怒りと哀しみ
レティシアは徐々に足音が近づいてくるのがわかった。彼女は軋む音の大きさから男性と判断し、その人物が魔力を帯びていることから父ではなく、明と結論づける。
すでに階段は上り終えたようだった。足音はことさら大きくなる。確かな意志を持って、明は誠の部屋に向かっていた。
レティシアはことさら自身の姿を隠し立てようとする気もなくなっていた。所詮、知られたくないという気持ちはくだらぬ過去への感傷に過ぎなかったのだ。
彼女はごく自然体で明の到着を待った。すでに彼女の瞳に涙はなく、あたかも先ほどまでの彼女の痴態が夢幻の中での出来事のようであった。
彼女にとって明の来訪は別段驚くべきものではなかったのである。
足音が扉の前で止まる。彼は不自然にゆっくりここまで歩いてきていたが、扉の前で彫像のように固まって動かなかった。レティシアには彼が息を呑んだのがわかった。
彼は驚愕したのだろう。この部屋から漏れ出る濃密な魔力に飲み込まれんとしているのだ。魔法使いといえど、彼女にとって一般人より強い程度の認識でしかなかった。
きっと彼はわたしが変身を解いた瞬間から、暴虐のような圧迫感に襲われていたに違いない。ともすれば、魔力に鈍感な一般人よりも、魔力を感知できる魔法使いの方がよほど脆弱に思われた。
ここまでなんとか辿り着いたものの、いざ部屋の前に到着すれば、さらに凶悪無比な魔力の大海が待ち受けていた。彼は荒波に身一つで抗うことに躊躇いを覚えたのだ。
彼がどうしてここにもう一度やってきたのかは知らないが、碌でもないことに決まっている。
伝わってくる彼の緊張感は、かつて戦場で味わったものに酷似していた。
「──誠、入るよ」
乱暴にドアがノックされると、返事も待たずに明は荒波に立ち入った。すぐさま網膜に飛び込んできたのは陽光に照らされる神秘的な少女であった。明の意識は扉を開けたまま数瞬遅れ、己が見惚れていることの自覚に至った。
レティシアはそんな明を冷めた目で見ている。
「──驚いた。そっちが今の君の本当の姿なんだね」
「へ、ぇ。信じる……の」
明は冷や汗を額に頬に垂らしながら、余裕を装って椅子に座る。彼は“聞いていたからね”と、言った。
「う……そ。明は、そんなタマ……じゃない」
レティシアは事も無げに言う。明は不自然なまでに冷静すぎるのだ。いくら聞いていても、親友が女になり、今の今まで魔法で隠していました、と言われて“はいそうですか”なんて言わない。
その確信が彼女にはあった。
「僕が君を誠の偽物の可能性がある、と糾弾しないことがおかしいかい?」
明は苦笑して言う。
彼女の返事を待たずして、明は続ける。
「それともこの服が気になる?」
レティシアはこくりと頷いた。明が着ている服、一般に巫女服と呼ばれる赤袴を着ている彼は、生来の女性的な顔と相俟って、最早黒髪の美少女と呼んで過言ではない姿になっていた。これが誠であれば、声も高々にツッコミを入れていただろうが彼女はそんなことを気にもせず、ある一点のみに注目していた。
彼が着ている巫女服、帯一本繊維の一つ一つにまで夥しい量の魔力が練り込まれてるのだ。
まるで、戦闘用のように。
「ただの用心だよ。君はさっき随分と怒っていたようだったからね……それとこの格好は父の趣味だ。僕としては何としてでも着るのを回避したいのだけど、戯けたことにこれが現在最強の魔術強化された服という。僕が望んで着ているものではない。絶対に勘違いしないでほしい」
明は首を竦めて白々しく言う。レティシアの反応を伺っているようだ。しかも途中からは明らかに私怨が入り交じり始めていた。さらには彼は裾を揺らしてみたり袴を恥ずかしそうに見てみたりで、レティシアを前にして隙が多すぎる。
