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白羽根の屋敷を出てしばらくのあいだ、ゼトはさっそうと歩くヤイズミのあとをついて歩いていた。
背すじを伸ばし、一定の調子で進んでいくヤイズミの背で、彼女の長い白髪が左右に揺れる。それを見るともなしに見ながらヤイズミを追っていたゼトだったが、意を決してヤイズミを追い抜いた。
ゼトが大股で数歩も行けば、ヤイズミの楚々とした足取りなど軽く追い越せてしまう。
そして、追い越したヤイズミの顔を振りむいたゼトは、詰めていた息を一気に吐き出した。
「……っはあ〜、よかった!」
「なっ、なにごとでしょう?」
急に回り込んてきたかと思うとおおきく息をつき声を上げたゼトに、ヤイズミは驚いて足を止めた。
後ろ向きに歩いていたゼトも、ヤイズミの顔をのぞきこんだまま立ち止まる。
「姫さん、さっき泣いてたからよ。いまも泣いてたらどうしよう、なんて声かけようと思ってたんだけどよ」
青色の瞳を見開いているヤイズミの顔をしげしげと眺めて、ゼトはにっと笑う。
「もう、泣いてねえみたいだな。良かった!」
そう言って、ゼトが目を細めてほんとうに嬉しそうに笑うものだから、ヤイズミはなんだか気恥ずかしくなってしまう。
そのうえ、子どものようにぽろぽろと涙をこぼす姿を見られたことを思い出して、さらに赤面する。
白い肌を長い耳の先まで赤く染めたヤイズミは、胸の前で指を絡めておろおろとうつむいていた。そこへ、不意に伸びてきた手が指をやさしくさらう。
思わず顔をあげたヤイズミが、自身の白い指を引く筋張ったおおきな手へと視線を辿らせると、その先でゼトの笑顔にぶつかった。
「姫さんがうちの店に来ないあいだ、ひとりで泣いてるじゃねえかって思ってたのにさ。おれが会いに行って泣かせたらどうしようもねえな、って考えてたんだけど……」
「そんな!」
話しながらゼトの表情に申し訳なさがにじむのを見て、ヤイズミは声をあげる。
うっかり出してしまったおおきな声を恥じるように、やや目を伏せた彼女だったが、ことばまで伏せてしまうことはなかった。
「……そんなこと、ありません。先ほど泣いてしまったのは、その、うれしくて」
ちいさな声で途切れ途切れに言うヤイズミに、ゼトは目を丸くした。
「ほんとうはすぐにでもリュリュナさんにお会いしたかったのですけど、考えるほどにわたくしが出向くのはご迷惑のような気がして、身動きが取れなくなってしまって」
うつむき加減のまましゃべりながら、ヤイズミはほんのりと表情をゆるくした。
「ゼトさんが訪ねていらしたと耳にしたとき、とてもうれしかったのです。表の門にわたくしを呼んでいる方がおいでだと知らせが来たとき、ほんとうはすぐにも駆け出して行きたかった」
でも、とヤイズミは影の落ちた青い瞳を曇らせる。
わずかに上がっていた口角が力なく落ちると、途端にヤイズミは人形のように冷たく感情の読めない顔になった。
「でも……でも、わたくしにあなたの差し出した手を取る資格があるのかと、考えたら……」
視線をしたに向けてつぶやくヤイズミには見えなかったけれど、彼女が話すたびにゼトの表情はわかりやすく変わっていく。
うれしいと言った彼女に目を丸くし、ほんとうはリュリュナに会いたかったと聞いて唇を引きむすんだ。ゼトの来訪がうれしかったと耳にした途端に頬を染め、手を取る資格がとこぼす姿を見て困ったようにほほえんだ。
やわらかく細めた瞳で見つめられていることに気がつかないヤイズミに、ゼトは正面から向き合って立つ。
心細そうに立つヤイズミの細い肩に手を伸ばしかけたゼトだったが、すこし迷って彼女の白い手を取った。
「やっぱり、行って良かった。そんな悩みなら、おれもいっしょに考えられる」
そう言ってからゼトは「あ、でも」と声をあげる。
「姫さんが嫌なら、おれの手なんか振り払ってくれればいいからな! そんときは、リュリュナを担いでくるから!」
慌てたように告げたゼトがヤイズミから一歩離れて手を引っ込めようとしたとき、その手を取ったのはヤイズミだった。
遠ざかっていくぬくもりを追いかけた彼女は、つかまえたゼトの手をきゅっと握る。
握った手にすがるようにぎゅうと力を入れて、ヤイズミはゆっくりと顔をあげた。
「……いいえ、いいえ。離さないでくださいませ。わたくしはきっとまた、考え込んで進めなくなることがあるでしょうけれど。そのときは、ゼトさんに、手を引いていただきたい、です」
どうにか言い切ったヤイズミの瞳は、いまにもこぼれそうな涙をたたえてうるんでいた。
常にはきりりと引き締まっている細い眉が不安げに下がり、引きむすんだ赤い唇がふるふると震えている。
白く透き通るような肌でありながら鮮やかに染まるほほは、こらえきれない感情のせいか。
ただでさえ美しいヤイズミが涙を浮かべて上目遣いに見つめている。そんな状況に、ゼトは声も出せずに固まった。
無言で見下ろすゼトをどう思ったのだろう。長いまつげの影をほほに落として、そっと目を伏せた。その拍子にほろり、と転げた雫を見てゼトははっと我に返る。
「あっ、いや! おれで良ければいつだって! 姫さんさえ嫌でなければ、何度だって迎えに行くぜ! 約束、な!」
ヤイズミがまばたきするたびこぼれる涙を見て、慌てふためいたゼトは「約束」と言いながらふたたび彼女の手を取った。
そして、その細い小指に自身の無骨な小指を絡めると、早口で歌う。
「ゆーびきりげんまん、うそついたら針千本のーます。指切った!」
歌に合わせて上下されたふたりの手が、歌詞の終わりにひょいと離れる。
「…………」
「…………」
互いに手を宙に浮かせたまま、ヤイズミとゼトは見つめあった。
ヤイズミは、目尻に涙を残しながら、きょとんと目を丸くしている。対するゼトは彼女を泣きやませようと真剣な顔をしていた。
その顔が、じわじわと赤くなっていく。ぱちぱちとまばたきをするヤイズミの目の前で、ゼトは真っ赤になった顔を手で隠す。
「その、やっ、約束をちゃんとしようと思っただけなんだ。姫さんが安心してくれるにはどうしたらいいか、って思って。でも、なんかガキみたいなことしちまったな……」
ゼトが恥ずかしさに耐えきれず、もごもごと口を閉ざしたころ。
「……ふふっ」
聞こえたのは、ちいさな笑い声。
おずおずと顔をあげたゼトが見たのは、ほほえむヤイズミの姿だった。やわらかな表情の彼女は、右手を差し出して首をかしげる。
「わたくしの手を引いて、連れて行ってくださるのでしょう? 約束、しましたもの。ね」
「っあ、ああ! 男に二言はねえ!」
ヤイズミの手を取ったゼトは、彼女と手をつないでナツ菓子舗へ向けて歩き出した。
熱いほどに火照る顔を自覚しながら歩くゼトは「チギのこととやかく言えねえな……」と胸でつぶやきながらも、ヤイズミのしなやかな手を離さず進んでいくのだった。




