マリアと黒猫
「怖いよ……! 一回殴っだだげなのに、何でごんな目に遭わないどいげないのぉ……!」
「は?」
メノアは何を言っているのか。
一回殴っただけ? 何を今さら。
マリアはメノアの髪を掴んで仰向けにひっくり返す。
そして胸ぐらを掴んで、顔を鼻先が触れるくらいまで近付けた。
「アナタが聖女を殺したんでしょうが!」
「意味わがんない……! 私は何もやってないもん!」
「訳が分からないことを……最初に自分で認めたくせに」
マリアはメノアから手を離し、手に付いた血を拭う。
ドサッと地面に落ちたメノアは、また右腕を目に被せて泣き始めた。
声にならない声でブツブツと何か言っている。
「死にたくない。死にたくない。死にたくない」
これは恐らく、マリアではなく神か何かに懇願しているセリフであろう。
(どういうこと……? ただおかしくなっただけ? それとも……本当にメノアがお母さんを殺した犯人じゃない? そんなことありえる?)
マリアの頭の中では、さっきのメノアのセリフがずっと引っかかっていた。
今までのマリアの行動が全て無駄になるかもしれないセリフ。
たとえ九十九パーセント嘘だとしても、やはり気になってしまう。
(《予言》が間違っていたというのは絶対ないし、メノアは《予言》の特徴にも当てはまってる。そもそも、メノアは自分で認めてた。でもどうして急にあんなことを……)
事態をややこしくしているのは、メノアが最初に聖女殺しの罪を認めたという事実。
自分が狙われる理由も理解していたし、聖女のことを憎んでいたし……。
認めていた……ことになるはず。
(あれ……。メノア本人は「聖女を殺した」と一言も言って――ない? 言ってない……気がする。いやいや、考えすぎ)
マリアは今日のやり取りを全て思い出す。
自分とメノアの会話の中で、食い違うところは特になかった。
食い違いや矛盾がないということは、双方頭の中で思い浮かべているものは同じということ。
普通はそうだ。
しかし。
マリアは今日一言も「聖女を殺したのはアナタですか?」と聞いていないし。
メノアは今日一言も「聖女を殺したのは私」とも言っていない。
(もしも……仮に、万が一。お母さんを殺したのがメノアじゃなかったら犯人は一体……いや、それを考えるのは今じゃない。メノアが否定しなかった理由……)
メノアのたった一言で、マリアの頭の中にありとあらゆるケースが想定される。
もしかしたら、メノアは聖女殺しの犯人を知っていて、その人物を守るために戦おうとしたのかもしれない。
もしくは、聖女殺しとはまた別の問題を抱えていて、それのことを聞かれていると勘違いしたのかもしれない。
……ダメだ、こんなことを考えだしたらキリがない。
可能性なんて無限にあるし、本当のことを言ってるのかどうかすら分からないのに。
頭が痛くなる。
そして、ずっと頭の中でモヤモヤしていた。
ここまで来たら、直接聞いて確かめなくては。
「クソッ! アナタ、さっきの言葉説明してください! 本当に聖女を殺していないのなら、他に誰が――――あ」
マリアが追及するために振り返ると。
そこには、もう二度と動かなくなったメノアが転がっていた。
「…………」
腕も変な方向に曲がって、全身埃まみれで、見る影もない。
一応呼吸が止まっているかも確認するが、予想通りだった。
せっかく母の仇を討ったというのに、心は全く晴れやかではない。
本来なら滅多刺しにして魔物の餌にでもしてやろうかと思っていたが……不思議とそんな気力も湧いてこなかった。
これは、マリアが復讐を果たして満足したからではなく、むしろその逆。
まだ復讐を果たせたのかどうかすら分からないからだ。
「……ララノア国に戻りましょう。また《予言》に頼ることになりそうですね」
マリアはメノアの体に触れる。
すると、その瞬間にメノアの死体は消えた。
やはり死んでしまえばそこら辺のチンピラもSランク冒険者も同じ。
人間一人いなくなるだけで部屋が広く感じる。
ただ、元々ここにはなかったはずの、床に落ちている何かがマリアの視界に入った。
「何これ……オカリナ?」
マリアはそれを手に取って確かめる。
楽器にはあまり詳しくないが、確かこれの名称はオカリナで合っていたはず。
何で地下室にこんなものが?
見覚えのないオカリナに驚いたが、数秒考えてどういうことか理解した。
「メノアの持ち物か。変なの」
マリアはオカリナがメノアのものであると断定する。
常にオカリナを持ち歩いているなんて、変な趣味を持っている人間だ。
一応メノアが残した血の跡を綺麗にすると、マリアは地下室の扉を直接触らないようにして器用に開ける。
もうここに戻ってくることはない。
「案外住み心地は良かったですよ」と呟くと、裏道に出て外の空気を吸った。
「お母さんは見てくれてたかな」
マリアは空を見る。
そんなことをしても、母の声が聞こえてくるわけでもないし、眩しいだけ。
しかし、マリアには厳しかった母の言葉が聞こえてきたような気がした。
「はぁ……疲れた」
軽く伸びをしながら、マリアは裏道から人の多い道に合流する。
今までの仕事でこんなに疲れたことはなかったはずだが、今日はやけに疲労が残った。
久しぶりに感情的になったからだろうか。
自分でもイマイチ分からない。
とにかく、この疲れはララノア国に帰る時の馬車でゆっくり取ることにしよう。
「……これもいらないか」
マリアは一応持ってきたオカリナをじっと見る。
そして、ポイっとゴミのようにそれを捨てた。
カンカンと硬い音を出しながら転がっていくオカリナ。
想像の倍くらい転がり続けて、最終的にはベンチの下に止まる。
「あ」
すると、ベンチの下にいた先客――黒猫がオカリナをくわえた。
黒猫とマリアの目が合う。
マリアが投げたものだと気付いたらしい。
マリアも変な気持ちになって、黒猫に近付こうと一歩踏み出した。
だが、黒猫は期待に応えてくれずオカリナをくわえたままどこかに走り出してしまう。
塀を上って人混みの中へ。あれはもう追うことはできない。
ちょっとくらい触らせてもらいたかったが……仕方ない。
「本当に……今日は最後までスッキリできない日ですね」
マリアは自嘲気味に笑うと。
彼女もまた、黒猫と同じように人混みの中へ消えていったのだった。




