弟が可愛い
パラディーの第一印象は、乾燥している、だった。
アヴェリア山脈の斜面に樹木は乏しいが、大河ティーヴァに沿った水の豊かな平野部に王都クィールがある。クィールを出れば、広大な草原地帯が続いている。
パラディーには軍の秘密情報部から諜報員が潜入していた。
出発前に渡されていた情報を元に、クィールのはずれにある古びた二階建ての建物を訪れた。
入口を塞ぐ深いフードを被った年齢不詳の男に、ジェニーが首に下げた認識票を服の下から出して見せれば、彼は無言で道を開けてくれた。
階段を上がって埃っぽい室内に入ると、ジェニーとエミリアは狼の耳が無いことが一見して分からないように深く被っていた帽子を取った。
とりあえずは一息ついて、ジェニーは後ろについてきていたカミーユを振り返る。
「ナタンが戻ってくるまで、もう少し辛抱して」
「ワァウ」
狼型になっていたカミーユは、部屋にあったソファの前まで行って大人しくそこに伏せた。
事前にカミーユに聞いていたとおり、クィールの人狼たちは狼型、人型、あるいは完全体の人狼と様々な姿だった。
カミーユは人型で暮らしていたということで、それならば狼型の方が見知った人の目をごまかせると思ってそうしてもらっていた。加えて、何かあった際には狼型の方が逃げやすい。
ナタンは今、黒い大鷲の姿となって上空を舞っているはずだ。
カミーユの書いた手紙を、彼の従兄弟であるリュカに届けるために。
パラディーに入る前、ジェニーはカミーユに言った。
「あなたの家に、あなたの安否を知らせるべきだとも思うけれど、少し待ってもらうわ」
これはナイツとしてのジェニーの判断だった。ジェニーたちの目的はオレニアをパラディーから持ち出すことだ。国王に仕える立場のカミーユの伯父が、それを渋る可能性もある。自国で何とかすると言い出されては困る。
するとそれには了承したカミーユが、どうしてもとジェニーに言ったのだ。
「リュカには連絡を取りたい。ちゃんと話せば、あいつは必ず約束を守る。とりあえず今どういう状況かも聞けるし」
会ったこともない少年を信用するのは不安だというのが正直なところだが、最後にはジェニーはカミーユを信じて了承した。情報が欲しかったのも大きい。
そこでナタンがリュカの通う学校へ向かったという状況だ。
雄大な大鷲の姿は、標高が高いパラディーの深い青空ではそれほど珍しいものではなかったらしい。パラディーには人狼だけではなく多くの獣人が暮らしていた。
ジェニーが窓辺に寄って空を眺めていると、大鷲がこちらに近づいてくるのが見えた。
すぐに上げ込み窓を上げれば、大鷲は羽ばたきをやめて、滑空しながら一直線に降りてきた。
室内に入ってきたナタンに、エミリアが隣の部屋へと続く扉を開けた。飛んできたナタンがそのままそちらに姿を消したので、エミリアは扉を閉める。
間もなくして、身支度を整えたナタンが隣室から姿を現した。
「ご苦労様。無事?」
ジェニーが声を掛けると、ナタンは頷いた。
「はい。彼もすぐそこまで来ています。迎えに行ってきます」
「尾行は?」
「ありません。上空から確認済みです」
と言って、ナタンはすぐに階下の入口へと向かう。
殆ど時間を置かずに、勢い良く階段を上がる足音が聞こえる。伏せていたカミーユが顔を上げ、前足を伸ばして座った。
「兄さん!」
勢い良く扉を開くと同時に駆け込んできたのは、カミーユと同じアッシュブロンドをした、まだ幼さの残る少年だった。
彼はカミーユの姿を見て、琥珀色の瞳にうっすらと涙を浮かべる。
「戻ってきたんだ……。無事だったんだね、兄さん!」
そう言って一目散にカミーユに飛びついたリュカは、カミーユのふかふかした体をぎゅうっと思い切り抱きしめた。
それを見てジェニーは思い出す。
「戻っていいって言うの、忘れてた……」
「そんな時間、無かったわね。服は向こうの部屋だから、今戻られても困るし」
ジェニーの言葉にエミリアが返したところで、リュカが見る間に狼型に変化していた。
「ワァウ!」
ぎょっとするジェニーとエミリアの前で、脱げた服がぐちゃぐちゃになるのも気にせずに、リュカはカミーユに飛び掛かる。
ふわふわと毛並みの良い狼たちがじゃれあっている。その姿は、滅茶苦茶に可愛かった。
「狼型のままで、良かったかも……」
ジェニーは思わず呟いていた。できればしばらく眺めていたい。
「……可愛いとかどうせそんなことを考えているんでしょうけど、私としては早く話を聞きたいわね」
と、ジェニーの内心を見透かすように言ってから、エミリアは一歩進みでて狼たちにぴしゃりと言った。
「そろそろいいかしら。隣の部屋で着替えてきて」
エミリアの声にぴたっと動きを止めて、リュカは散らかった自分の衣服を口に咥えると、カミーユの後ろについてすごすごと隣室へと向かった。
それから数分後。
「大変失礼しました。兄に会えたのがとても嬉しくて」
かあっと顔を赤くして身を縮めたリュカは、とても可愛かった。声変わりもまだで、輪郭も丸みを帯びた少年らしい顔つきだが、やはりカミーユと同じで整った顔立ちをしている。
人型に戻ったカミーユが、リュカにジェニー達三人を紹介し、自らの陥った状況を説明した。死にかけて逃亡し、リネーレ共和国まで逃げたことを。
「行き倒れ寸前のところをジェニーに助けてもらって、戻ってくることができたんだ」
カミーユの話を黙って聞いて、それからリュカはジェニーに向き直った。
「ジェニーさん、兄を助けてくださってありがとうございます」
「え? いえそんな……」
カミーユは、ジェニーとの出会いの詳細までは話していない。
元々は迷い犬だと思ったから拾って、そのまま押し掛けられたも同然だ、とは言えない。
「たった一人の大切な兄です。本当に嬉しいです。ありがとうございます」
深々と頭を下げて感謝され、ジェニーは言葉に詰まった。
そんなに大切な人を、散々犬扱いしてごめんなさいと心の中で謝った。




