434.ダルシュのスープ
タクラの港は貿易品を積んで入港する大型船や、そのあいだを行き交う小型の輸送船で交わされるエンツ、そのまわりを飛ぶ海鳥のイールの鳴き声や、港で働く労働者たちや、交易品をあつかう商人たちの掛け声でにぎわっていた。
「アイリ、海鳥のイールには気をつけて。あいつらダルシュにつけたパンを狙ってくるから」
「はい」
いつもはお団子にしている黄緑の髪をおろし、毛糸の帽子を深くかぶったミーナの注意に、ラベンダー色のショートカットに白いイヤーマフをつけたアイリがうなずく。
ダルシュというのはたっぷりの魚介と刻んだ根菜を入れて煮こみ、ミルクをいれた濃厚なスープで、港町で働く労働者に人気がある。
「はいよ、ダルシュふたつお待ちどお。パンはひとつずつでいいのかい?」
「じゅうぶんよ!」
屋台の店主はカラカラと笑い、スティック状のキトルもスープに挿して渡してくれた。
「お嬢さんがたにはそれじゃ足りないね、よかったらキトルもつけとくよ」
「やだ、ありがとうおじさん!」
「ありがとうございます!」
小麦粉を練って薄く伸ばした皮にチーズをくるみ、油で揚げたキトルはカリカリの生地をかむと、チーズがトロリと流れだす。ミーナは、ホカホカと湯気をたてるダルシュをすすり、キトルをかじってアイリに笑いかけた。
「アイリのおかげね、あの店主ったらダルシュを渡すときにウィンクしてたじゃない」
「ええ、陽気なかたですね。これ、とってもおいしいです」
「でしょう。港町は活気があっていいわよねぇ、潮の香りがするし。イールの鳴き声はちょっとうるさいけど」
ふたりはまずニーナとミーナの実家であるベロア子爵家に顔をだして新年を迎えたあと、早々にタクラへ戻って宿に滞在している。今は工房にする物件を探して、港のあちこちを巡っているところだ。
昼食は宿に戻らず屋台で済ませることにして、ふたりはダルシュを飲みながら相談する。
「なかなかこれ、といった物件はないわね。だだっ広い倉庫みたいなところは多いけど、布や染料といった素材をきちんと保管できて、職人たちが通いやすい場所となると難しいわ」
「マール川沿いの上流には染織工房が集中してますが、港の近くも便利ですよね。さっき見た倉庫はどうですか」
「それなんだけどねぇ……私の勘がこういうのよ、『ニーナは喜ばない』って」
ミーナはパンをダルシュに浸し、食べながらため息をついた。
「ニーナは静かなところが苦手だし、港の近くがいいの。問題は光と工房からの見晴らしね、窓がないとぜったいダメだわ」
昼間の自然光と夜にともす魔導ランプの明かりでは、布の色がまったく違って見える。作業するなら自然光をふんだんに採りいれられる窓があるところがいい。
彼女が新しいデザインを生みだせるよう、港を見渡せる窓から空や海を眺められて、刻々と移り変わる色彩を楽しめるといい。
「染料を合成するなら、光がはいらない部屋も必要です。それに素材の保管庫も」
「困っちゃったわね」
すぐに見つかるだろうと思っていたのに、最初は観光気分だったミーナたちも、焦りを感じていた。アイリはスープを飲み干すと立ちあがった。
「私、ちょっとそのへんを散歩してきますね」
「あまり遠くにいっちゃダメよ、アイリは可愛いんだから」
「だいじょうぶですよ、こう見えて護身術はひととおり習いましたから」
にっこりとミーナに手をふって、浄化の魔法をかけたカップを屋台に返すとアイリは歩きだした。
ニーナと幼馴染のディンがついに結婚したという知らせに、ニーナたちの両親は大喜びした。里帰りするミーナといっしょに、ベロア家を訪れたアイリも大歓迎されたが、それと同時に大騒ぎになった。
ラベンダー色の髪と潤むような大きな紅の瞳を持つ美少女が、タクラ郊外の農村に突然あらわれたのだ。ショートカットにした短い髪からは白い襟足ときゃしゃな首筋がのぞき、立ち居振る舞いも楚々として美しい。
アイリにひとめ惚れしたミーナの従兄弟たちが、毎日プレゼント攻勢をしかけてきて、年明け早々にふたりはタクラへと逃げだすはめになった。ミーナにまで謝られて、アイリは何だか申しわけなかった。
「ごめんねアイリ、落ちついてすごせなかったわよね」
ミーナの従兄弟たちはみんな、優しくて頼もしくていい人たちだった。
「ウチにきてくれたら、アイリちゃんを働かせたりしないのに」
けれどそう言われた瞬間、自分でもどこかがっかりした。働くのは大変だけど、やりたいことができている今の生活が好きだった。
(もういちどだれかを、好きになることなんてあるかしら))
アイリはそっとため息をついて、きた道をふりかえる。
(そろそろミーナのところへ戻ろう……)
そのときアイリがさっき通りすぎた細い路地から、聞き覚えのある声がした。
「そこを通してくれないか」
(……え?)
