史郎と霧島母娘㉛
「……わかりました、はい……ではまた後ほど……はい、失礼します……ふぅ……」
電話を終えたところで俺は背中を壁に預けて軽くため息をついた。
(まさかこのタイミングで亜紀の母親がなぁ……どうしたもんかなぁ……)
病院から聞かされた話を頭の中で反芻しながら、俺は霧島亜紀の母親が入院するに至った過去を思い返していた。
かつて霧島亜紀の母親は直美が産まれた時期を境に、少しずつ精神を病んで行っていた。
何せ当時の亜紀が近所でも噂になるほどの非行に走り、更には父親までもが浮気して家に帰らなくなったのだ。
元々世間体などを気にしている面もあった亜紀の母親はそんな周囲の視線と、また父親が居なくなったことで家計にも不安を抱えてしまい色々と限界寸前だったのだろう。
(そんな中で亜紀が直美を残して何処かへ失踪して……誰にも頼ることも弱音を吐くこともできなくなって……そりゃあおかしくなっても仕方がないのかもしれないけど……)
その後、亜紀の母親は残された直美に虐待めいた躾を行うようになった。
隣の家に居てそれを間近で見ていた俺達は何度も止めに入っては、亜紀のようなふしだらな子にならないようにしているだけだと追い返されたものだ。
(多分その言葉自体は嘘じゃなかったんだろうけど……もう加減も何も分からないぐらい判断力が無くなってたんだろうなぁ……或いは無意識のうちにストレスや憎しみをぶつけていたのかもな……)
最終的には暴力を振るったり刃物をチラつかせるようになり、流石に見過ごせなくなった俺は両親と協力して……浮気して逃げ出していた亜紀の父親を見つけ出して無理やり協力させた上で何とか直美を保護した。
その際に亜紀の母親は俺達にまで刃物を振りかざし攻撃して来て……それが決定打となりついには病院へ強制的に入院させられることになった。
(一応は配偶者である亜紀の父親の同意を得る形で……その時に直美が成長するまで……高校卒業するまでは最低限の養育費を振り込んだ上で霧島家も維持するように言い含めて……だけどまさかそれっきり全くこっちに干渉してこなくなるとはなぁ……まあ最初から期待してなかったけど……)
亜紀の父親はそれこそ自分の妻である亜紀の母親関連の連絡も受けようとはしなかった。
だから結果的に何かある時は霧島家の自宅電話に掛かり、次いで俺の携帯に掛かってくることになっていた。
(最初の内は直美ちゃんが幼すぎるのもあって殆ど俺の家で一緒に暮らしてて……だから俺の方にばっかり掛かって来てたけど全然良くならないって話で……それどころか会話すら成り立たない状態で下手したら一生このままなんじゃないかって思ってたのに……)
直美が成長して霧島家に戻ってからもその手の話を全くしてこなかった辺り、実際にずっと良くも悪くもならない状態が続いていたはずだ。
(虐待を受けてた頃の直美ちゃんは幼すぎて殆ど記憶はないみたいだけど……それでも名前を出すと嫌そうな顔をするぐらい苦手にしてたから、正直戻ってこれないことに安堵してた面もあるんだけど……まさか少しずつ改善してたなんて……)
何だかんだで俺の方からも病院へは定期的に連絡して亜紀の母親がどうなっているか聞いてはいた。
しかし少し前に亮が亜紀を連れ戻すために居なくなり、そのことで直美が落ち込み始めてからはこっちのことが気になり過ぎてついつい連絡を疎かにしていた。
当然その後に亜紀が戻ってきてからは余計に忙しくなって、入院している亜紀の母親のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
『経過観察を続けていますがこの調子なら自宅に戻れる日も遠くないと思いますが、その前にご家族の方とご面談して様子を見たほうが良いのではと先生が……何より当の本人が家族に会いたいと何度も口にしておりますので……』
「……家族、かぁ」
もう一度、電話で聞いた内容を思い出した俺はため息交じりに呟いてしまう。
病院側の言いたいことは分かる……確かに良くなってきたとはいえ家族の居る自宅に戻しても大丈夫かの判断は直接顔を合わせて見ないと何とも言えない面もあるはずだ。
尤も前は家族の存在がストレス元になっている可能性が高いとして面会は完全に禁止されていたのだが、恐らくは経過観察した結果として病院側は大丈夫だと踏んだのだろう。
(ただ問題は……虐待を受けていた直美ちゃんの意志と……本当の意味で母親を狂わせる要因となった亜紀と未だに顔を見せない亜紀の父親をどうするか、だよなぁ……)
霧島亜紀の母親が会いたいという家族とは果たして誰の事なのか……直美だけなのか亜紀もなのか、或いは父親も含めているのかもしれない。
しかし俺としては今更トラブルの要員にしかなさそうな霧島家の両親に、直美や亜紀を合わせてこっちが傷付かないかの方がずっと気になってしまう。
(幸い病院側も今すぐとか絶対にとは言わなかった……だからこっちから断れば多分それで……だけどそんな判断を俺が勝手にするのは……)
冷静に考えれば素直に直美や亜紀へ話すべきだとは思う。
だけど下手に母親のことを意識させるとそれだけで虐待されていた直美も、逆に母親を傷つけるような行いをしていた亜紀も……どちらも余計な苦しみをまた背負ってしまうかもしれない。
(せっかく色々と乗り越えて、ようやく幸せな時間を過ごせるようになったのに……ずっとあの二人には笑っていて欲しいのに……いや、俺が二人の幸せな姿を見ていたんだ……)
何より俺自身の想いとしてようやく掴んだこの幸せな日々を失いたくなかった。
だから亜紀たちに伝えてどうするか一緒に考えるのが正しいと分かっていながらも、何とか上手くごまかせないかと……考えてしまう。
「ど、どうしたの史郎おじさん? そんなしんこくそーな顔しちゃって……大丈夫ぅ?」
「し、史郎……大丈夫? 何かあったの?」
「……いや、何でもないよ……うん、俺は大丈夫だから……」
いつまでも戻ってこない俺を心配して廊下に顔を出してきた直美と亜紀に……俺の一番大切な、何と引き換えにしても守り抜きたい宝物に心配かけないよう笑顔を向けるのだった。
(もう少し……ゆっくりと考えよう……亜紀の母親をどうするか……いやそれだけじゃない、霧島家そのものとどうかかわっていくのかを……)




