440.グレンの最期
居住区の一室でグレンはソラに背を向けて作業していた。額に噴きでる汗を拭い、息を切らして胸を押さえる姿は、どう見ても体調が悪そうだ。グレンは振り向いてオートマタを呼ぶ。
「こちらへこいエヴィ、〝じゃくじぃ〟の操作を教えてやる」
「はい、グレン様」
操作をひと通りエヴェリグレテリエに教えてから、グレンは師団長室に戻った。どっかりと椅子に腰をおろし、目をつむって深く息を吐いて呼吸を整えると、あとからついてきたオートマタに、グレンは話しかける。
「……これでネリアを迎える準備はだいたい整ったな」
長いこと使われていなかった客用の寝室も、クロスやカーテンをとりかえて、新しいベッドをいれた。これで次は〝竜王神事〟までに、王都へやってくればよいだろう。
「あとはネリアを迎えにデーダスへ戻るだけじゃな。あの娘が喜びそうな菓子でも買って帰るか……」
「グレン様」
老人のひとり言に被せるように、オートマタが彼に呼びかける。グレンは閉じていたミストグレーの目を開き、エヴェリグレテリエの血のような赤い瞳を見返す。
「なんじゃ、エヴィ」
「〝血の約定〟に基づきお知らせ致しますが……私との〝精霊契約〟はグレン様の死によって解除され、私はこの体から解き放たれます。そのときはもう間もなくかと」
師団長室の守護精霊が言いだした内容に、グレンは眉をひそめた。
「そのときが近い、そう言いたいのか?」
「……はい。次の〝竜王神事〟までには訪れるかと」
グレンは自分の胸に、シワだらけの手を置いた。心臓の魔石化は徐々に進行しており、天才と言われた男にも、どうしようもなかった。
「わしの見立て通りじゃな。もう少しネリアを見ていてやりたかったが……後のことは他の者たちに託すしかないか。どうかこの世界が、彼女にとって優しいものであってくれるといいが」
祈るような気持ちでつぶやいて、グレンはふと思いついた。
「エヴィ、〝精霊契約〟に追加を頼みたい。わしがいなくなったあとは契約を引き継ぎ、この世界についてまったく知らぬあの娘の面倒を、この居住区で見てやってほしい」
「…………」
エヴェリグレテリエが返事をしないので、グレンはもういちど念を押した。
「エヴィ、〝精霊契約〟に追加を。できるだろう?」
けれどこれまで主の命令に忠実だった、師団長室の守護精霊は静かに首を横に振る。
「可能ですが〝精霊契約〟には対価が必要です。それを行えばグレン様は、ネリア様にお会いできなくなります」
グレンは目をみはった。体がつらいという自覚も、近いうちに終わりがくるという予感もあった。だが今生きて動いている体の終焉を、そこまではっきりと意識したことはなかった。
「そうか、それほどか……」
きつく目をつむると、グレンは再び深く椅子の背にもたれた。黄緑色の瞳をキラキラと輝かせた、娘の元気な笑顔が脳裏をよぎる。ふわふわと風に踊る赤茶色の髪と、ときおり見せる繊細で寂しそうなその横顔も。
もうグレンの寿命が長くないということも、自分が死んだらどうするかということも、すでに言い含めてある。彼女はその大きな目に涙を溜めて話を聞いていたが、結局その涙をこぼすことはなかった。
「あの娘ならわしがいなくても、きっと自分でなんとかするだろう。『わたしなりにこの世界でがんばるよ!』と言い切っておった。強い娘だ」
彼女を召喚したのはオドゥとグレンだが、瀕死の状態で異界へ渡ることができたのは、娘の生きようという意思、命の輝きそのものの力だ。
その輝きに魅せられて、手を貸すことを決めた途端、止まっていた時が動きだした。
今にも好奇心で飛びだして行きそうなあの娘を、これ以上デーダス荒野に留めておくことはできないだろう。すべての運命の歯車が再び回りはじめる。
――時がきたのだ。
「ネリア……お前を幸せにしてやりたかったが、それをやるのはどうやら私ではないようだ」