でもまさか彼がここにいるはずがないし、きっと空耳にちがいない。半信半疑でそっと路地をのぞけば、帽子をかぶった品のいい青年が、ガラの悪そうな数人の男に囲まれていた。
港で働く男たちと同じような、厚手のチェック地のシャツに深緑のセーター、じょうぶで保温性の高いズボンを身につけ、くたびれてすり切れた茶色のコートに、小さなつばつきの帽子をかぶっている。
「その素材をおとなしく渡せば通してやるよ」
「お前みたいな若造が持つにはすぎた代物だ」
男たちに囲まれた青年はどこか気弱そうで、それなのにのんびりと笑う。
「まいったな、これを持って帰らないと『お使いもできないのか』って兄さんに怒られるんだ」
「いいから……渡せよっ!」
いっせいに男たちが動き、ゴツい金属のサックをつけた拳をふりあげた瞬間、助けを呼ぶよりも先にアイリは駆けだしていた。捕縛陣をくりだすのは慎重にしないと、彼までも縫いとめてしまう可能性がある。
(彼が本当に彼なら……助けを呼ぶのはまずいわ!)
護身術ぐらいは習ったとはいえ、アイリだって実際に戦うのははじめてだ。
できるだけ小さな魔法陣を放ち、まず手前にいたひとりの動きを止めた。海で働く男たちなのか、顔や服からのぞく胸元や腕にも刺青がある。
青年も素早い動きで男たちの拳をかいくぐり、背の高い男の腕をひねりあげ、首筋にビシッと手刀を叩きこむ。
『死角を狙え。いざというときは腕を伸ばすよりも、脚のほうが相手に届く』
護身術のダグ先生に教わったとおり、アイリは自分の脚に身体強化をほどこすと、捕縛陣にかかった男の股間を思いっきり蹴りあげる。青年はおどろいたように彼女をみた。
「ぐぉっ!」
ひと声うめいて悶絶した男を盾にして、場に飛びこんだアイリは、もうひとりの首にまわし蹴りを食らわせる。
「きみに助けてもらうのって、これで二度目だね」
青年ののんびりした口調に、アイリは相手がだれかも忘れて怒鳴りつけた。
「なぜあなたがこんなところにいるんですか……ユーリっ!」
不意を突かれた男たちは乱入したのがアイリひとりと知ると、とたんに余裕をとりもどした。鎖をじゃらつかせながらリーダーとおぼしき男が下卑た笑いを口の端に浮かべた。
「ここらじゃ見ねえような上玉だなぁ、おい」
「ああ、金になる顔してやがる」
無精ひげを生やした男があいづちを打ち、じり……と左右から間をつめる。そのうしろでアイリが回し蹴りをくらわせた男がヨロヨロと立ちあがり、目をギラつかせて殺気をみなぎらせた。
ユーリをかばうように彼のまえに立ったアイリは、紅の瞳でキッと男たちをにらみつける。
「あいにくあなたたちの金づるになる気はありません。倒れた男たちを連れてさっさと引き取りなさい!」
ところが男たちはアイリに引くどころかむしろ、ヒュウと口笛を吹いて感心したようにうなずきあった。
「気まで強いたぁ……最高だぜ、オイ」
「えっ……」
「あのさ、きみらの相手は僕だよね。この子は逃がしてあげてくれないかな」
男たちの反応にとまどうアイリのうしろから、青年の困ったような声がした。









