く機能がなくなる。
「ユノア、聞こえたな」
「撤退。すぐに来る」
他の話を後にして、全力で走った。今度は向かい風を浴びながら、たまにユノアが毒を放ち、植物がある高度まで進む。まだ追いつかれないが、人影は見える。中空には音を阻むものがない。小声らしいが、侵入者を殺せと息巻く様子が聞こえてくる。
下り坂で走るとは、小さな崖を飛び降りるのと同じだ。ただし着地の衝撃が脚一本に集中し、腰を沈める時間はない。腕で負担を低減する。肩の上まで持ち上げて、脚が着地する瞬間に腕を落ちる途中にする。腕一本は頭ほどに重い。
三人は夜を過ごしたキャンプまで戻った。この先は藪漕ぎが必要になる。追手が遠いうちに休憩して呼吸を整える。
たまにユノアが指を鳴らすが、位置を示す音は返ってこない。逃がす損失より持ち場を離れるリスクを優先したと考えて辻褄は合う。
一応の安全を確保したので、ユノアが小言を垂れた。
「キメラのあれはよくないね。偽情報に弱すぎる」
「普段ならな。相手は子供だぞ。派手に見せたらすぐ屈する」
ユノアの他は、少しだけ顔を曇らせた。




