伯爵令息はボコられかける。
「……ということがあったんですよ、酷いと思いませんか!?」
ガツン、と勢いよく打たれたアレックスのポーンのせいで、俺のルーク、城塞を意味するコマが倒された。
眉間に皺を寄せながら、俺はその討ち取られたルークを盤上から取り除く。
「いや、むしろ今の俺の方が酷い状況だと思うんだがな?」
はぁ、と溜息を零しながら、俺はルークを手元の駒台に置く。
盤面は劣勢、むしろなぶり殺しじゃないかという勢いで、俺の陣地はズタボロだ。
授業も終わった放課後、執務が必要なことが多々あるため設置されている学院内の王太子専用室にて、俺はアレックスからボロボロにされていた。
チェスで。
いや、チェスで、というと若干誤解も生じるだろう。
この『チェス』、俺の前世、地球でのそれとは結構違う。
これもゲーム世界だからか、それともこの世界の事情がそうさせるのか、大きな相違点があって。
「くっそ、ええい、今やられたルークを待機所にあげて……こっから、どうしろってんだ!」
頭をかきむしりながら、俺は嘆きの言葉を虚空へ向かって放つ。
ちなみにグレイは楽しそうに盤面を見ているし、ジョシュアは執務机に座って書類とにらめっこだ。
時折ちらちら視線をこっちにやってくるあたり、こっちが気になってるのはなってるんだろう。
「ええもう、僕もわからなくなったから、最終的に詰んだわけでしてね!」
「おまっ、これその再現かよ、ふざけんな!?」
数日前に指した手を、寸分違わず指してきたらしいアレックス。
まじでこいつの記憶力はどうかしてる。
そして、こんな記憶力を持つアレックスをズタボロに出来るシャルロット嬢は、もっとどうかしてる。
くっそ、こんな場面だったら防御のコマを出すのが定番なんだが……どこに打っても詰む未来しか見えんっ!
そう、この世界の『チェス』と呼ばれているものは、地球のものと違い、取られたコマを出すことが出来る。
将棋とも違い、取ったコマではなく、取られたコマ、だ。
これは『チェス』の元となったこの世界の戦争に由来してるんだと思うが……先日のダンジョン攻略で述べたように、この世界には『帰還石』と呼ばれる、一定のダメージを受けると自動的に指定の場所に戻れるアイテムがある。
……そんな便利なものを、お偉い方々が、戦争に利用しないわけがない。
ということで、この世界の『戦争』は魔力貯蔵庫となる拠点を確保してから行われる。
それによって、限定的ではあるが『帰還石』が使用出来るようになり、ある程度の安全性を担保しながら『戦争』が出来るのだ。一部の方々にとっては。
だから、この世界の『チェス』においては、取られたコマを手元に戻して、再度戦場に送ることが出来る、というルールがあるし、取られたコマを盤上から取り除くのは取られた側の仕事、とうわけである。
ただし、ポーン、歩兵を除いて、という縛りがあるのだが。
ダンジョンであれば、無限と思えるほどに湧き出てくる魔力を利用して平民冒険者も『帰還石』を使うことが出来る。
しかし、人間が勝手に設定した戦場に、都合良く魔力が湧いて出てくることなど、当然ありはしない。
そのため、平民兵は戦場で『帰還石』を使うことが出来ず、戻ってくることが出来るのは騎士爵以上の準貴族・貴族連中のみ。だからポーンは倒されても再度出すことができないわけだ。
そんな嫌な現実まで再現しているのがこの世界の『チェス』なのだが……それが当たり前すぎて、俺以外の人間でそのことに疑問や嫌悪を抱いた人間を見たことはない。
……一応念のために言っておくが、転生者であろうミルキーは『チェス』に触れているところを見たことがないため、彼女がどういう見解を持っているかはわからない。
これは公平性の担保のために言っているのであって、彼女のフォローのためではない。
「これもう終わってね? ロイドが挽回出来るのが見えないんだけど」
などと俺が現実から逃避しかけていたところで、グレイが容赦なく現実を突きつけてくる。
ああそうさ、多分後三手くらいで詰むだろうさ!