まざまざと格の違いを悟らされてなお、どこからその余裕が来るのか、レティシアにはそれが不思議だった。
戦闘用の服装だって、所詮水たまりが池になった程度の増加にすぎない。服にしては破格過ぎる効果であるが、それで勝てると思うほど明は愚かではないはずだ。
彼女は何も言わない。明を無表情に見つめて、出方を探っている。
その姿に明はやりにくさを感じていた。聞いていた通りとはいえ、本当に感情が読めない。表情は見えないが、妖精のような容姿に、軽やかな鈴の音の声。誠との同一性など欠片もなかった。
しかし彼は含み笑いさえ浮かべて、なにかを企てていた。
「もう、怒って……ない。ただの……わがまま」
なんにせよ、彼女はぴくりとも眉を動かさない。ほんの数時間前のことを考えれば、怒り狂ってもおかしくなさそうなのに、彼女は淡々としていた。
何故ならレティシアは明が来る前に、明に対する憎悪を乗り越えてしまっていたからだ。さらに消えゆく誠の執着が彼女に過去の回想を行わせていた。それ故、彼女は明に暴力を振るうことに必要以上の忌避感を覚えていたのだった。
「……昔、君のおやつ勝手に食べたんだよね」
「気にして、ない」
抑揚無くレティシアが言う。
「……君はつくづく服のセンスがないね」
ぶかぶかなパーカーとズボンを揶揄して言う。
「服、ない」
彼女は服をちらりともしない。そればかりか、質問の意図がわからないと訝しげに明を見るのだった。
それを見て明は早々にレティシアを怒らせるのを諦めた。慣れぬことはするべきではないと悟ったのだ。さらに言えば、今言った言葉がブーメランとなって彼の自尊心を傷つけた。
「はあ……わかった。無意味な問答は止めよう。どうにも僕には君を怒らせることはできないようだ」
明はやれやれと大仰に首を振った。そこに中途半端な諦めきれない挑発の意図も含まれていたが、やはりレティシアはピクリとも感情を動かさなかった。
今度こそ、明は諦めた。彼女は意図を知り、より一層警戒心を強めた。
明の黒耀石にも似た瞳が、裂帛の気合いと覚悟を込めて爛々と輝いた。
「正直に言おう。僕は君が誠を騙っている偽物だと思っている。僕は誠の家族のように純粋にはなれない。魔法を知っている分、余計な雑音が僕に警鐘を鳴らしているんだ」
明は身を乗り出して鋭く切り込んだ。
「しかし同時に僕は君を信じようとも思っている。これはひどく感情的な気持ちだ。僕の直感が君を誠だと言っているんだ」
レティシアは何も言わず、続きを促す。
「僕の理性は君を疑い、僕の感情は君を信じている。どちらか一方に安易に従おうとすれば、必ずアンチテーゼが待ったをかける。だからだ。僕はなにか決定的な証拠が欲しい。君が誠か否かを信じさせる、決定打が欲しい。そうでなければ僕は、ずっと宙ぶらりんのまま親友を疑い続けなければならない」
明はレティシアに“誠である証拠を見せろ”と言った。チリチリと明を刺すプレッシャーがにわかに騒ぎ始めた。
「たとえば」
「……そうだね。僕と誠しか知らない思い出、と言っても魔法が使えれば他人でもクリアできてしまうね……誠っぽくしてみせて、これは当人にやらせても難しそうだ。はて、これは予想以上に難題のようだ。人に、己の記憶以外で当人たる証拠を見せろ、とは」
冷や汗を流しながら、明は飄々と言った。
レティシアの瞳がつまらない人間でも見るように、剣呑な光を宿す。それを明が試すように受け流す。
「つまり……信じる気……ない……」
「そうは言っていないよ。むしろ信じたいとさえ思っている。理性より、僕は感情に従いたいからね。たまには非合理だっていいじゃないか」
彼の言っていることは支離滅裂だった。非合理がいい、と言っておきながら彼は証拠を求めている。
