20 さざなみ寄せて、近づく。
「ちょっと失礼しますね。ルピナス様」
黒髪の補助司書は腰のポーチから付箋の束を取り出すと、次々に卓上でひらいたままの頁に挿していった。分厚い辞書も平たい地図帳も、等しくぱたんぱたんと閉じてしまう。
あまりの手際良さに、ルピナスもミュゼルたちも一様に呆気にとられた。かろうじてルピナスだけが控えめな抗議の声を上げる。
「あの……司書殿? すみません。まだ調べ物が」
「いいえ。お仕事熱心なのは結構ですが、せっかく公爵家の方々がいらっしゃったのですから。しかも、朝からずっと詰めたまま。お食事も摂っていらっしゃらなかったでしょう?」
「あ、そうですね。そう言えば」
(……)
ミュゼルはレナードとともに二人のやり取りを眺めていたが、ちょっと気付いてしまった。
あの、序列に関してはひどく几帳面なソラシアが――?
「なるほどね」
「お兄様?」
ふっ、と笑む気配がして隣を仰ぐと、兄が目を据わらせている。
その意外な迫力と剣呑さに、ミュゼルは思わず半歩後ずさった。
レナードはそんな妹に視線を和らげて片目を瞑ると、やあ、と気軽な調子で机へ近づいて行った。
「お邪魔してすまないね、ルピナス殿」
「いいえ。でも、どうしてここに?」
「さ〜あ、どうしてかなぁ。ね、ミュゼル?」
「!!! えっ? あああの、わたくし?」
急に話を振られてわたわたと慌てると、ソラシアにくすっと笑われた。
透き通って嫌味のない、天女のような微笑みだった。
「皆様、よろしければ館内のカフェにご案内しましょうか。お喋りはぜひ、そちらで」
「あ、はい。ごめんなさい」
「頼みます」
「ありがとう」
――――……解せん。
なぜか、場を騒がせた張本人のレナードがいちばん悠々としている。
ひとまず、一行はたおやかな司書殿に続いて場を移した。
* * *
カフェは館内ではあるものの、近年増設された新しいもの。半ば温室のようなドーム状の硝子屋根の下、ちょっとした花々も植えられている。
ドームの裏手は公園になっており、疲れた目を癒すには最適な空間だった。
給仕の女中がやや畏まりながら四名を奥まった場所へと案内する。他の客とはほどよく距離をとれる席で、簡易の間仕切り付き。日当たりもちょうどよく、ぽかぽかと心地いい。
ソラシアは着席した三名を見届け、ではごゆっくり、と立ち去った。
そつのない淑女の礼。さらりと揺れる黒髪。それらの印象がうつくしく映えて、ミュゼルの胸の裡に、ほんの少しの小波をたてる。
が、それはあくまでも自分のなかの問題。今このときは些細なこと。
ミュゼルは気を取り直し、運ばれてきた紅茶としっとりしたパウンドケーキに癒されつつ、王都からのお客人――ルピナスに向かい合った。
「ねえ、聞きたいことが増えちゃったわ。どうしてあなた、ソラシア嬢に素性を隠したの? 彼女、すっかりあなたを王都の騎士だと思ってるじゃない」
「ソラシア?」
「さっきのかたよ。黒髪の」
「……あぁ、司書殿。いや、とくに訊かれなかったし。
それより、いちいち調べ物に身分をとやかく言われないっていいね、大図書館。北都はどっちかっていうと魔獣関連産業ばかりが潤ってて。ハンターギルドと一般民、貴族層の隔絶が激しいから、小さいのがばらばらなんだ。こういう施設も充実させたいな」
「いや、そうじゃなく………………って、あれ??
おかしいな。間違ったことは言ってない……だと?」
レナードは心底ふしぎそうに珈琲のカップを傾けている。
ルピナスは、申し訳なさそうに眉をひそめた。
「あの。大事にしたくなかった、というのはもちろんありますが。名乗ったほうが良かったですか? そのときは受付で老司書殿もいらして。滞在先を尋ねられたので、後ろ盾ははっきりしたほうがいいかと、エスト家の名を出しました」
「ああ、それは構わない。きみが職務上必要と判断して東公家の名を出すのは、エスティアではむしろ正しい。何事も、最も早く済む」
「よかった。ありがとうございます。
――で、ミュゼル? 他の『聞きたいこと』って?」
「う」
カチャ、と合図のようにフォークが鳴る。
見た目によらず健啖家らしいルピナスは、春野菜のパスタとかぼちゃのポタージュを行儀よく平らげたあと、ナプキンで口元を拭きながらこちらを見た。
(憎ったらしいくらい、平常心なのよね……)
ミュゼルは、ふう、と溜め息をつく。
わけもなくその綺麗なほっぺたを抓りたくなる衝動を抑え、あきらめてそっと顔を寄せた。
なお、にわかに近付いた客分と妹に、レナードはムッと眉を寄せる。
「じゃあ、二つ目の質問ね。いったい何をそんなに調べてたの? わたしたちには聞けないようなこと? そもそも、殿下のお墨付きがあるならうちの騎士団も動かせるわ。彼らに任せてもいいのに」
「! それは…………ごめん。決して、きみたちを軽んじてたわけじゃないんだ。東公領騎士団のことも信頼してる。ただ、昨夜の思いつきを検証するには圧倒的知識不足で。それで必死に補充を」
「思いつき?」
「え……ええと」
問われたルピナスは、ばつが悪そうに頭を搔いた。
じつは――と、難しい顔をする。
「覚えてる? 売人の女。あいつ、単身でうろついてたのも怪しいけど、品の出どころも怪しいと思ったんだ。王都や東都じゃ、もう結構な数が出回ってるのに。在庫はたっぷりあって、どれだけでも都合をつけられるような口ぶりだった」
「あ!? そうね。そう言えば」
「きみたちの仮説通り『あれ』がアデラ製なら、船で運ばなきゃならない。でも、その気配がない」
「うん、うん」
「最初は船だったかもしれないがね。いまは違うと?」
「ええ。レナード殿」
書架での剣呑さはどこへやら、いまは同じ目的のためにレナードも真剣になっている。
ルピナスは一つ頷くと、真摯に二人を見つめ返した。
「レナード殿は外遊で、かの大陸に渡っておいででしたね。今夜は色々と聞かせてください。ミュゼル、きみも同席して」
「えっ!? いいの?」
「もちろんだよ」
「おいおい、ルピナス殿」
妹大事なレナードは気色ばんだが、ルピナスは確固として讓らなかった。真面目そのもののまなざしでミュゼルの手を握る。
「!!! こらっ。何を」
「ミュゼル。協力してほしい。危険な目には遭わせないと約束する。今度はちゃんと『東公家の姫』として付き合ってほしいんだ」
「!」
どきん、と心臓が跳ねて、ミュゼルは驚いた。
穴が空くほどルピナスの顔を見つめた。
ルピナスは、それを受け止めた。
「おそらく、近隣のどこかに王都への中継地か商品の精製地がある。トール王子は言ってた。成分はさほど珍しくない、と。
あいつは、騎士たちが来る前に逃げおおせてしかも門をくぐらなかった。
あるんじゃないか? そういう場所。たとえば海沿いの村で。――隠していた小舟で、向かえるような」




