彼が戦った意味。
対戦相手が投了したのを見て、アレックスは儀礼通りに頭を下げてそれを受けて。
「ふぅ~……」
それから、椅子の背もたれに身体を預けて、大きく息を吐き出した。
途端にどっと汗が噴き出し、身体がずしりと重くなったように感じる。
ああ。
こんなにも疲れていたのか。
今更ながら、そう思う。
最終局面は、以前シャルロットとの対局において見たことのある盤面ではあった。
だが、そこから更なる変化があるかも知れない。
シャルロットが考えつかない最善手などあるはずもない、と断じることは簡単ではあった。
しかしアレックスは、そんな軽率なことはできなかった。
絶対に、勝つ。
その思いを胸に、全力で頭を動かしていた。
他に打つ手はあるだろうか。
もしそう打たれたならば。
シャルロットとの対局に向き合った日々が、彼の思考力を一段階引き上げていた。
そして、いくつもの可能性を考えていた中で、相手が打つのは、かつて自分が打った手。
無限と言っても過言ではない程に、打てる手のある盤面。
それでも、最善と言える手など限られていて。
追いつめられた若手専業チェス指しが打った手が、かつて自分が打った手であったことに、少しばかり誇りも感じた。
自分が打った手は、決して悪い手ではなかったのだ。
ただ、相手が悪かっただけで。
それが、なおのこと誇らしい。
そして、相手を追いつめた最終盤。
最早ここまできて、小細工をする隙間などありはしない。
一手間違えれば即座に詰む。
そんな状況でもなお、アレックスは全力で考えに考え抜いていた。
ただ、同時に。
相手の打った手がかつて自分が打ったものと同じであったならば、即座に反応した。
それは、シャルロットが打った手。
二人で何度も検証して、この局面であればこれ以上はない、と判断した手。
その手を信じて、迷わずに打った。
それが幾度か続けば、最早相手に逃げ場などなかった。
「……参った。完敗です」
そう言いながら、敗戦から少しばかり立ち直ったのか、対戦相手が右手を差し出してきた。
一瞬だけ考えて、相手が握手を求めているのだと察したアレックスは、慌てて身体を起こし、応じる。
「いえ、一局目は取られたわけですし」
何も考えずに返した言葉は、相手の痛いところを抉ってしまったらしい。
ぐしゃりと顔が歪み、目じりに涙をためる姿を見て、アレックスはようやっとそのことに思い至った。
「いや、あれは……あれはっ……」
否定し、しかしそれ以上の言葉が出てこない。
その姿を見て、アレックスは思い出した。ロイド達から言われていたことを。
目の前で苦悶している彼は、きっとアレックス攻略法を叩き込まれていたのだろう。
そして、それを使うことに……良心の呵責を覚えていた。
きっと、彼の本意ではなかったのだろう。
それでも、彼は従わざるを得なかった。
相手のプロフィールを思い出せば、男爵家の次男。
もしも本当に侯爵家から命じられていたのであれば、逆らうことなど出来るわけもない。
「すまない、私は、私はっ」
それでも、彼は謝罪しようとしている。
きっと、彼の中にはまだ、チェスの指し手としての矜持が残っている。
ただ。
いや、だから。
それ以上を言わせてはいけないのだろう。
何故だかアレックスには、そう思えた。
「気にしないでください」
色々と、言いたいことはある。
だが、それをぶつけるべきは、きっと彼ではない。
だからアレックスは、笑って見せた。
「僕も、一人ではなく、二人で指していましたから」
疲労困憊の顔で、しかし、心の底から誇らしげに。
虚を突かれた相手は、言葉を失い。
それから、苦みに満ちた笑みを見せた。
「そう、ですか。ならば、私が負けてしまっても仕方がなかったのでしょう」
彼は、二人どころではない人間が関わった戦術を授けられた。
その上で、負けた。
であれば、二人がかりで来られたことなど、些細なことでしかないだろう。
「改めて、私の負けです。……あなたの勝利に、心からの賛辞を」
「……ありがとうございます」
本来であれば、あなたも強かった、などと返すのが本来の儀礼ではある。
だが、そう返せば、なおのこと彼を傷つけてしまうのだろう。
今のアレックスには、そのことが痛いほどにわかった。
「いつか、また。来年の大会でもし会えたならば、その時に改めて決着を付けられたら、と思います」
「なっ……そ、それはっ」
アレックスが続けた言葉に、対戦相手は驚きの声を上げる。
彼のチェスプレイヤー人生は、ここで終わりだ。
そう、思っていた。
だが、被害者であるアレックスが。
それも、男爵家の人間などどうとでも出来てしまう侯爵家の嫡男がこう言うということは。