誠はますます降り懸かるプレッシャーを肌で感じながら、余裕の表情を意地でも崩そうとしなかった。なにかを待っているようにも、その姿は見えた。
「……いい、よ。信じないなら、それで……かまわない」
不意に、明に押し掛かっていた圧力が雲散霧消する。明はその言葉にひどく狼狽した。まるで当てが外れたとでも言うように。
「待った。それはおかしい。君は信じてもらいたいはずだ」
故に、彼の口からはなんとも情けない台詞が吐かれた。
「明は、勘違いしてる。わたしは……もう、信じてもらうの、重要視……してない」
その言葉は明に言葉を失わせるに値するものだった。彼が当初計画していた手法を急遽変更せざるを得なくなったからだ。次の策もあるにはあるが、博打の要素もあり明としてはできれば使いたくなかった方法である。
なにより、明としてはそれが勘違いであった方がよかった。
「だから、信じられないなら……出ていって。できれば、戦いたく、ない……から」
それはレティシアに微かに残った友情による最後通牒だった。明は別の方法を取ることを余儀なくされた。
「……早く」
「待て、誠。わかった。降参しよう。僕が悪かった」
明はレティシアをおどけながら誠と呼んだ。
「……どういう、つもり」
珍しくレティシアが苛立ちを言葉に乗せる。
「どうしたもこうしたも、僕は最初から君が誠本人であることを疑っていなかった、ということさ。さっきまでのはちょっとしたお茶目。デモンストレーションだよ。僕の本題は別にある」
面の皮厚くも彼は言葉を翻しているように聞こえるが、その実、彼の言っていることは本当だった。彼は端から疑ってなどいなかったのである。
その目的は、己を有利な立ち位置に置くことだった。そこからさらに過去のことを聞き出す腹づもりでいたのだ。
──だが、彼の当てはさらに外れることになる。
「……違う。わたしと、誠は、違う。それは、勘違い」
あろうことか彼女は誠であることを否定したのだ。
「────」
彼はこれでもかと瞳を真円に開き、絶句した。
「父も、母も、妹も、わたしと誠を同一人物だと思うから傷つく。だから、明には言って、おく。わたしと誠、は、もう別の人間」
レティシアは珍しく饒舌に話した。熱に浮かされたように、言っておかなければ、とでも言うように。彼女の心境は朝とはかなり異なるものに変化していた。
「……つまり、同じ人間だったときがあると」
「ある」
「別の人間って、分裂とか、複製、なんて言うつもりかい。それとも多重人格、とでも」
「新たな、人格。この身体に入れられたとき、植え付けられた誠をベースにした人格」
明は喉がカラカラになっていくのを感じた。レティシアの言ったことがあまりにもショッキングだったからだ。
「入れられたとき、なら最初はどこに入っていたのさ。そもそも入れられた、とはなに」
しかし彼は自分でも驚くほど冷静だった。言葉の節々の違和感を探し出し、饒舌になっている彼女からなんとしてでも情報を集めようとする。
「魂。誠が召喚されたとき、肉体は分解され魔力になり、魂はこの身体に移され固定された。その時、わたしの人格は、彼の人格を上書きした」
レティシアは今まで頑なに話さなかった秘密を暴露していくことに、まるで露出狂のような歪な快感を感じていた。ひどく劣悪で悪魔的な快感だ。
彼女は次にくる罵声に期待した。誠を返せ、よくも、敵を取ってやる、様々な言葉が考えられる。それらはわたしを辱め、貶め、知らしめるだろう。お前はここにいていい存在じゃないと。
そうしたら、きっとわたしも諦めがつくから。
「……誠をベースにしたと言ったね。それは記憶を保持していると考えていいのかい?」
