家出の決意
その日の夜は、満月だった。
両親とシャーロットは揃って食堂で夕食を食べるのだけれど、私は自室でひとりだ。
食事の内容も、7歳のあの日から質素なものに変わった。
まあそれもどうってことはないんだけどね。
前世でもひとり暮らしだったし、むしろ私がいても会話には入れてもらえないだろうから、気まずい空気の中で食べるよりは気楽というものだ。
それに質素といっても貴族にしては、という意味だし、味は文句なしに美味しいので、元一般庶民としては十分な質と量なのだ。
今日もひとりで夕食を済ませると、何気なく見た窓の外から、満月が見えた。
ああ綺麗だなと窓を開けると、まだ寝る支度をするには早いし、庭園に出ようと思い立った。
そこはさすがの侯爵家、庭園には色とりどりの花が咲き誇り、とても綺麗に整備されていて、月見には贅沢なスポットなのだ。
良いことを思い付いたと、そっと部屋を出る。
屋敷の人間からは基本的に放置されているので、アンナにさえ見つからなければ見咎められることもないだろう。
でも念のため、靴音が響かないように静かに廊下を歩く。
庭園に出るには、両親の部屋の前も通らなくてはならない。
別に見つかったところで、どうということはないだろうが、顔をしかめられても面倒だ。
なるべく静かに、と気をつけながら扉の前に足を踏み出すと、両親の話し声が聞こえてきた。
「――――セレスティアを……」
ん?
ぴたりとその足を止める。
今の、私の名前?
珍しいこともあるものだと、つい聞き耳を立ててしまった。
そして私は、その内容を聞いて絶句することになる。
「ベンデル男爵といえば、かなり羽振りが良いと有名だしな」
「ええ、セレスティアのジョブを知ってもなお、嫁に迎えても良いとおっしゃってますし、決定で良いのでは?」
……は?
「侯爵家から男爵家へ嫁入り……かなり身分差はあるが、仕方ないな」
少し神経質そうな声で、お父様が言う。
「でも、相当なお金はこちらに入るのでしょう?それに、関税率も引き下げてくれると言うのだし」
それに答えるのは、かつて社交界の華と名高かったお母様。
これって、間違いなく私の婚姻話、よね。
しかも相手はベンデル男爵ですって?
確か50代も半ばで、相当なお金持ちだけれど、性格に難があり好色家であることでも有名だ。
そういえば奥様が病気で亡くなったって、少し前に聞いた気がする。
まさか、後妻として私を?
「ふん、若くて美しい女なら誰でも良いのだろう。確かにあれは地味ではあるが、見目は悪くない」
「ええ。あまり認めたくないけれど、私達の子ですものね。まあ、あの子も家の為になる婚姻ができて、喜ぶでしょう。感謝すらするかもしれないわ。秋になれば16、結婚できる歳になるし、下手に選り好みしてお荷物になる前に、早いうちに決めてしまいましょう?」
ちょっと待って。
秋になればって、もう数ヶ月しかない。
しかも希望の持てない相手に嫁ぐなんて。
そんなの――――。
「それにしてもシャーロットは良い情報を得てきたわね」
……え?
「ああ、茶会でベンデル男爵が若い後妻を探しているとの話を聞いたのだったか」
そんな、それって。
「それを聞いて奴に探りを入れたら、すぐに食い付いて来たぞ。これで懸念がひとつ片付いたからな。シャーロットのお手柄だな」
『少しだけ、お姉様に意地悪をしてしまいました』
あれは、まさか。
「早速明日にでも顔合わせをと奴からの誘いだ。ふん、気に入られるように、明日くらいは存分に飾り立ててやらないとな」
――――逃げないと。
「セレお嬢様、こちらに」
思わず後すざりした私を、優しい声と手が支えてくれた。
アンナだ。
そして、音を立てないようにと人差し指で唇に触れられる。
そうだ、震えている場合じゃない。
見つかったら、もう逃げられない。
よろめく足を叱咤してアンナの手を取り、なんとか歩き出す。
バクバクと鳴る心臓の音を聞きながら、どうにか自室に戻って来ると、アンナが扉を閉めた。
「お嬢様、どうかお逃げ下さい。お嬢様も、いつかこの家を出ようと思っていらっしゃったのでしょう?それが今日になっただけです。庭園の裏口、今から二時間後にしばらくだけ鍵を開けておきます。さあ、準備を」
「アンナ、知って……ううん、ありがとう」
震える声でお礼を言うと、アンナが優しく微笑む。
「私が一緒だと同僚に気付かれてしまうので、おひとりで。お嬢様なら、できますね?」
「うん、分かった。――――アンナ、さようなら」
ぎゅっと抱きつき、別れを惜しむ。
時間がないから、いつまでもこうしているわけにはいかない。
それでも、この屋敷でたったひとり、私の味方でいてくれたひと。
「どうか、アンナも元気で」
最後にせめて、互いの幸せを祈るくらいはしたって良いだろう。
もう二度と触れることはないだろう温もりに、涙を滲ませながら、しばらく縋りついた。




