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キスは優しく

「ごめん。怒らせておいて悪いけど、それはちょっと嬉しい」


 カミーユは口元を片手で押さえた。多分、緩んだ表情を隠すためだ。

 完全に固まっていたジェニーは、やがてよろよろと動き出す。背中が壁にぶつかった。


 妬いている。火をつけて燃やす方ではなくて。つまり、嫉妬。


「私が……?」


 視線を彷徨わせて呆然と呟いた後、ジェニーは思い直す。違う、そうじゃない。

 ジェニーは再び視線を上げて、カミーユを睨む。


「違うわ、嫉妬なんかじゃない。婚約の話が出ていたのに、それを黙って私につがいになろうって言ったことが納得いかないだけよ」


 するとカミーユは口元を隠していた手を戻して、少し困ったような表情になる。


「確かにアリアーヌの婚約者候補として名前は挙がったけど、あくまで候補だよ? 話がまとまるとも思えなかったし」

「そんなこと、分からないじゃない」

「アリアーヌは、従兄弟と年が近いって言ったよね?」

「言ったけど……」

「ごめん、言い忘れてたかな。従兄弟は十三歳。アリアーヌはその一つ下」

「…………」


 予想外の展開に、ジェニーはすぐには言葉が出てこなかった。


「十二歳だよ? さすがに無理。向こうにとっても、俺で妥協するとは思えない。だからまとまらないと思った」

「……でも、年の差なんて政略的な婚約なら問題にならないでしょう?」


 ようやくそう言うと、カミーユは小さく首を横に振った。


「それは年齢以外で、俺がベストな相手ならね。ヴィルシェーズ家の当主は伯父なんだ。その伯父には将来跡を継ぐ立派な息子がいて、アリアーヌと同世代。学校も一緒で本人たちも親しい。ユメル家からすれば、何でそっちじゃないんだって話になるだろ?」

「それは……」


 いつの間にか強張っていた体から力が抜けた。ジェニーはゆるゆると視線を落とす。

 そうするとカミーユが気遣うような声色で言った。


「家の事情と、君とつがいになりたいっていう気持ちは、俺にとっては全く別問題なんだ」

「…………」

「つがいはさ、全員が全員巡り合えるわけじゃない」


 ジェニーは顔を上げた。カミーユは真っ直ぐにジェニーだけを見ていた。


「どんなに会いたくても、会えないことだってある。でも、俺はジェニーに会えた。君を見つけた。ジェニーのためなら、全てを捨てられる」


 カミーユの一途な思いに包まれて、ジェニーは慌てて俯いた。胸が詰まって、思わず涙が出そうになったからだ。


 そして自分を省みる。さっきは嫉妬なんかじゃないと言ったが、これははっきりと嫉妬だ。婚約中ならともかく、そうではないのだから責める必要などなかった。


「……ごめん。私、自分の都合で返事を保留しているのに、こんな――」


 やきもちだけは一人前で。ジェニーはいよいよ自分に嫌気がさした。


「普通に聞けばいいだけだったのに……」

「妬いてくれたのは、嬉しかったけど」


 カミーユの言葉に、ジェニーはゆっくりと顔を上げる。

 すると緩く微笑んでいたカミーユの表情が、少しせつないものに変わった。


「でも、黙っていたのはやっぱり悪かったよ。ごめん。何ていうか、わりと情けない話だから、言いたくなかったのかも」

「……情けないって何が?」


 驚いて聞けば、カミーユは彼にしては珍しく、ジェニーから視線を外した。

 そして遠い記憶を思い出すような目で、切々と話し始めた。


「リュカが生まれる前まではさ、伯父夫婦には長いこと子供がいなかったんだ」


 リュカというのはきっと、彼の従兄弟にあたる少年のことだろう。


「俺は四歳で伯父夫婦に引き取られてから、子供のいない伯父の後継者として育てられていたんだ。でも、子供ができないと思っていた伯父夫婦が、遅い子供を授かった」


 ジェニーは頭の中で計算する。さっき従兄弟は今十三歳だと言っていたから、それはカミーユが八歳の時のことだ。


「正統な後継者が生まれたヴィルシェーズ家で、俺は多分、自分の立ち位置を守るために必死だったんだと思う。リュカのことは実の弟と思って接していたし、実際大切な弟だと思っているけど、出過ぎた真似をするなって言われないよう常に気を使ってた。伯父夫婦とリュカが三人でいるときには、いつも透明な高い壁があるように感じてた」


