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どれくらいの間そうしていただろうか。
姉の手を握り、その膝に頭を乗せて、ひたすら「お姉様」とだけ繰り返して泣くエミリアを、アランシアはなにも言わずただ頭を優しく撫でてくれる。
思い返しても、とくにこれといって酷い目にあったわけでもない。婚約者には既に自称妻がいたが、そんな事はどうにでもなると思っていたし、自称妻のアンネだってそこまで驚異ではない。
それなのに。なぜこんなにも涙が溢れてくるのだろう。
懐かしくて、寂しくて、たまらない。
「お姉様、お姉様……」
ぎゅっとアランシアのドレスの生地を握ってしまうが、彼女は気にもしていないようで、ぽんぽんと時折背中を軽く叩かれる。
「お姉様、わたくし……わたくしは……」
「いいのよ、エミリー。無理に話さなくて」
その優しい姉の声にエミリアはまた涙がこぼれる。大粒の涙がびっしょりとアランシアのドレスを濡らしていくが、文句一つ言わない。
なんて広い心なのか。
エミリアならば妹にこんな事されれば「濡れるからやめて」と間違いなく言うだろう。
細い指がエミリアの前髪を通り抜け、額を撫でられて、エミリアは顔を上げる。
こちらを見下ろすアランシアの顔は光を背に受けて柔らかく光っている。
「泣き虫ね、エミリー」
「だって」
ぐす、と鼻を鳴らすとアランシアは微笑んだ。
「お姉様みたいにわたくしも完璧になりたい」
エミリアのそんな言葉が以外だったのか、きょとんと姉は目を丸くさせ、やがて破顔する。
「私が完璧? どこがよ、こんなじゃじゃ馬の。ねえ、ポーラ」
すぐ近くに控えていた侍女のポーラにアランシアは同意を求めるとすぐに答えが返ってきた。
「ええ、もちろんです。姫様は大変な暴れ馬ですから。完璧なんて程遠いですよ」
「でも」
納得できないエミリアが言葉を濁すと、アランシアはまた笑った。
「でも、なあに?」
「腹の立つ相手を撃退できるでしょう? 羨ましいですわ」
「暴力よ? 優雅のかけらもないわ。そんなもののどこがいいって言うの」
アランシアは確かにすぐ手足が出る。むしろ口より先に出る。よく父に歯向かっていたものだ。
けれど、エミリアはそんなアランシアのことを悪く思った事はなかった。むしろ、男に頼らず自分だけで解決してしまう姉の事を尊敬している。
どうやら自分の妹が大きな勘違いをしているようだと気付いたアランシアは大袈裟にため息を吐く。
「あのね、エミリー。私は全然まったくこれっぽっちも完璧なんかじゃないから」
「どうして」
姉のように容姿も優れていて、度胸もあって、男を従わせる事の出来る女が、なぜ完璧ではないのか。
エミリアはむすっと顔をしかめてアランシアに尋ねる。
「私ね、ルクートに嫁いで結婚して、でも相手にはたくさんの愛人がいたの。愛人達は反抗してくるし喧嘩したわ。もちろん口じゃなくて暴力でね」
「夫の愛人が歯向かってきて、なぜ暴力をしてはいけないの」
「そうね。腹が立つしこちらが文句を言う権利もあると思うの。けれど、暴力はだめよ。相手と同等の力以上を持ってるのにそれで勝とうとするなんて。ただの弱い者いじめだわ。しかも、将来国王の隣に立つ女が暴力よ? 私は今思い返すと自分が情けないの」
エミリアは思わず言葉を返せなかった。将来国王の隣に立つ女。その通りだ。もちろん、エミリアだってその立場の女だ。
「私は結局暴力でしか抑えられなかったの。それで、夫に寵妃がいるとわかって、もう耐えられなくて、逃げようとしたの」
緩やかに頭を撫でてくれるアランシアはそれらの出来事を苦笑いを浮かべながら話してくれる。
「離婚はできないから離れに移るってね。逃げようとしたのよ。……まあそれはもう解決したし、今はまあ……幸せだからいいのだけど」
アランシアは突然恥ずかしくなったのか頬を染めて顔をしかめてしまう。
照れているのだろうか。愛人のいた夫に対して?
「エミリー。私はね、完璧じゃないの。むしろ容姿しか取り柄のない中身のない女よ」
そんな事、と反論しようとしたエミリアの唇に、アランシアが人差し指をそっと当てる。
「エミリーは私の自慢の妹なの。私より上手に立ち回れるはずだわ」
「そうですよ! アランシア様なんて外見しか取り柄がないんですからね!」
と、ポーラがエミリアを励まそうとしてくれたようたが、ぴくりと青筋を浮かせたアランシアがすぐに吠える。
「ポーラ!」
「ご、ごめんなさい、姫様っ!」
アランシアとポーラのやり取りを見ながら、エミリアは目の前にいるアランシアの手を握る。
エミリアがいつも憧れてきたこの綺麗な人は、エミリアが思うよりずっと普通の人──むしろ弱い人で、妹なのにそれがエミリアには見えていなかったのだろうか。
「……でもお姉様。本当に今話した事が嘘ではないのなら、なぜこんなにも落ち着いているの? まるでお母様のようですわ。一年で人は変わる?」
エミリアの質問に、アランシアはほんのりと頬を染めながら微笑んだ。そして、握ったままの自分とエミリアの手を、腹のあたりに持っていく。
「それはね、一年とかそういう時間の話ではなくて。私が母になったからだわ」