取られたコマを出せるなら千日手に持ち込めるんじゃね? とは俺も囓ったころに思った。
だが、そこはルールも考えられていて……打つ側は、以下の行動から選択することになる。
・倒されたコマの中から一つを選んで待機所に上げつつ、盤上の駒を動かして一手を打つ
・待機所からコマを盤上に打つ。ただし打てるのは8×8マスの中で打ち手側三行と指定されている自陣内のどこか
これらのルールがあって、延々耐えるということが意外と出来なかったりするのだ。
まず、コマを取られるということは、そのコマがあったところに敵のコマが侵入してくる、ということ。
これだけで、位置的には1マスずつではあるが追い込まれてくるわけだ。
それから、待機所に上げるのと待機所から打つのが同時に出来ないのが地味に痛い。
倒されたコマを即使うことが出来ないのだ、強いコマを失った直後など大ピンチである。
それから、出し続けたら意外とすぐに待機所からコマがなくなってしまうしな。
そして今、防戦一方な中でクイーンの次に強いルークを落とされたわけだから、俺がどれだけ追い込まれているかわかろうというものだろう。
「ああもう、ほとんど終わりかけだよ、くっそ!」
などと下品な言葉も出てしまうが、こいつら相手なら問題はないだろう。
……相手は公爵令息、対戦者は侯爵令息、近くで聞いているのは王太子殿下、という事情は置いておくとする。
置いておきすぎだろ、我ながら。
「わかりますかロイド、僕の苦悩が、絶望が!」
「うっさい、わかりたくねぇよマジで!」
若干厨二病的な何かに酔っていそうなアレックス。
まあその。勝負事で一方的に優位な状況だと確信したら、そうなってしまうのはわからなくもない。
俺にだってそんな時代もあった。人それを、黒歴史と呼ぶ、が。
今こうしてぶつけられると、それはそれで理不尽を感じてしまう。
「これでロイドが負けたら、アレックスのダブルスコアか~」
「ロイドがそんなに負けるのは、珍しいな」
などと外野は気楽なことを言っているが、それは正直仕方ないところがあると思う。
俺は前世でもろくに将棋やチェスをやってなかったし、こっちの世界の『チェス』もある程度触っているだけで、棋譜を買いまくってるアレックスほど熱心には勉強していない。
もちろん、ジョシュアやグレイ相手には余裕で勝ち越しているのだが、勉強量が桁違いなアレックス相手にはどうにも分が悪い。
それでも他の二人に比べれば遙かにまし、ということで俺が練習相手としてちょくちょく付き合わされているんだが……ここまでボコられると、俺がいる意味あんのか? とは思う。
いや、正直さっさと解放してくれ、という思いが強いのも事実だが。
「ああもう、これでどうだ!」
投げやりに言いながら、自暴自棄に打った手。
正直なところ、ろくに検討もせず、というか出来ず、適当に打った手だった。
そのこと自体はアレックスに失礼だし、申し訳ないことをしたと思う。
だが。
「え? ……う、うん? ええと……これ、は……え??」
その一手を見て、アレックスは困惑し、硬直した。
思わぬ反応に、俺もつられるように盤面を注視し、検討したのだが……どう考えても、ただの適当な一手だ。
ただ。
「……え、ええと……これは、こう……いや、こう……」
絶妙に、アレックスの次の一手がどうにも上手く収まらない。そんな一手になってしまっていた。
だからと言って俺に有利になったわけでもない。
単に状況が混沌とした、そんな傍迷惑としか言いようのない一手。
しかしそれは、俺以上にアレックスを混乱の極みに叩き込んでしまったようだ。
「え、どしたんアレックス」
「いや、こんな手、どの棋譜にもなかったし、こんな盤面見たことがなくて」
不思議そうなグレイへと、弱々しい声で返すアレックス。
そりゃそうだろう、素人が苦し紛れに打った手だ、プロが打つなんてありえない。
ありえないからこそ、頭の中に膨大な棋譜を叩き込んでデータベースとして活用しているアレックスには理解できないし、バグってしまっているのだろう。
何しろ打った俺にも理解できないからな。
「と、とりあえずこれで……」
すっかり勢いを削がれたアレックスが打った手は、攻めの手としては鋭さに欠けるもの。
これがチャンスと見た俺は王の近くにさっき倒されたルークを配置して、守りを固めつつ自陣奥から一気に相手陣内も狙う姿勢を見せる。
攻勢に出ていたアレックスからすれば、守るべきか攻めるべきかの判断が迫られるところ。
……いや、どう考えても攻めて押し切るべきだと思うんだが……残念ながら今のアレックスにはその判断がつかないらしい。
「これは……守るなら、こう……いや、こうか……?
攻めるなら……いやこれは、攻めきれない……?」
さっきまでほとんど考えることなしに攻めの手を次々繰り出してきたアレックスだったが、守りと攻めの両方を考え始め、その答えがいつまで経っても出てこない。
これは……と俺は視線を盤面から一瞬だけ動かす。
気付かれないようにと思って慎重にしたのだが、食い入るように盤面を見ているアレックス相手には要らぬ心配だったようだ。
ようやっと決心がついたのか……いや、あれは決心したって顔じゃない、決めきれない中で打とうとしてるな。
だが。
アレックスがクイーンに触れた瞬間チリリと小さな金属音が鳴り。
「あ、時間切れじゃん」
「なっ……なんですってぇぇぇぇ!?」
悲痛な叫びが、執務室に響いた。