だが明は依然レティシアに質問を重ねた。記憶を持っている証拠にいくつもの質問を重ねられ、その都度答えていく。明自身が記憶は証拠にならないと言っていたのに、彼の目的が彼女にはさっぱりわからなかった。
ただ、無為に質問が繰り返され、返す言葉が次第に適当になっていく。いい加減レティシアでさえ腹立ち紛れに答えていた所、明は得心を得たとでもいうように晴れやかな顔で言った。
「人格が違って、身体も違う。でも、魂が同じで、記憶も同じ……うん、なら君は誠だ。誠で間違いない」
レティシアは魔力を叩きつけるかどうか真剣に悩んだ。
・・・・・・・・・・・・・・
「……話、聞いてる。わたしは、別の人間、名前はレティシア。誠じゃ、ない」
子供に言って聞かせるように、レティシアは繰り返した。その表情は見えないにも関わらず、疲れているようだ。
「じゃあ君はレティシアであると同時に誠でもある、ということになるね」
明はニコニコと可愛らしく笑っている。巫女服のせいで、もはや美人なお姉さんにしか見えないことに、やはり彼は気付いていない。
「だから──」
「そんなことより、どうして君が頑なに誠じゃないと言いたいのかが僕にはわからないね。最初は美保ちゃんに信じさせたんでしょ? 必死に」
「……ここに、拠点が欲しかった」
レティシアは苦し紛れに言う。
「それに、僕が最初君を信じないと言った時に、君は一応僕に誠だと信じさせようとした。たとえば、と例を出させようとした。さらには僕が最初から信じる気がないと悟った時、確かに君は──レティシアは怒ったように見えたけど、それはどう思う?」
思えば彼女の言い分は一貫性が無かったと、明は思い出す。誠と別人物である、と言われた時こそ狼狽したものの、キチンと理を詰めていけば子供でもわかるような嘘だった。
「……レティシアって言った。つまり別人って認め、た」
子供のように、明を指さす。
「小学生か。僕は君がレティシアであって誠であると認めたんだ。レティシア=誠だよ。その身体に誠って名前は似合わないから、レティシアって呼ばせてもらうね。事後承諾だけど」
レティシアはぽけーと口を開けて、考えた。どうしてこうなってしまったのか、と。最初はわたしが信じさせる側だったのに、いつの間にか立場が逆転していた。これは、おかしい。わたしの諦め、どこに行った。
「で、レティシア。僕はまだ、どうして頑なに誠と認めたくなくなったのか、聞いてないんだけど」
「……それは、違う」
「なら、さっき僕が言ったこと、説明してくれるよね」
容赦なく、しかしあくまでにこやかに明は言った。
レティシアは再び口をぽけーと開けて固まる。
「ちが──」
「説明」
「……ここの拠点を手放さない、ため」
「ふむ、ならどうして途中から否定し始めたのかな。浅薄な僕にはどうにもレティシアの深淵な知謀がわからないようなんだ。まさか、思いつきじゃあるまいし」
レティシアは喋れば喋るほど、ド壺に嵌まっていくのを感じた。そして彼女はそこから、天啓のような素晴らしい方法を思いついた。
「……どうして、わたしに話す必要、が」
「つまりレティシアは自分が誠であると認めると」
思う壺である。明は楽しそうに笑う。彼の中に、もはや一片たりとも彼女が誠でないと疑う心はなかった。こうまで必死に誠であると否定する可愛らしい偽物がどこにいるのだろうか。
それに、と彼は考える。きっと笑える話はこの時間で終わりだから。
「……そ、それは、おかしい」
「おかしくないよ。僕は君が誠だと信じている。君は違うと言う。ならば別人だと信じさせる証拠が欲しい。でも不思議なことにレティシアはそれを証明する機会を放棄した。だったら、ねぇ?」
論理としては穴だらけどころか、子供の口喧嘩のような言い分であるが、上手い言い訳も舌も回らないレティシアはその子供の言い分に打ち負けそうになる。