グレンはつぶやき、目をゆっくり開くと、大きく息を吐き立ちあがった。息子の少年時代と同じ顔をしたオートマタが彼を見あげる。当時は自分の胸ぐらいまでだった息子の背丈は、もうとっくに彼を追い越している。
ふと笑みがこぼれ、グレンは手を伸ばして遠い昔にそうしたように、オートマタの頭をくしゃりとなでた。
「ネリアよ……思うがままに生きろ。そして運命の歯車をおのれの手で回せ。あのとき『生きたい』と願ったように。その命の輝きに魅せられた者が、きっとお前に手を貸すだろう」
老人の細い体からすさまじい魔力がふくれあがり、彼の紡ぐ言葉が〝言霊〟となって精霊言語に変換される。
「エヴィ、〝精霊契約〟だ。我が命の最後の灯を対価に差しだそう。ネリア・ネリスに仕えよ」
グレンの言葉に呼応するようにエヴェリグレテリエから、精霊の言語で書かれた魔法陣が部屋全体に拡がる。
差しだされたオートマタの小さな手に、グレンは自分の節ばった、シワだらけでカサついた手を重ねた。
宙をにらむミストグレーの瞳が爛々と輝き、ボサボサだった銀の髪は光を帯びて逆立つ。
その身体から放たれた大量の魔素が、術式の線に吸いこまれて走りだす。血液が水晶のように固まり、心臓の魔石化が一気に進行していく。
人間には解読不能な魔法陣がひと際輝き、まわりだすと同時に命の詩が流れはじめる。
生と死の狭間でのみ、聴くことができるという精霊の詩。
それは祝福しているようでもあり、悲しんでいるようでもあり、静かなのに騒めいているような不思議な音で。グレンは束の間、その音色に聴きいった。
(あの娘も異界渡りのときは、これを聴いたのだろうか)
「ネリア……異界からやってきたお前の命は、これからどこへ行く。この星に束の間いて、また去って行くのか?」
すべての命は星から生まれ、そして星へ還ってゆく。
「『誰でもない』などと、変な名前をつけてしまって悪い事をした。ちゃんとした名をつけてやればよかった」
グレンはそこで、エヴェリグレテリエに目を向けた。
「魔石はわが息子へ……詫びのかわりだ。あいつには結局何もしてやれなかった」
疎遠になった息子に、杖を作ってやると言ってもきっと断られる……そう思っているうちに時が過ぎてしまった。
「わしのかわりにネリアが杖を作ってくれればいいが……」
だがそんな些細な気がかりも、体の奥底から湧きでてくる深い歓びに押し流される。
老人の口から最後に漏れた名前は、彼にとっては長すぎた人生の中で、束の間いっしょに過ごした女性の名だった。そう、ともに生きた時間はほんの少し……それなのに、なんと輝いていたことだろう。
「……レイメリア、ようやく君に会える」
もう手足の感覚はなくなって、ただ気力だけで彼は立っていた。長年過ごした師団長室、そこで錬金術師団長として最期を迎える。
「死に方を選べるとしたら、これはまずまずのものじゃないか?」
祖国を捨てた自分の魂が、死して精霊になるとは思えない。それよりは〝大地の精霊〟が選んだように大地に還り、地を覆うネリモラの花となって咲き誇りたい。
最後の言葉は音にならず、ヒュウヒュウとしたかすれ声で、それでも精霊の耳はきちんと言語として拾っていた。
人前では決して仮面をとらず、孤高で知られた錬金術師。グレンは満足そうに笑っていた。
――レイメリア。私はなかなか、いい仕事をしただろう?
命が消えると同時に消失の魔法陣が発動した。わずかに残った魔素が魔石へ集まり、体の崩壊がはじまる。赤い瞳のオートマタは、まばたきもせずそれを見ていた。
数刻のち、静かになった師団長室で、あとに残されたのは魔石がただひとつ。
「お約束致します、我が主にして我が友……グレン・ディアレス。このエヴェリグレテリエはネリア・ネリスと〝血の約定〟を行い、〝精霊契約〟を引き継ぐことを。そしてあなたの魔石はレオに……」
白い髪に赤い瞳のオートマタはうつむき、両手に魔石を大切そうに捧げ持ち、その青みがかった鈍い銀色の光沢に向かって、ささやくように話しかけた。赤い瞳が濡れたように光った。









