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千年妖姫の杯  作者: エコエコ河江(かわえ)
2章 潜入、ガンコーシュ帝国
24/89

A23U03:アレサと呼んで

 キメラが泥棒騒ぎの話をつけているのと同時刻、ユノアはベッドタウンのひと部屋を契約していた。


 服を裏返して、キノコのリュックから雨除けを外して、外見の印象をがらりと変えている。言葉の端々に出した帝国訛りも合わせて、大家はすっかり上京してきた若者に対する目でいる。


 ここは戦地から遠い。頭ではわかっていても、実感はラジオ番組との区別がない。呑気に時が流れている。


 入居までの手続きは短く、向こう三ヶ月分の家賃をまとめて払った。ユノアは慣れない仕草を演じる。なけなしの小銭が説得力を上乗せする。


 陽が出ている間に全てが揃った。表札には偽名となった名前を書き込んだら、あとは隣人への挨拶をして、弁当屋へ向かう。この場を足がかりに潜入の時期を待つ。


 ドアノッカーで叩く。中からの音は緩慢で小さい。老人か病人を想定する。扉を開けたのはやつれた女性だった。目線で促すので、ユノアが先に口を開いた。


「初めまして。今日から隣の平屋に越してきました。アレサ・トムーンと申します。数日は家にいますが、その後は帰りが遅くなりそうです。よろしくお願いします」


 隣人は浮かない顔と低い声で「どうも」と短く呟き、すぐに扉を閉めた。ちらりと見えた髪や爪が傷んでいたので、きっとただの無愛想とは違う。建物がそこそこに大きいので不摂生も直接の理由にはなりにくい。突然に大きな衝撃を受ける出来事といえば、明らかな候補が記憶に新しい。


 しばらくは何もせずとも関係の悪化は起こらなそうで、頃合いを見て差し入れをしよう。表札から名前はカレン・セーゼンと覚えた。


 反対の隣家は空室だった。さっさと弁当を買いに行く。立地を売りにしていた通り、難なく到着し、二人前と少しを持ち帰った。


 キメラたちが来たらすぐ動けるよう、数日は道を覚えるためと称して近くの様子を観察しておく。大家の情報と合わせて予習していた通りかどうかを見ていくだけだ。多くの時間は使える設備の下見でもある。手首と軒先に香水をひと吹きして、ほとんどキメラだけに伝わる目印とする。


 そう考えた翌日に、もうキメラたちが来た。夕刻にユノアが部屋に戻ると、勝手に中で寛いでいた。警戒を解いて緩んだところに、背後からキノコが抱きついてくる。


「本当にユノアさんだあ。よかった」

「な、言った通りだろ」


 キメラは慎重に続けた。


「表札の名前に聞き覚えがあったから。ご丁寧にも窓に隙間があったし、荷物を見える位置に置いてる。もう少し遅いつもりだったか?」

「まあね。仕方ないから、この地区ではアレサと呼んで」

「断る。お前を呼ぶときは、お前の名前で呼ぶね」


 キメラは身を乗り出し、耳元で名前を囁いた。ユノアは顔を赤らめ手振りで「今はだめ」を伝える。早めに話題を切り替えたい。ちょうどいい物が買い物袋の中にある。


「お弁当にするよ。ちゃんと三人分ある」

「やったあ! ユノアさんすき!」

「なんで三人分? どこで気づいたんだ」


 買い物袋のふたつと、冷蔵庫からひとつを取り出す。製造日時の表記から買った時期がわかる。


「明日の朝まで持つやつと言って、二個ずつ買ってたの。もちろん別々の店でね。ここらには多いから。ちゃんとキメラの植物食もあるよ」

「助かる。ありがとな」


 キノコが真っ先に蓋を開けている。暖かい牛肉が薫る。避難所の炊き出しでは見なかった味は、久しぶりの刺激として真っ先に笑顔を作る。


「おいしい! 今までで一番かも」

「よかった。たんとおあがり」

「それをユノアが言うの、新鮮だな。よし、いただきます」


 キメラも豆でたんぱく質を賄った野菜料理にフォークを刺す。エンが玉座にいた頃、影響を受けた菜食主義者があちこちに現れ、その後も多く残っている。どこの弁当屋でも扱っている。


 ユノアは冷蔵庫の冷えた弁当箱からおにぎりを出す。気兼ねなく新しい弁当を食べられるよう、自分の分の少なさを隠していた。キメラは見かねて少し分けると言うが、ユノアは首を振る。このあといちばん働く奴がいちばん食べるべきだ。キメラは半笑いで「やっぱりな」と返し、栄養を味わった。


 食べ終えるまでは早い。日が暮れかけた頃に戻って、話し込んでから食べ始めたのに、まだ沈み切らない。よほどお腹を空かせていたらしい。


「ごちそうさま」

「おいしかったあ!」

「早いね二人とも。よく噛んだ?」

「お前が遅すぎるんだぞ」


 ユノアだけは食べながらで、今後の確認をした。忍び込む工場の周期から、出発まで一日だけ空き時間がある。ただし、空きとは計画上の話で、行動となると山積みだ。服を洗って、体を洗って、爪と髪を整えて、服が乾いたら装備をつけていく。最後によく休む。もし一日遅れだったら爪と髪だけ拙速に切るだけで済ますか、次の周期を待つことになっていた。山積みにもならないよりは楽かもしれない。


「今日はもう寝ていい?」

「歯を磨いてからね」

「じゃあ今日は、ユノアさんとくっついて寝る」


 布団はひとつしかないので、どのみちそうなる。


 出発まで猶予が一日だけある。事前に受け取った調査結果から、工場の休暇の周期は六日おきだ。キメラが早かったのでおおよそ最速で動けている。


「明日は私も調査してみるか。気になる名前を見かけた」

「キメラにも知り合いが?」

「そんなじゃねえよ。多分、遺族だ」


 先の戦場でキメラが見たドッグタグだ。セーゼン大尉、ちょうど隣人の表札にもセーゼンと書かれていた。偶然とも限らないので、確認しておく。


「それ、おちょくる結果になりそうだけど」

「知りたいのはおちょくられたかどうか、だな。ミカって女を知ってるか」

「名前だけ」

「ひと儲けのチャンスとか言って、そのまま帝国に向かったんだ。根拠はないが、私はあいつが気に入らん。もしちょっかいをかけてないなら、何か企んでるだろうさ」

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