揚げ足を取るような彼のやり方にレティシアはどうしたらいいのかがわからなくなった。喋れば喋るだけ、彼に有利になっていく。
「…………」
よって彼女はこれ以上ボロを出さないために、黙らざるを得なくなった。大丈夫、己の感情はすでに凍り付き永遠の氷河に覆い尽くされている。よって、黙りは有効だ。浅はかである。
──彼女は、すでにそう言った考えを持つことができていることを、もっと不思議に思うべきだった。彼女の間違いは、すでにここから始まっていたのだ。
彼の目が楽しげなモノから、すっと細く侮蔑するようなモノに変わった。
「黙るならそれでいいよ。どうせ君のことだから、別人だと言えば諦められるとか、出ていけるとか、くだらないことを考えていたんだろ。分かり易すぎる。ああ、確かに君は誠だよ。単純で、自己犠牲、自己欺瞞の固まりで人の気など知ったことではない。自分さえ我慢すればいい、それが最善だと本気で信じてる馬鹿。なら、いつまでも自分の殻に引き籠もってワタシカワイソウとでも慰めていればいいさ。それで君は満足なんだろ?」
それはレティシアにして、頭を踏み躙られるような果てしない屈辱であった。何も知らないお坊ちゃんに、白い視線で蔑まれ、己の過去を彼のスケールの小さな世界で捉えられている。燃焼し終えたと思った怒りが燃料をくべられ激しく燃え立つ。
辛うじて残っている親友という意識が、魔力の暴風を彼に向けることを拒んでいるが、いつまでも指向性を持たせないことなど不可能に近かった。
当然、彼女に黙っているという選択肢は残されていない。
轟々と耳鳴り、カタカタと部屋中のものが静かに揺れた。
「……なにも知らない、坊ちゃんが偉そうに。小さな器、どうして明、にわたしを計れる……」
レティシアは多少唸れど、かつてないほど流暢に言葉を話した。それは怒りによるものなのか、彼女は疑問にも思わなかった。
明は恐怖に飲まれかける精神を必死に宥めた。脂汗は引っ切り無しに頬を流れ落ち、息をすることすら苦しくなる。床が揺れているのか、椅子が揺れているのか、己が震えているのか、彼にはもはや判別がつかない。彼は龍の尾を踏んでしまったのだ。彼が助かる術は彼女の怒りが解けるまで全力でご機嫌を取るしかない。彼の本能はそう囁いている。
──だが、彼は青白い顔をしながら壮絶な笑みを浮かべていた。その笑みには愛嬌の欠片も存在せず、その瞳は凶悪に挑戦的な光を宿している。
何故か。
彼は待っていたからだ。彼女が怒りに我を忘れ、強固な殻を破って表に出てくるのを。
「……知ら、ないよ……! だって君はなにも話さないからね。いつまでも、殻に籠もって、不幸なワタシに酔っている、君はさ」
彼は根性で笑みを張り付けていた。止めどなく流れ落ちる汗が床に染みを作っているが、彼にここで立ち止まる選択使はなかった。
「……誰、が……誰が己に酔っている、と……」
「君、以外の誰がいるのさ。いつまでもうじうじうじうじしてさ、いい加減鬱陶しいんだよね」
唇の端をつり上げる。どこまでも彼は挑戦的だった。
レティシアはそれを強がりと受け取った。彼の姿は客観的に見て満身創痍だ。しかし瞳だけが輝きを失うどころか、いっそう輝きを増しているように見える。
その姿は彼女に既視感起こさせた。明の姿に己を打ち倒した憎らしい男の姿が重なる。そうだ、あの男は倒されても挑みかかり、クサい言葉を吐いた。
「──だから、僕が助ける」
──瞬間、膨れ上がる魔力が暴虐の嵐を巻き起こす。それは彼女の無意識が発したもので、指向性はなく、ただ荒れ狂うだけの魔力の固まりだ。
彼女の大規模な発散は、すぐに彼女の手によって止められた。それでも部屋には小物が散乱し、見るも無惨なものになっていた。だが壊れたものはなさそうだ。蛍光灯がジジジと音を鳴らした。
