夕焼け色の帰り道
ソルがそっと閉めて行った引き戸の向こうから、ひんやりとした風が台所まで流れてきた。
その風でふと裏口に顔をやったナツメグが、はっとした顔をする。
「あらあら、お洗濯ものが干しっぱなしだったわ」
「わっ、大変! せっかく乾いたものがまた湿っちゃう」
「おれも手伝うぜ。行こう、リュリュ」
リュリュナとチギが慌てて店の裏へと駆けだしていった。あとに続くかと思われたナツメグが、ふと足を止めてゼトを振り向く。
「ゼトくん、陽が落ちてしまう前にヤイズミさまをお屋敷にお送りしてきてちょうだいな。お片付けはわたしたちでしておくから」
ぱちり、と片目をつむっていたずらっぽく言うナツメグに、ゼトは素直にうなずいた。すこし照れ臭いが、ここは義姉のお節介に感謝をしておこうとヤイズミの手を取る。
「じゃあ、頼んだ。行こう、姫さん」
「え、けれど、お片付けが……」
「それはまた明日お願いする。きょうはもう日が暮れる。急ごう」
申し訳なさそうにするヤイズミの手を引いて、ゼトは表通りを歩き出す。
夕焼けに染まった通りを行く人びとは、誰もが家路を急いでいて、手をつないで歩くゼトとヤイズミに目を向ける者はいない。
会話に耳を傾ける誰かもいないだろう、とくちを開いたのはゼトだった。
「その、あのさ……守護隊のソルさんと仲良い、のか?」
ゼトはヤイズミの手を引きながら、前を向いたままぽつりと聞いた。
手を引かれ、ゼトの背中を追うヤイズミには彼の表情はうかがえない。
「え、はい。ソルは親戚ですし年も近く、強さに差はあれど同じ力を持つ者同士、幼少期から互いを知っていますから。会えば話をする程度ですが、不仲ではないと思いますけれど」
質問の意図がわからないながらも、ヤイズミは正直に答えた。
答えるあいだに、前を行くゼトの足取りはだんだんと大股になり、速くなっていく。手を引かれるヤイズミも合わせて速く歩こうとするけれど、着物のすそが脚にからまってうまくいかない。
「あ、あのっ」
転びそうになったヤイズミが声を上げると、はっとしたゼトが「悪い」とつぶやいて歩調を緩める。
ヤイズミに合わせてゆっくりと進んでくれるゼトだが、それでも振り向かないまま、黙って先へと進んでいく。
ふたりそろって口をつぐんだまま歩き続けて、しばらく。武家屋敷に近づくにつれて、ひと気はだんだんと無くなっていく。あれほどにぎやかだった喧騒は遠く、ふたりぶんの足音だけが静かな通りに落ちては消える。
ずっと続いていくかのように思われた足音が、不意に間隔を開けて、やがてすっかり止まってしまう。
立ち止まったゼトに合わせて歩みを止めたヤイズミは、動かなくなった男の背中を見つめて首をかしげた。
「あのゼトさん、どうなさいました……?」
ヤイズミがささやくように問い、つないだままの手にもう一方の手でそっと触れる。ぴくり、と指を震わせたゼトは、思い切ったように振り向いてヤイズミを見つめた。
視線が交わったのは一瞬。
なにかを言おうとしてくちを開いたゼトは、なにも言えないまま視線を逸らし、足元をにらみつけてことばをこぼす。
「……姫さんが、別の男と仲良さそうにしてるのが、なんか嫌だったんだ。おれが知らねえ姫さんの小っちゃいころを知ってるんだって思ったら、なんか……」
そこで声を途切れさせたゼトは、顔をあげてヤイズミの様子をうかがった。
顔をあげたゼトと反対に、つないだ手の先でヤイズミは顔を伏せている。夕焼け色に染まった長い髪がさらりと垂れて、濃い影に隠れて彼女の表情はちらりとも見えない。
うつむいて黙り込んでしまったヤイズミを前に、ゼトは明るく笑ってみせた。
「はは、悪い。こんなこと姫さんに言っても、困らせちまうだけだよな」
軽く言って、つないだままの手をそっと抜き取ろうとしたゼトだったが、離れそうな指先を強く握られて動きを止めた。
ゼトの指を離さない、とばかりに握りしめるのは白くほっそりとしたヤイズミの手だ。
「こ、困ります!」
うつむいたまま、ヤイズミが悲鳴のような声をあげる。
わかっていたことではあるが、本人から改めて伝えられる否定に、ゼトはわずかに眉を寄せた。それでも、すぐに笑ってうなずく。
「ああ、ほんとに悪かった。もう、忘れて……」
「かっ、顔が熱くて、あなたの顔を見られなくなってしまいます!」
胸の痛みをこらえて言おうとしたゼトのことばは、うつむいたまま叫んだヤイズミの声で遮られた。
「そのような! まるで、わたくしに好意を持ってくださっているかのような態度をお取りになるなんて! 異性に不慣れな女とお思いになって、からかわないでくださいませ!」
「……え、え?」
ぎゅうぎゅうと握った手に力を込めながら告げられた内容に、ゼトの頭が追い付かない。
ただ、握りしめられた手から伝わるヤイズミの熱がやけに熱くて、夕焼けに染まった彼女の長い耳が、もしかして夕焼けでなく赤く染まっているのではないだろうか、とゼトはぼんやりした頭の片隅で思う。
「あのさ……おれが言ったこと迷惑じゃ……」
事態が理解できないまま再度ゼトがくちを開くと、ヤイズミは勢いよく体を起こしてむぅとゼトをにらみつける。
「迷惑ではなく、困ると言ったのです! そうやって有耶無耶にしておしまいになる気ですね。ひどい方だこと!」
そう言ったヤイズミの顔は、間違いなく真っ赤に染まっていた。そのうえ、ゼトをにらむ瞳には涙までにじんでいる。
滅茶苦茶かわいいな、おい、などと思わず見とれかけたゼトだったが、はっとしてヤイズミの手を両手で包み込んだ。ごくりとつばを飲み込んで、恐る恐るくちを開く。
「それは、おれの気持ちを有耶無耶にしなくていい、ってこと、か?」
「……え」
今度は、ヤイズミが絶句する番だった。にらんでいた目でぱちりと瞬いて、真剣なゼトの瞳と視線がぶつかったヤイズミは、夕焼けでは隠し切れないほどに顔を真っ赤にさせる。
そんなヤイズミに追い打ちをかけるように、ゼトが続ける。
「姫さんが迷惑じゃないなら、言う。おれは姫さんが好きだ」
まっすぐなことばとまっすぐな視線を向けられて、ヤイズミはとっさに声が出なかった。
ぼうっとなった彼女に、ゼトは真面目な表情をくしゃりと崩して笑いかける。
「姫さんの一存で返事できねえのはわかってる。ただ、覚えといてくれたらうれしい」
それだけ言って、ゼトはヤイズミの手を引いてまた歩き出す。ヤイズミも引かれる手に逆らわず、ゆるりと歩を進める。
ふたりそろって無言で、けれど互いに歩調を合わせて、次第に暮れていく夕焼けのなかをゆっくりと進んでいった。




