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32.喝!

 下から吹き上げる風が嵐の髪をかき上げた。

 フェンスに手を掛け、すがりつくようにしてよじ登る。その時――。


「あんた、何やってんのっ?」


 キンキンと響く声が届いてはいたが、嵐は気にせず、フェンスを乗り越えるという目的に向かって動き続ける。


「ちょっと! 何してるのか、って、言ってるでしょう!」

「うわっ!」


 強く服を引かれ、嵐はフェンスからはがされた。屋上のコンクリートの上を転がりそうになったが、反射的に身体が受け身を取りすぐに体を起こした。その時に病衣が乱れ、嵐はそれを手で直す。


「なんなんですか、あなたは……」


 生気のない瞳で邪魔者を見上げる。

 同時に――目が離せなくなった。


(……似てる)


 背格好、顔パーツの配置……彼女の持つ特徴が大切な女の子と重なったのだ。


「はぁっ? 私が何者かなんて大した問題じゃないでしょっ? それよりあんた、どういうつもりよっ!」


 襟首を捕まれて、嵐は立ち上がらざるを得なかった。


「自分から死のうとするなんて、あんたを大切にしてくれる人に申し訳ないと思わないの?」

「大切にしてくれる人?」


 頭の中を家族がよぎる。友人がよぎる。けれどそれでも、生きようとは思えなかった。

 嵐の心はもうボロボロだ。どんなに大切にされているといっても、他人のために生きるよりも自分のために死にたかった。


「……死にたい」

「っ!」


 女装をして身を守る選択をするほどに外部からの敵意や悪意に弱い嵐にとって、過去のトラウマをほじくり返され、さらに写真を撮られて現在いまと未来が脅かされている状況を耐えられるわけがない。


「何があったのよ?」

「……」


 目の前の知らない相手に自分のことを語るつもりはなかった。だというのに、訊かれたせいで嫌でも記憶が刺激されてしまう。


「もう……嫌だ」


 ダークブラウンの瞳から涙がこぼれた。涙は絶えることなく嵐のほほを濡らした。


「はぁ……仕方ないわね」


 そんな声が聞こえたかと思うと、スッと顔に何かが当てられる。ハンカチだ。

 彼女が自分のハンカチで嵐の涙をぬぐっていた。


「死にたい理由なんて、訊いた私が悪かったわ。もう答えなくていいから。だから――泣きたいだけ泣きなさい」


 強く優しく嵐の気持ちを受け止めてくれる彼女に、嵐は既視感を抱いた。初めて優奈を意識した時と同じものを彼女から感じたのだ。


「ありがと……」


 素直にその厚意を受け取り、満足いくまで泣いた。





「ごめん。もう大丈夫だから」

「その顔で言われても説得力0だけど」


 泣いて泣いた十数分。負の感情は涙と一緒に体外に排出されたらしい。

 まだ身体は重いし、これからについて考えると頭が痛くなるけれど、胸を押しつぶすような苦しさは感じない。

 重いまぶたを押し上げて、目の前であきれ顔をする彼女にお礼を言う。


「ありがとうございます。あなたが止めてくれなかったら」

「今頃は三途の川を渡っていたでしょうね」


 そんな辛辣なことを言う彼女は、優奈とは似ていない。


(なんだか、優奈に会いたいな)


 似ているけれどまったく違う彼女の姿を見ていると、無性に優奈の笑顔が欲しくなる。


「私はもう行くわね。病室の友達も待ってるだろうし」

「え、友達?」

「あぁ、別に病気とか怪我じゃないから。出産よ、出産」


 一瞬聞いてはいけないことを聞いてしまったかと緊張したが、慶事だったらしい。


「そうだ連絡先交換しときましょう」

「え?」

「万が一、あんたがまた死にたくなったら電話ちょうだい。今はすっきりしてても、考えすぎて馬鹿な真似するかもしれないでしょ」


 ドアの方へと歩きながら、彼女はスマホを取り出した。


「そういえば、まだ名乗ってなかったわね。私、三千院つぼみっていうの。よろしくね」

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