25.罠
夜十時。手紙で指定された二二時に、嵐は二年五組の教室を訪れた。
(まだ誰も来てない、か)
嵐は電気も点けず、ケータイの明かりのみで周りを照らす。弱くて心許ない光だ。
校内の電気はほとんど消えていて、非常口の緑色の光が所々にあるだけ。それすらも、今の嵐の周りにはない。
二二時五分。握りしめるケータイに浮かぶ時間を見て、八つ当たり気味にケータイに力を込めた。
(呼び出しておいて来ないつもり?)
わざわざトイレに隠れてこの時間を待っていた嵐にとって、すっぽかされるのは酷く腹立たしい。騙されてんじゃねーよバーカ、と脳内の女子生徒が舌を出して嫌みな笑顔を浮かべている。
イライラ。イライラ。
嵐の足がリズムを刻む。何回目か分からない時間確認をすると、すでに約束の時間を十五分以上過ぎていた。
(よし、帰ろう)
もういい。これ以上は時間の無駄だ。
そう決意して、嵐はケータイのライトで廊下を照らしながら昇降口へ続く階段に向かった。
「あーれー? 何帰ろうとしてるわけ?」
突然後ろから掛けられた声に、ビクンと大きく体を震わせて身を反転させた。心臓がドクドクと早鐘を打つ。
「……遅刻とはいい度胸だね」
嵐は声の震えを力で抑え込んで言った。
数メートル先には、懐中電灯を持った女子生徒が二人――結衣と美智だ。
「悪いわね。寝坊よ」
クスクスと意地の悪い笑みを含ませて言う結衣に、嵐は眉間にしわを寄せた。
「あー、そう怒らないでよ。話し合いに来たんでしょ?」
妙に上機嫌な結衣。隣で美智も笑みを浮かべている。もっとも、美智は元々穏やかな表情のことが多いのだが。
「悪いついでに、もう一つ謝らないといけない事があるのよ。……場所、変更ね。二年五組じゃなくて女子更衣室で話しましょう」
「なんで?」
「なんで、って……この場所見て分かるっしょ? 教室だと電気点けられないから」
校舎は川の字に並ぶ三棟を、渡り廊下でつなぐ形になっている。この二年五組の教室は車道に面していて電気をつければすぐに部外者に見つかってしまう。それを承知で嵐も暗闇の教室で待っていたのだ。
結衣が変更先に選んだ女子更衣室は真ん中の棟。電気を点けても道路側からは分からない。
昇降口に向いていた足を再び返す。そうして結衣と美智に数メートルの距離をとったまま後に続く。
先程向かっていたのとは反対の階段にたどり着き、そこを下りる。
一階まで降りきった彼女達は二人して嵐を振り返った。
「何? 別に逃げないよ」
二人の女子高生を収めた嵐の視界のその端を、影が駆け抜けた。続いて後頭部に強い衝撃を受け、一瞬の間があった後鈍い痛みに襲われた。そのまま体が傾ぐが、不運にも階段の真ん中を歩いていたため捕まるものは何もない。
――ヤバイ。
しまった。やられた。
女子相手だということで、まさか暴力的な手段に訴えてくるとは想定していなかった。後悔してももう遅い。
嵐の意識はそこでふつと途切れた。
何かが顔に触れている。
「おい、起きろよ。……起きろっての!」
低い声。不愉快という意味ではなく、純粋に声の高さが低いのだ。
声に従うように意識を浮上させると、目の前で見知らぬ男がペチペチと頬を叩いていた。
「……だ、れ?」
思考能力が戻っていない嵐は素直に思ったことを口にする。
「あ? 俺のこと忘れたのか? 憲次だよ。桜木憲次。同じ小学校だったろ? 嵐ちゃ~ん」
嵐は息を飲んだ。揶揄を含んだ声色で呼ばれた名前に、おぞましい記憶が刺激される。
――嵐ちゃん。女みたいだな……もしかして……。
いじめっ子がニヤニヤとした笑みを浮かべて、嵐を見ている。上から下まで舐めるように、視線を這わせてくる。記憶の中の彼の視線から逃げ出し、現実へと意識を戻した。
「……桜木」
そうだ。いじめっ子の名前も桜木憲次だ。目の前の男は、記憶の中の少年より年をとっているがそのいやらしい眼光は変わらない。
背筋に怖気が走り、身体が硬直した。なんだか息も苦しい。
「あれ? まだ何もしてないのにー、泣きそうじゃん? ハハッ、ウケる」
桜木の後ろから耳障りな声が飛んできた。桜木の背後の少し上に視線をやると、そこには心底おかしそうに笑みを浮かべた結衣の姿。
ここで嵐は自分が座らされていて、桜木が屈みこんで視線を合わせていることに気がついた。除々に自分の置かれた状況を把握していき、そして――泣き出したくなった。
着ていたはずのYシャツは脱がされて上半身は裸。素肌の腕には縄が食い込み、万歳の形で固定されている。下半身は、ズボンは脱がされていないものの、足首を縄でひとまとめにされていた。
――助けて。
約八年ぶりに、弱い嵐が顔を出した。
おそらく次回は閲覧注意になります。