「……ふ、ん。この程度、の魔力も防がないといけなくて……一体、なにから助ける、と」
レティシアは荒い息を吐きながら、必死に全包囲の魔法の膜で防いでいた明を蔑んだ。魔法の構築は特筆すべき速さであったが、それだけだ。
たとえ似ていようと、技量が違う。関係も違う。そもそも状況が違った。わたしはすでに異世界という名の地獄から帰ってきている。
明の身を包む透明な膜はしゃぼんが割れるように消えた。彼は手応えを感じたように手を握ると、すっくと立ちがった。
「──その悪趣味な首輪から、だよ」
そしてレティシアの首に掛かる、不気味な燐光を発する幾何学的な紋様を指さした。
そこは彼女にとって龍の尾どころの話ではない。まさしく逆鱗、気安く触れてはならない場所。
「……ふざ、けるな……! 塵芥の魔力しか持たない弱者が、この首輪を解くなんてよくも、言えたもの。知らないから、言える──出ていけ。わたしが殺さない内に」
彼女は魔力こそ巻き散らさないものの、明にいっそうのプレッシャーを轟と与えた。
彼は今、重力が何倍にもなったかのような圧力を感じているに違いない。免れない死の幻が、明の精神をも押し潰そうと圧迫する。
しかし明は机に手をつきプレッシャーを強引にねじ伏せるように、歯を食いしばって下がっていた頭を上げた。されどころか彼は、動きこそひどく緩慢で重かったが、彼は気合いの声を上げるとそこから自分の足で立ち上がったのだった。
ボタリボタリと床に大汗の染みを広げながら、明はレティシアの前に仁王立ちした。
「……知ってるよ……外道の魔術で編まれ、た……精神支配系の、異世界印の魔術印、だろ……!」
「──黙れ」
言い終えるとほぼ同時に、ベッドに座っていたレティシアの姿がブレると明の首に手を添えていた。これ以上、なにか言うと殺す、そう瞳が脅していた。
「……黙らない! 君は……ものを、知らなさすぎる……たとえば──」
明は臆せず言い切った。
「……吹いたな」
レティシアは迷いもせず明の喉を潰しにかかった。しかしその動きは先ほどの俊敏さを微塵も感じさせぬ、鈍重なものだった。
「……え」
それどころか、明はレティシアの小さな手を片手で掴むと、ベッドに放り投げた。彼女は抵抗という抵抗もせず、まるで年相応の少女のような非力さで、ベッドにぽすんと落ちた。ベッドの上で目を丸くして、腰を抜かしている。
なにが起きたのかわからない。必死に頭を働かせた。どうして自分は簡単にあしらわれた。明はただの弱者じゃなかったのか。だがおかしい。途中のわたしの魔力によるプレッシャーは感じていたはずだ。なのに、突然プレッシャーを感じていないように速くなって……おかしい。決定的になにかがおかしい……あ、れ、身体を巡らせていた身体強化の魔法がなくなっている。なぜだ。そんな魔法は存在しない。わたしは知らない。わたしが知らない魔法があるはずがないのに。
己が圧倒的な強者だと思っていた彼女は、弱者だと思っていた少年がこちらを見ていることに気がついた。
彼女は思った。彼は実はとんでもなく強く、実力を隠していたんじゃないのか、と。そう考えた途端、彼女には彼がとても恐ろしいもののように感じた。
彼女にとり己の実力は、ただでさえ不安定な精神の均衡を保つ支柱の一つだったが故に。
その支柱は目の前の明に折られた。
──魔力のプレッシャーすらも、いつの間にかなくなっていた。
「な、ぜ……」
「こんな風に、ん?」
彼女は顔を俯かせる。明が来る前に己に言って聞かされた言い訳を思い出した。
「な、ぜ……それだけの力を持っていて……わたしを、いまさら……」
