18.涼と結衣
叩かれた頬を押さえる手に、涙が落ちてくる。自分がこれほど惨めだったことはかつてあっただろうか。
振られた。いっそ清々しいほど完全に。
本当は昼休みが終わるまでにはいつもの自分に戻って、教室に帰る予定だった。けれど、チャイムが鳴り終わった今も、涼は人に見せられる顔をしていなかった。
この時間になってもまだどこの教室にも人が集まる気配はない。
(一時間、ここでサボるか)
誰も来ないなら、どこでもいい。そんな思いから、冷たい廊下に腰を下ろしたその時、
「涼!」
知った声が廊下に反響した。
(結衣だ)
すぐに誰だか気付いたが、正直今、会いたい顔ではなかった。人の様子を伺ってくるくせに、察しが悪いのか正確に問題があるのか、聞かないでほしい事までズケズケと聞いてくる女だ。
こと細かく事情を聞きだそうとしてくることが予想され、身構えた。
「全部見てたよ」
しかし、彼女の言葉は予想とは違うものだった。
「全部、見てた」
返事をしなかったのは聞き取れなかったからではないのに、ご丁寧にも二回言ってきた。
「なんなのあの子! なにも叩かなくても……。ハンカチ、濡らしてきたの。使って」
「いい」
押し当てようとしてきた結衣の手を、素早く拒む。
「別に大したことないから」
「でも……」
もう喋るのすら億劫で、しつこく世話を焼こうとする結衣を睨みつけた。
「なんで……そんな顔するの?」
(あぁ、もう早く消えてくれ)
「どうして分からないんだよ。一人にさせてくれよ」
「なんで? どうして?」
なんでもくそもない。ただ誰とも口を利きたくないだけだ。
悲し気な顔を向けてくる結衣に、涼の苛立ちは増すばかりだった。
「悪いけど。話す気になれないから、もう教室に戻って」
「やだ。こんな状態の涼を放っておけないよ」
(こんな状態だから放っておいてほしいんじゃないか)
涼はついに返事をやめた。結衣がいる事を頭から消し去り、ぼんやりと前方を眺める。
「ねぇ、涼! 涼ってば!」
(僕は何をやってるんだ。なんで三千院さんにあんなこと……。嫌われるに決まってるじゃないか)
反応のない涼に、結衣は何度も呼びかける。
(与田先輩に……というか人に、張り合ってするものじゃないだろう。これじゃあ、三千院さんを利用して与田先輩と自分の価値を比べただけだ。……本当に、何をしてるんだ)
自分が突発的に起こしてしまった行動に、後悔ばかりが募っていく。
はぁ、と無意識にため息が出た。優奈に振られた事が辛いのか、己の軽率な行動が恥ずかしいのか。様々な負の感情がぐるぐると頭の中で渦巻いている。
「別に……あんな女なんてどうでもいいじゃん」
聞かないようにしていたのに、その言葉は何故か耳に残った。
「涼の魅力に気づかないなんて、あの女の方がおかしいんだよ。だから、涼、そんなに落ち込まないでよ。ね?」
「………………」
何を勘違いしたのか、見当はずれの慰めを口にしだした結衣。
「三千院さんは、悪くないよ」
無視すると決めたのに、どうしてもそこだけは譲れなかった。
今まで反応を返してこなかったというのに、優奈のことだけはかばった。そんな涼の態度に、結衣は不満を覚えた。
「なんでそんなにあの女に執着するの? 涼を好きな子は他にいっぱいいるのに……!」
「さぁ、なんでだろうな」
優奈の顔を思い浮かべて、口元がわずかに緩む。キスして、殴られて、振られた。だというのに、まだ彼女の事を好きらしい。
(そう簡単に嫌いになれるんだったら、ここまで付き纏ったりしなかった)
魂が抜けた様な表情をしていた涼に、生気が戻っていく。そのきっかけが優奈だということを認めたくなくて、結衣は涼の肩を揺さぶってこう言った。
「あの女は涼の事なんてなんとも思ってなかったんだよ! 涼の事を殴っておいて、そのまま放置していくような性格の悪い人なんだよ! 涼、いい加減目を覚ましてよ!」
その言葉に、涼の頭にカッと血が上った。全部が全部嘘なら、結衣のデタラメとしてスルーできた。けれど、中途半端に混ざった真実が涼の頭から思考力を奪った。
「お前に何が分かる!」
もしかしたら、結衣の腕を振り払いたかっただけだったのかもしれない――。
涼が勢いよく振った右腕は、結衣の顔を直撃した。
嵐と涼の思考回路は似てるね。




