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第36話 本当の夫婦

 その日の夜は華やかな晩餐会が開かれた。表面上は穏やかに時間が過ぎていったが、食事が終わりに近付いた頃、騒ぎは起きた。

 廊下で女性の叫び声が響くのと同時に、ガラスの割れる音がガシャンと聞こえた。


「ア、アトラス様が……!」


 血相を変えたメイドが広間に入ってくると、ぶるぶると震えたままカーティスに視線を向けて訴える。

 勢いよく立ち上がったカーティスは、目を吊り上げてメイドの腕を掴むと廊下へと出ていった。


「どうしましたか? シオン王」

「あ、いや……。メイドが粗相をしたようだ。お騒がせした」


 オルナンド王が声を掛けると、シオン王はどこか怯えたような目をして答える。

 そうこうしている内にカーティスが戻ってきた。ツカツカとこちらに近付いてくると、シオン王の耳元に口を寄せてこそこそと何かを耳打ちする。


「な、なんだと!?」

「すぐに調べさせます」

「分かった……」


 微かに声が聞こえ、ルイーズはちらりとアトラスに視線を送る。アトラスは表情を変えず小さく頷いた。

 カーティスはイライラとした表情のまま席に戻ると、集まっていた視線を嫌がるように大きな咳払いをする。隣の席だったルイーズは、それまでまったく声を掛けなかったのだが、何気なく話し掛けた。


「ここのメイドが失敗するなんて、珍しいことですわね」

「……そうだな。ルイーズ、お前、あの王太子が、……あいつに似ていると思わないか?」

「あいつ? どなたのことです?」


 素知らぬ顔で訊ね返すと、カーティスは眉間に皺を寄せる。


「……アトラスだ」

「アトラス様? 私にはよく分かりません。私があの方に会ったのは、たった2時間程度ですから、お顔は覚えておりません。そんなに似ているのですか?」

「いや……、少しそう思っただけだ」


 苦虫を噛み潰したような顔でそれだけ答えると、それきりカーティスは黙り込んでしまい、誰とも口を聞くことはなかった。

 晩餐会が終わり部屋に戻ったルイーズは、やっと肩から力を抜いてソファに座った。ずっと緊張していたからか、身体はもう限界に近い。  早くドレスを脱いでふかふかのベッドで眠りたい。


(カーティス様もシオン王も、動揺しているように見えたな……)


 死んだと思った者とそっくりの人間が目の前に現れたのだ、動揺しない方がおかしい。

 カーティスに同情などしないが、シオン王は少し気の毒に思えた。


(陛下はアトラス様のことを思い出して辛いだろうな……)


 ルイーズが物思いに耽っていると、オルナンドから連れてきたメイドが夜着を持ってそばに来た。


「ルイーズ様、お着替えを致しましょう」

「ええ」


 衝立の向こうでドレスを脱がせてもらうと、コルセットから解放され、やっと呼吸が楽になる。

 長いこと神官服だったからか、すっかりコルセットが苦手になってしまった。

 寝る支度ができしばらく待っていると、アトラスが戻ってきた。


「お帰りなさい」

「待っていてくれたのか。疲れただろう? 先に寝ていていいんだよ」

「いえ……」


 ルイーズは口ごもって俯くと、ちらりとベッドを見る。

 大きな天蓋付きのベッドは、夫婦二人が寝ても十分な大きさがある。王太子夫妻の部屋として用意されたのだからベッドが一つなのは当たり前なのだが、ルイーズはそれを直視できなかった。


(夫婦といっても、まだ本当の夫婦じゃないし……)


 オルナンドで過ごす間に、かなり気持ちが近付いたとは思うが、それでもあちらでは別々の部屋で寝ていた。

 突然同じ部屋で、それも一つのベッドで寝るには、まだ心構えができていない。

 そんなルイーズの気持ちを察したのか、アトラスは苦笑してからベッドに近付きドカッと座った。


「ルイーズ」


 自分の隣をポンポンと叩くアトラスに、ルイーズは少し躊躇しながらもおずおずと隣に座る。


「ルイーズは私たちが形だけの夫婦だと思っているのか?」

「それは……」

「私はそうは思わない」

 

 アトラスの言葉にルイーズはゆっくりと顔を上げると、アトラスは優しく微笑んだ。


「初めて会った時から、君は驚くほど私を惹きつけた。やっと会えて君と共に過ごすうち、本当に君を愛しく思うようになった」

「アトラス様……」

「契約結婚の相手が君で本当に良かった。君が選ばれなければ、私は君と出会うことはできなかったのだから」


 嘘偽りのない言葉だと、まっすぐに見つめてくる瞳が語っている。

 ルイーズはただ嬉しくて、目を潤ませる。


「私は君との関係を、形だけのものにしておきたくはない。……君はどう思っている?」

「私は……、私なんかでいいのでしょうか……」


 冤罪を晴らすことができれば、アトラスはきっと王太子に戻るだろう。そうなった時、自分が隣にいても何の役にも立たない気がする。

 知識も教養も品位も、何もかもが自分には足りない気がする。そんな自分が本当の王太子妃になんてなれないと、そう思ってポツリと呟くと、アトラスが腕を伸ばして抱きしめてきた。

 ギュッと強く抱きしめられて、胸が早鐘を打つ。


「君が一番、君の魅力を分かっていないな」

「魅力なんて私には……」

「そんな謙虚なところも、ルイーズのいいところだけどな」


 優しい言葉にルイーズは背中を押されるように顔を上げると、アトラスの目をまっすぐ見つめた。


「アトラス様。私も、私もあの断罪の日、アトラス様とお会いできて本当に良かった。舞踏会で遠目に見るしかできなかったあの頃、まさかこんな日が来るなんて思いませんでした。だけど、私もアトラス様とずっと一緒に生きていきたい。おそばにいたい」

「ルイーズ……」

「私は、アトラス様が好きです」


 言葉にしてみると、今まで蓋をしてきた気持ちがみるみる溢れた。

 涙をいっぱいに溜めた瞳でアトラスを見つめると、アトラスはこれまでで一番嬉しそうに笑った。

 そうして二人は本当の夫婦として、初めてのキスをしたのだった。



◇◇◇



 次の日の深夜――。

 ドアからドンドンと大きなノックの音がして、ルイーズはパチリと目を見開いた。


「誰だ」


 隣に寝ていたアトラスが身を起こして声を掛ける。するとドアが開いて、血相を変えたシオン兵が走り込んできた。


「ご就寝中、大変申し訳ありません! 城内で火事が発生しました! ここは危険ですので急ぎお逃げ下さい!」

「なんだと!?」


 アトラスとルイーズは顔を見合わせると、慌ててベッドから降りる。すると兵士の後ろから、オルナンド兵とメイドが入ってきた。


「殿下!」

「父上は?」

「すでに避難を開始しております」

「よし。ルイーズ」


 メイドがルイーズの肩にショールを掛け、歩きやすい靴を履かせてくれる。


「ありがとう、これでいいわ」


 ルイーズはそう言うと、アトラスが差し出す手を握り足早に部屋を出た。

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