理解して、彼は最早何も言うことが出来ない。
そんな彼を見て、アレックスは笑う。
「ただ……それは、叶わないかも知れません。僕が出られないかも知れないから」
「……は?」
ここまでの強さを見せたアレックスが、出られないかもしれないと危惧する。
その意味を汲み取りかねた彼は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になり。
そんな彼へと、アレックスは少しばかり意地の悪い笑みを見せた。
「これから、わかります」
そう言うとアレックスは、運営スタッフに促されるまま、表彰式典へと向かった。
もちろん、二位となった彼も参加することにはなるのだが……彼はまだ、立てずにいた。
それからしばらくして。
サマートーナメントの表彰式が始まった。
居並ぶ関係者達は、軒並み満面の笑顔。
彼らは、ゲッシャロウ侯爵の企みには全く関与していなかった。
だから、忖度することなく高位貴族であるオードヴィット侯爵家の嫡男が優勝したこの結果に、安堵していた。
元々、侯爵からは配慮など不要という言葉を得てはいた。
だがそれでも言葉の裏を勝手に読むのが貴族というもの。
彼らは、どんな形であればオードヴィット侯爵の機嫌を損ねない結果になるかを考え続け、考える必要がなくなった結果となったことに心の底から安堵したのだ。
その後、とんでもない爆弾が投げ込まれることなど、想像もせずに。
二位までの表彰が終わり、アレックスが舞台の中央に立つ。
顔を上げれば、割れんばかりの拍手を浴びせてくる観客達。
敗者の関係者であろう複雑な表情をしている者もいるにはいるが、それでも非難めいた色はない。
まして、目を動かせば。
満面の笑顔を見せているグレイ、ボロボロと涙を零しているジョシュア、うんうんと頷いているロイド。
それから、感動した面持ちのテレーズにアデライド。
友人たちがそれぞれに見せる表情に笑みを深めながら、視線を動かして。
シャルロットが、いた。
目じりに涙を溜めてはいるけれども、今まで見た中でこれ以上ない程の笑顔で。
ああ。
彼女に、こんな顔で笑ってもらえた。
それだけでも、途方もない達成感を感じたのだけれども。
まだ、終わっていない。
彼の本当の闘いは、これから始まるのだから。
表彰を受け、優勝者としてのコメントを求められた彼は、一歩前へと進みでた。
「若輩の身ながら、このような栄誉に預かり、心から光栄に思います」
最初の一言こそは定型のものだったが。
そこから先。
喉を鳴らして唾を飲み込み、それから大きく息を吸いこんで。
アレックスは、腹を括った。
「しかし、この勝利は私のものではありません!」
表彰式という場のせいか、一人称が僕から私になっている。
そんな違和感を気づかせることなくアレックスの発言は続いていく。
「私は、今日に至るまで研鑽を積んでまいりました。一人ではなく、二人で」
それが誰かは、言うまでもない。
アレックスと、その周囲の人間は知っている。
ただ、それ以外の人間はわからない。
家庭教師のことだろうと思うのが普通の思考なのだろう。
だからアレックスは、更に言葉を重ねた。
「それは、私の婚約者であるシャルロット・ダンドゥリオン侯爵令嬢なのです!
私は、チェスを覚えた当初から、彼女と研鑽を重ねてきました。
だから、はっきりと言いましょう!」
まくしたてるように言って、一度言葉を切る。
次の言葉こそが、最も大事なのだから。
「彼女は! シャルロット・ダンドゥリオン侯爵令嬢は!
私よりも、遥かに強い! 私など、足元にも及びません!!」
一瞬の沈黙が訪れて。
それから、地響きのようなどよめきが生じた。
誰もが想像もしなかった言葉。
一笑に付すことなど出来ないアレックスの表情。何よりも、彼の立場。
サマートーナメントを制した侯爵家嫡男が、表彰式の場で狙いすましたように発言した。
その重み、意味を理解出来ない人間など、この場にはいない。
そして、きっとそれは事実なのだろう、ということも。
だからアレックスは戦ってきた。
戦い抜いた。
誰にも異議を挟ませないために。
「だから私は、要求したい! トーナメント優勝のタイトルも副賞も要りません、ただ一つだけを望みます!
彼女に、シャルロットに、来年のサマートーナメント出場権を!
いえ、予選出場権だけでも構わない! 彼女なら、きっと勝ち上がるから!」
侯爵令息が突き付ける、前代未聞の要求。
どう対応すべきなのか、まるで見当もつかない運営サイドの貴族達が慌てふためく中。
「……アレクのバカ」
シャルロットはぽつりと零し、ついに堰を切ったかのごとく、涙を流した。




