19.沸き上がる怒り
女性に手を上げるというのは、涼にとって初めての経験だった。自他共に認めるフェミニストとして生きてきた涼は、したくもない初体験に酷く混乱した。
「ごめん! 大丈夫?」
立ち上がり、フラフラと数歩後ずさった結衣に近づく。彼女の俯いた顔を恐る恐る覗きこんだ。
「な……なんで……、なんで私が叩かれなきゃいけないわけ?」
涙をポロポロと零しながら怒鳴りつける結衣。
女性の涙というある種の最終兵器にギョッとしつつも、自分のやるべきことはしっかり頭に留めていた。
「悪かった。痛いか?」
自分が落ち込んでいたことなどすっかり忘れ、叩いてしまった彼女の頬に手を添える。しかし彼女から返ってきたのは、いつもの絡みつくような視線ではなく明確な拒絶を含んだ敵意だった。
結衣がしている、普段見せない表情に涼は言葉を失った。
「痛いに決まってるでしょ! 叩くなんて信じられない!」
「……悪かった」
絞り出すようにそう言った。
結衣はパンッと涼の手を振り払い、そのまま踵を返す。
彼女の後ろ姿を見て、追うべきかどうかと迷ったが、結局追わずにその場に立ち尽くした。
(追っても来ないんだ……)
しばらく歩いた結衣は、誰もいない廊下を振り返ってそう思った。
あの女――三千院優奈が相手だったら、涼はすぐにでも追ってきただろうか。そもそも無視なんかしなかったかもしれない、たとえ精神的に辛くても。
(三千院のどこが良いわけ? 顔が良いわけでもないし、高校生にもなってメイクすら満足にしないし、スタイルだって凹凸のない、ガキみたいな女じゃん)
結衣の中での優奈はルックス的にはまったく冴えない地味寄りの女子だ。
けれど結衣を何より苛立たせていたのは、見た目が悪いという点ではなく、優奈の性格の方だった。
嵐と優奈の一件は全校生徒の知るところになっていた。当然結衣の耳にも届いている。
その話を聞いた時の結衣は、一時的に放心した後、雷のような激しい怒りを露わにし、周囲の人間を驚かせたのだった。
(だいたい一年の時から涼にアピられといてシカトとかありえねーっつーのに、その上与田先輩までたぶらかすなんて見た目に反してなんて好色なの)
涼に好まれるという幸運を無視し別の男になびくなんて、結衣には信じられなかった。
また相手が嵐だということも、結衣がしっくりこない理由の一つであるが、それは嵐に好意を抱いてのことではない。
(女装好きの変態男が誰を好きになろうと関係ないし。衆人環視の下でキスするとか、マジハイレベルな変態だし)
けれどそんな変態に対する態度と、結衣の大好きな涼への態度がほぼ変わらないというのは大問題だ。
(ちやほやされて浮かれてんじゃねーよ。モテない女がアピられると、すぐ調子に乗るんだから……)
結衣は今朝優奈とぶつかった時の事を思い出し、ムカムカとした不快な感情が沸いてくる。
あの時はあれくらいの皮肉を言ってやるだけでも溜飲が下がったけれど、今はもうそんな程度では気持ちを抑えることが出来そうにない。
涼が優奈にキスした時、結衣は複雑な気分でそれを眺めていた。
本当は眺めたくなんかなかった。
なのに、自分を見てくれなかった涼が、ずっと片想いしていた女とどうなるのかを知りたいと思ってしまった。相反する気持ちのまま見届けた結果に、結衣は激怒した。
その怒りは結衣の行動を後押しするエネルギーへと変換されていく。
――あの女に、自分のしたことを後悔させてやる。




