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愚かな兄は、なぜ愚かなのか。自分と比較されてさらに愚かになってしまった。人の話を聞かない。我儘ばかり突き通す。
けれどもし──優秀な弟がいなかったら兄はこうではなかったのではないか。
ソファの上に置かれたフェドルセンの拳が、強く握り込まれるのを見て、エミリアはそっとその拳の上に自分の手のひらを重ねた。
これは思ったよりもフェドルセンにとってきつい話し合いになりそうだ、とエミリアが思っている視界の端で何かがかたかたと揺れていた。
視線を向ければ、羞恥に顔を真っ赤に染めたアンネがいた。
「わ、私、娼婦じゃないもの!」
ラシャーハに食ってかかる勢いでそう叫ぶと、彼は険しい顔を一転させて皮肉げに口元を歪めてみせる。
「おや、わたしはそう聞いておりましたが?」
「娼館で働いたことなんてない!」
「しかし金を貰い、やることはやっていたのでしょう?」
それは、とアンネの掠れた声は続きを紡げなかった。きちんと娼館で働いている娼婦ではないとはいえ、娼婦のように体を売っていたのは事実のようだ。
金に困った町娘が個人的にやっていたのかもしれないし、娼館と呼べない安宿で客をとっていたのかもしれない。
「話が進まない、そこまでだ。……それで?」
フェドルセンが二人の会話に痺れを切らして先を促す。
ラシャーハは咳払いしてフェドルセンに視線を戻した。再び彼から告げられる言葉に緊張しているのか、重ねたエミリアの手をフェドルセンがしっかりと握る。
「国を出ると言ったあなたを我々は止めました。ルドベード様では無理だ、と。けれどあなたは聞かなかった。何かルドベード様が間違いをおこせば我々が諌めればいいと投げやりになっておられた」
「……」
ラシャーハの言葉にフェドルセンは答えなかった。
きっとエミリアが嫁いできた時。あの最初に会った時にフェドルセンが何も思わなければ、きっと彼は予定通り国を出て行ってしまったのかもしれない。
愚かな兄と、その兄の妻だと公言する愚かな女と、そこに嫁いだ王女と、国と家臣を置いて。
それがなぜ去るのを延期し、残ったのかはエミリアにはわからない。
ただ単にエミリアを哀れに思っただけかもしれないし、少しくらい現状を改善してからと思い直したのかもしれない。
「ルドベード様が間違いをおこせば家臣が諌める。それは当然です。けれど我々では諌められなかったのです。そこの女に関して、どれほどルドベード様に言葉を尽くしたか」
「それは……」
「どれほど言葉を尽くしてもルドベード様は聞かなかった。むしろ口うるさい者は遠ざけられました。女一人でこれほど頑なに意見を曲げない方なのです。他の件でもどれほど我々が苦労したか、想像は難しくはないでしょう」
さすがにここまではっきり言われてはフェドルセンも兄を庇う言葉は出ないようだ。
以前はフェドルセンもこれほど聞く姿勢をとっていなかったのだろう。ここまで言われてきちんと耳に入っていれば国を出て行こうなんて思うはずがない。けれど、家臣の言葉はルドベードはもちろん。フェドルセンにも届かなかった。
ラシャーハの言う通り、投げやりになっていたのかもしれない。
「ルドベード様はそこの女に意見を聞き、願いを叶えていく。フェドルセン様が諌めればルドベード様の暴走も少しは落ち着きますが、けれどフェドルセン様がいなくなった後は?」
だから、と重たくラシャーハは言葉を続ける。
「我々は動くことにしました」
ルタの小さな手が緊張から震えているのがわかる。自分の祖父がその先に何を紡ぐのか、わかっている。
「王子が聞かないのならば、女に聞かせればいい、と。判断しました」
「それは、しかし……」
フェドルセンも抵抗があるのか言葉を返そうとするがうまく言葉を紡げないでいた。
ラシャーハは先を続ける。
ルドベードが酔っている間に、こそりとアンネに言葉の毒をかけたと。
「あなたが今この王宮で自由にしていられるのは今のうちだけです。後ろ盾も何もないあなたが、一体どうやってその身を守るつもりなのでしょう」
今まで好き勝手にしてきた庶民の女がそう言われたら、きっと青ざめてしまうだろう。単純なアンネは余計に。
「外交を円滑に進める手伝いをしてくれるというのなら、我々があなたを狙うことはないと誓いましょう」
エミリアも似たような事をしてアンネを脅した事を思い出す。毒をお前に盛って命を脅かす事もできるのだと、脅した事があった。
それと同じだ。
本当に実行するかどうかではない。実行も可能だからこそほのめかすだけで腹の探り合いなどした事のない相手には十分効果はある。
実際に手軽にアンネを事故死と見せて殺してしまえ、という声も大臣たちの中で僅かながらあったはずだ。
「……我々にはこの状況を外に漏らさない事。それこそが最優先でした。外から訪れた使者や外交官は尋ねるのです。あの王子の隣にいる女性はどなたでしょうか、と」
アンネの歯ぎしりが聞こえた。まさか外国の使者が来ている場にまで妻として出ていたのか。なんて身の程知らずだろう、と思わずエミリアが睨むとアンネがさっと顔を逸らした。




