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宝石箱なんていらない  作者: 天嶺 優香
三、穏やかな日常と、
20/41

5

「まあ安心しろよ。たぶんもうアンネは手を出してこないと思う。たぶん」

「そのたぶんというのが信用できませんが、まあ一応お礼を言っておきますわ。わたくしの命を救おうとしてくれたのでしょう?」

 きっとアンネは今回では収まらない気はするが、もしかしたらフェドルセンの説得がうまくいって、彼女が改心する可能性もあるにはあるかもしれない。

「じゃあ俺はそろそろ行く」

「お茶は飲んでいかれませんの?」

「今度な」

 フェドルセンは椅子から立ち上がり、足元にやってきたアレクサンダーの頭を撫で、歩いていく。

 エミリアも立ち上がり、扉まで送ろうと進み、ふと疑問が残っていた事を思い出して、扉を開けようとしているフェドルセンに向かって訪ねた。

「それで、さっきの嫌というのは本当になんでしたの?」

「……だからそれは聞くなって」

「でも嫌というのは変じゃありません? わたくしが死んだら嫌ということ? まあそんなにあなたが懐いてくれるなんて光栄ではありますけど……」

 と、言っている途中でフェドルセンに腕を引かれ、エミリアの口が閉じる。

 真上から見下ろされるフェドルセンの顔は近く、こんなに至近距離なのはきっと最初に会った時くらいだ。 

 思わず言葉に詰まっていると、腰にもう一方の腕が回る。抱き寄せられ、エミリアは更に混乱した。

 掴まれた腕は痛いほどで、腰に回された腕も、違和感でしかない。エミリアの心臓は先ほどとは比べものにならない程に早鐘を打っていて、耳にまでそれが響く。

「あなたね、いくら懐いていてもこんなの許されると思っ……ん!」

 いきなり温かいものが唇に押し付けられて、またもや言葉を遮られた。乾いたそれは温かくて、少し柔らかくて。口付けを受けていると遅れて気づいて、エミリアは硬い胸板を叩いて離れようとする。

「ん!……んんっ」

 しかし、腰に回っていた手がいつのまにかエミリアの後頭部をしっかりと掴んで離さない。塞がれた片腕ももがこうとしても動かず、男の力にあらがえない。

 どうすることも許されず、息が苦しくなってきた時、ようやく唇が解放され、エミリアは大きく息を吸う。

「俺は懐いた犬でもお前の弟でもない。嫌なのは俺が知らないところでお前が傷つくことだ。だから……」

 と、フェドルセンが言葉を続けようとしたが、エミリアの方が先に動いた。

 真っ赤な顔で睨みつけ、大きく振りかぶった掌がフェドルセンの頬を打つ。

 ばっちん、と至近距離から放たれた平手打ちは盛大な音を立て、フェドルセンの頬が真っ赤なもみじの模様を作る。

「こっ、こここの無礼もの!!」

 エミリアは扉を開け放ち、大きな背中をぐいぐいと外へ押し出す。

「あなたは今後わたくしの近くに寄ることは許しません! 三十歩以上離れて生活なさい!!」

 それだけ言い放つとエミリアは勢いにまかせて扉を閉めた。

 一人になった部屋で、まだ熱が冷めない頬を押さえ、軽くぺちぺちと自分の頬を叩いてみる。けれど、それで状況が変わるわけでもなく。

「なんですの、なんでしたの一体」

 急に距離が近づいたと思ったらまさか口付けをされるなんて。しかもただ唇が触れ合っているだけなのに異様に長かった。息もできやしない。

 こんなの、夫にしか許してはいけないことだ。とてもとても淫らな気がする。

「どうしましょう。まさかこんな破廉恥な、ああもう一体どうして」

 と、ふと混乱していた頭にすっと冷たい風が通る。

 口付けをする直前。フェドルセンにエミリアが言い放っていた言葉を思い出した。あの時、途中で続けることができなくなってしまったが、エミリアは「こんなの許されると思っていますの」と言うつもりだったのだ。

 そして、フェドルセンももちろんそれをわかっているからこそ最後まで言わせず塞いだのだろう。

「……許されるはずありませんわ」

 フェドルセンがどうしてとか、どういうつもりで、なんてことはエミリアにとってどうだっていい。

 ただ一つ心に残るのは、なにをしたってどうしたって、結局フェドルセンはこの国を去る男なのだということ。

「……腕が痛い」

 掴まれていた腕へ視線を向ければ、赤黒くくっきり跡がのこっていた。きしむほど強く掴まれていたのだ。エミリアを逃さぬように。

 そこまで執着してくれるなら、とまた思考がおかしな方へ転がろうとする。

 そこまで執着してくれるなら、いっそルドベードから奪ってくれればいいのに、と。

 エミリアは仄暗い感情を揺らす。

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