21.噂
花が一輪、優奈の机に生けられていた。
「何これ?」
つい先日も昇降口で同じことを呟いた気がする。
最初は、誰かが別の場所に移すために一時的に置いているのだと思って花瓶には触れないでいた優奈だったけれど、それは誰にも回収されることはなく、そのまま授業が始まってしまった。仕方がないので、邪魔にならないよう教室の後ろにあるロッカーの上へと移動させる。
――以後、こんなことが度々起こるようになった。
(誰が何の目的で置いてるんだろう?)
優奈が抱いた違和感はどんどん大きくなっていく。
そんなある日、
「優奈、話があるんだけど」
ひょいと顔を覗かせて、廊下から教室の優奈に声をかけたのは嵐だった。突然の訪問 に優奈は戸惑う。
「ここじゃちょっと話せないから……ついて来て」
嵐はそう言うと優奈の返事も聞かずに、歩き出してしまう。
慌てて立ち上がった優奈は危うくイスをひっくり返しそうになった。小走りで嵐を追いかける。
「先輩、いったい何のお話ですか?」
「……」
嵐は左右に視線走らせるだけで、返事をしない。
「ここじゃダメだ」
緊張した様子でそう言われてしまえば口を閉じるしかない。
終始無言のまま歩いた先は、放送室だった。嵐はポケットから放送室の鍵を取り出す。その姿は家の鍵を取り出しているのと同じくらいに自然で、いつも出入りしている事がうかがえた。
「ここなら、誰にも邪魔されない。優奈」
放送室に入るなり、嵐は強い口調で優奈 に詰め寄った。怒っているのか、苦しんでいるのか。そんな風に感じてしまうほどに嵐の瞳には熱が籠っている。どう見てもいい予感はしない。
優奈はゴクリと唾を飲み下した。
「二年の三千院が他の生徒に嫌がらせをしてる、って噂を聞いたんだけど、どういうこと?」
「へ?」
予想もしていなかった問いかけに、間抜けな声が出た。一拍だけ硬直してしまっただけで、すぐに首を振る。
「し、してないですよ!」
「……」
否定しつつ、優奈は心当りを探していた。何かしたか、と。けれど最近友人ともめた覚えはない。
徐々に考える人間関係の範囲が広がっていく。校内の噂なので家族や親せき関係は除外する。その上で順に考えていく。友人、クラスメイト、そして顔見知り。
「あ!」
「何?」
「いえ……あの」
脳裏に浮かんだのはローファーの一件だった。ローファーの件は北斗が強制的に終わらせただけで、相手の女子生徒達は納得していなかった。
「何か思い当る事があったの?」
そう聞いてきた嵐の表情は驚きと……失望が表れていた。
――ズキン。
眉と口元を下げているその顔に、胸が痛んだ。
(止めて)
そんな顔で見られたくない。いつもの柔らかい表情を見せて欲しい。なんなら、眉を寄せている不機嫌な表情でも構わない。とにかくその顔を見たくなかった。
「違います」
急いで否定する。けれど嵐がどんな反応を返してくるのかが怖くて、まっすぐに彼を見ることが出来ない。
顔を下げたままで、本永美智のローファー が自分の靴箱に入っていた事、そしてその後に起こった事を話した。
優奈は知らない。優奈がその出来事をかいつまんで話している間に嵐の顔は表情を変え、優奈が望んでいた通りに眉間に深いシワを寄せた不機嫌な顔になっていた事を。
「なにそれ、優奈には全然非がないじゃない」
悲しみは一切なく怒りのみが乗った声色を聞き、優奈はようやく顔を向けられた。不満を全面に出す嵐の顔に、心に乗っていた重しが消える。
「でもまだ、その噂を流した人があの時の一件の人だと決まったわけじゃないので」
「いや、そいつらに決まってる。他に心当たりないんでしょ?」
優奈は黙り込んだ。
ローファーの件で北斗も言っていたが、証拠もないのに犯人扱いはしたくない。何より、快く思っていない結衣と同じ事を自分がするのかと思うと、自分の心が汚くなってしまいそうで抵抗がある。
優奈の様子を伺っていた嵐が口を開く。
「……分かったよ。優奈がそう言うなら、俺はまだ疑わない」
嵐は優奈の髪を優しく撫でた。
「でも何か困ったことがあったら、遠慮なく頼ってくれていいから」
「与田先輩……」
嵐の瞳は優しく細められていて、優奈の心の中に温かいものが広がった。
「先輩はどうして……、どうしてこんなに良くしてくれるんですか?」
噂の真相を確かめに来て、優奈がいじめに思い当たったと思った時には心底悲しい顔になり、最後には優奈の意志を尊重する。行動のすべてが、優奈を信じていると物語っていた。
「優奈のことが好きだからに決まってるでしょ」
なんの力みもなく、さも当然のように嵐は言う。
「っ! な、なんで私なんかをそんなに……好きでいてくれるか、ってことです!」
嵐がなぜ好きでいてくれるのかが分からない。同じ委員会だが、委員長と一委員という以外に接点はなかったはず……。少なくとも優奈には、それ以上の関係は思い当たらなかった。