 カミーユは小さく息をついた。


「それでもさ、こうやって育て上げてくれたことに、本当に感謝してるんだ。多少の差は、仕方がないって理解できる。でも今回のことで、伯父夫婦が大声で話してるのを聞いたんだ。多分俺が家にいないと思ってたからだと思うけど、運悪く戻ってきちゃってさ。伯母はリュカを婚約させるのはどうしても嫌だって泣いてた。政敵の娘と一緒にはさせたくないって。何かあったらどうするんだって」


 実際、何かあった。カミーユは魔力を奪われて国から逃げることになったのだ。


「結局、ユメル家が俺じゃ納得しないって分かっていながら、伯父はリュカじゃなくて俺を選んで話を持っていったんだ。俺への確認も無く」


 カミーユは腕を組んで、自嘲的に笑う。


「伯父が相手をどう説き伏せるつもりだったかは知らないけど、どちらにしても俺も理由をつけて断ろうとは思ってた。でもそれじゃ、世話になった伯父夫婦に申し訳がないとか、リュカが望まぬ婚約をしなくちゃいけなくなるのは可哀想だとか、だったら俺ならいいのかとか、何かもう自分でも色々ごちゃごちゃしてさ。そういう情けないところ、知られたくなくて」


 ジェニーは胸が苦しくなっていた。

 目を合わせないカミーユを見ながら、ややして呟く。


「別に情けなくなんか、ない」


 カミーユは驚いた様子でジェニーを見た。ようやく視線が交わる。彼は傷ついた目をしていた。


「だからそんな風に笑わないで」


 言いながらジェニーは、両親を亡くした直後のことを思い出していた。

 夜になるといつも、ベッドの中で一人で泣いていた。楽しい記憶はあまり残っていない。きっとショックで色々と抜け落ちたせいだ。


「寂しいって思う気持ちは、情けなくなんかない」


 ジェニーはもう一度繰り返していた。そう言ったのは、多分自分自身のためでもあった。


 少しの間言葉を失っていたカミーユは、次の瞬間、ジェニーを抱き寄せていた。


「ジェニー」


 切なげな声が、カミーユの気持ちを物語っていた。カミーユも両親を戦争で亡くしたと言った。同じなのだ。痛みは。

 温かい腕の中で、ジェニーはぎゅっと目を閉じた。


「……だから戦争は嫌なのよ。こんな寂しさを感じる人は、いないほうがいいに決まってる」

「うん」


 それからカミーユは少し身を離すと、片手をジェニーの頬に添える。

 思わず目を開けてカミーユを見上げたジェニーの唇に、親指の先でそっと触れながら、声を潜めて彼は聞いた。


「ジェニー、キスしてもいい? 普通のキス」

「普通……?」

「今までみたいな、何かの受け渡しのためじゃなくて」


 つまり魔力や、血のためではなく。その代わりに互いに受け渡すべきものは、きっと愛情だ。

 戸惑って、多分顔を赤くして何も言えないでいるジェニーに、カミーユは顔を近づけてくる。

 囁くようなしっとりとした声が、ジェニーの鼻先にふれた。


「キスしたい」


 壁とカミーユの間に挟まれて、ジェニーは逃げることも拒むこともできなかった。唇と唇が優しく重なる。

 今までしたような深い口付けではなくて、そっと触れるだけの優しいキス。

 それが何度も繰り返され、唇だけでなく頬や瞼の上にもキスが落ちてくる。

 その度に、心が震えるようになって、ジェニーは堪らなくなった。

 耳元にもそっとキスをして、カミーユは甘い声で囁いた。


「ジェニー。君が好きなんだ」

「カミーユ……」


 いつの間にか、こんなにも追い込まれてしまった。任務は始まったばかりで、浮ついた気持ちでいていいはずがないのに。


「……明日からパラディーよ。集中しなきゃいけないのに」

「分かってる。全部終わったら、君の気持ちを聞かせて」


 困り顔をしながらも、素直にこくりとうなずくと、カミーユはもう一度優しいキスをした。

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