そうだ。明が弱かったから、助けることは不可能だったって。誠はそう言った。だから仕方がない、って諦めたのに。
……いまさら言われても意味ない。
「……たすけ、る……それ、て首輪……から……? なんで、もっと早く……それだけ、強い……なら。もっと、早く、わたしを助けられたのに……穢れる前に会えたのに……苦痛を味わわなくてすんだのに……人……すまえ、に……のに…………じょく……まえ……のに…………」
レティシアはボロボロと泣いた。彼女の中で暴れ狂っていた怒りの炎は、見る影もなく鎮火していた。残ったのは、途方もない哀しさだけだった。
弱者と思った親友は力を見せつけた。きっと彼は苦しんでいるフリをしながら心の中でわたしを嗤っていたのだ。滑稽だと馬鹿にしていたのだ。そう考えれば、わたしは見事に掌で踊っていた道化に違いない。
彼女は不意に負けてしまったことで支えを失い、冷静な判断を下せないほどの自信喪失と自己嫌悪に陥っていた。
強者という支えは、己を保つために必要不可欠だったのだ。
「レティシア、ストップだ! 君は何か勘違いしている」
明は突然幼子のように泣き出したレティシアを見て焦りだした。しゃくりあげもせず、淡々と涙がベッドにこぼれ落ちるのを見るのは精神的にかなりくるものがあった。人形のような彼女が泣いたことを驚くよりも、罪悪感で胸が一杯になる。
彼はすぐにするつもりだった種明かしを彼女が喋るがままに先延ばしにしたことを後悔した。
彼はゆっくりとレティシアの座り込むベッドに近づいた。キシキシと床が鳴るのを聞いて、レティシアはびくりと肩を震わした。
「レティシア聞け。地球と異世界の魔法には大きな差異が生じている」
「……さ、い……?」
「そうだ、差異だ」
レティシアは気になる単語が出てきたことにより、ようやく顔を上げ聞く体制に入った。鼻を啜る音はこの際許容範囲だろう。
明は泣き止みかけている彼女を刺激しないように、凄く緩慢な動作でベッドに腰掛ける。スプリングが鳴ると、やはり彼女は肩を震わす。
彼は苦い顔をして、溜息を吐くと、手を中空でさ迷わせた。コホンとワザトらしく咳をすると意を決して、手をレティシアに見えるように動かしながら、その掌をレティシアの頭に置いた。
なでりなでり、と幼子をあやすように優しく撫でる。
レティシアは明の行動の意味が分からず、不思議そうに仰ぎ見た。
明は恥ずかしそうにしながら、でも手を休ませない。内心ではレティシアの身に宿る圧倒的な魔力に触れ、狂乱しているに違いなかったが、彼はおくびにも出さない。
「これを見て」
明は空いている手で懐から掌サイズの六角柱の機械を取り出した。銀色のシンプルなデザインで、なにかのデバイスのように見える。新手のHDDか、と聞く人もいるかもしれない。
異世界帰りのレティシアは、突然機械を見せられてもわからないと、首を捻る。
「これはね、魔法の発動を補助する機械なんだ。この中には魔法の発動に必要な魔術式が多量に入力されていて、魔力を通すだけで登録された魔法を瞬時に発動できるようになっているんだよ」
彼は得意気に、まだ試作品だけどね、と付け加えた。彼女は思い出す、自身が起こした魔力の暴風を彼が異様な速さで防いだことを。
しかし彼女にはもっとわからないことがあった。
「ま、じゅつ……しき……?」
「……予想はしていたけどそこからかー」
彼は異世界と地球の魔法文化の差に天井を仰ぎ見た。
反対に彼女は知らない単語に少しワクワクし始めていた。
──彼女は密かに感情を取り戻し始めている。終わりの足音が近づいてきていることを、彼女の首輪だけが知っていた。
説明は次回
予想を遥かに上回り、文章が長くなりすぎました
今回で彼女の目的を明かすつもり満々だったのに……
上手い会話文書けませぬ




