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掠れた低い声が耳元で囁く。
「俺はここに残るよ。お前のために」
異国との戦で鍛えられた王子らしくないたくましい腕がエミリアの腰にまわり、引き寄せられる。胸元に抱きしめられ、香水なんてつけていないだろうに男らしい良い香りが鼻腔を擽る。
頬を撫でられ、上を向けば、柔らかな唇の感触が──
「むり……っ!!」
がばっと思わずエミリアは寝台から身を勢いよく起こし、夢から強引に目を覚まさせる。
途端に先ほどまで見ていた自分の夢の内容を思い出し、かあっと顔が熱を持つ。頬に手を当てれば、頬だけでなく、手のひらも熱く熱を持っていることに気づいた。
この国の世継ぎを生んで正妃になる。そのためなら強引に婚約者の寝室へ忍び込むことだって、催淫効果のある薬を飲ませたり飲む覚悟だってあった。──けれど。
なぜかフェドルセン相手だと無理だ。
もっと冷静に対処すればいいのに、と頭ではわかっている。
今後、フェドルセン相手ではないが婚約者にするべきことだ。口付けだって、抱擁だって、その先のもっと淫らなことだって。
エミリアは未来の姉らしくすまして「なにを馬鹿なことをしていますの?」とでも言えばよかったのだ。それなのに。
「それなのに取り乱すなんてっ。あああもう恥ずかしい! 自分が恥ずかしい……っ!」
異様にむしゃくしゃして、エミリアは側にあった枕を掴み、ぼふぼふと何度もシーツに叩きつける。
それでもおさまらず、枕をフェドルセンの顔に見立ててくしゃくしゃに見出してやったり殴ってみたりするが、さっぱり効果はない。
「エミリア様? 起きていらっしゃいますか?」
寝室の控えの部屋から世話役の侍女が声をかけてくれる。
「いいえ! ……いえ、起きていますわ」
勢いで否定してしまってから、少し冷静を取り戻して返事を返す。
「朝食をお持ちいたしましょうか」
「……そうね、ひとまず水を」
そう声をかけると、少ししてから侍女が部屋に入ってきた。カーテンを開けられ、眩しくて思わずエミリアは目を細める。
侍女は水をグラスに注ぎ、エミリアに渡してくれる。その後に顔を洗うための桶を側に起き、手を洗い、顔を洗ってからタオルで水分をふき取る。
そこまでするともう頭が冷えていて、エミリアはタオルで顔を拭きながら侍女を見る。
茶髪の髪を後ろへ束ねているエミリアより少し年上の女だ。肌は白いがそばかすが散っている。この侍女はエミリアがこのシュゼランで暮らしてからついている侍女で、とても細かいことに気が利き、優秀だ。淹れるお茶も美味しい。
名前は確か、デュポーと言ったか。あまり人の名前を覚えるのは得意ではないが、彼女のことは気に留めている。
「デュポーでしたわね」
「はい、エミリア様」
名前を呼ばれると、彼女は床に膝をついて頭を下げる。なにか不手際でもあったのかと思っているのか、その顔は暗い。普段エミリアが声をかけることは滅多にないからかもしれない。
「そこの花瓶はあなたが?」
目に入るのは寝室に置かれている花瓶。確か、ここに初めて来た時は花瓶だけだったのだ。けれど今はほとんど毎日花が代わる代わる飾られている。
「はい、エミリア様。お気に障りましたでしょうか」
「いいえ、とても気に入っていますの。いつも声をかけていませんものね、今日くらいは少しあなたを労おうと思いまして」
はい、と答えるデュポーの声は細く小さい。少し震えているのは、怖がっているというよりも、仕えている主人がようやく自分を見てくれたというものかもしれない。
「アレクサンダーの世話もしていますものね。能無しに任せるよりずっとアレクサンダーも気分が良さそうですわ」
「私はただ少しブラッシングをしただけでございます。そのように褒めて頂くようなことは……」
「いいえ、あなたは優秀ですわ。……ふふ、だからこそあなたにしか頼めないことがありますの」
思わず笑みをこぼすエミリアに、デュポーは少し首を傾げる。
「私にしか頼めないこととは一体どのようなことでしょうか」
それはね、と言葉を続けるエミリアの心の中は喜びで溢れている。
そうだ、使えないヘイムスや懐柔されたアレクサンダーが当てにならないのなら、他を使えばいいだけのこと。
あの夢がもう今後一切見なくてすむよう、エミリアは一歩足を進める。
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