血の味のキス
次の日、昼過ぎになってジェニーは部隊本部長室へ呼び出されていた。
入室してからジェニーは、両手を後ろで組んで背筋を伸ばした。
「先程、研究開発部から調査のために隊員派遣要請が上がってきた」
入室したジェニーの姿に顔も上げずにそう言ったのは、クロフォード部隊本部長だ。まだ四十代になったばかりの彼は、この特別治安部隊のトップであり、ゆくゆくは軍の更に上の階級まで登りつめるだろうと噂されている。
一昨日、ヒューイットはすぐに依頼を上げてくれたのだろうが、それでも本部長の目に入るまではこれだけの時間が掛かった。本部長の前に数人の上官が目を通し、必要があると判断されたものだけが本部長のところへ上げられる。現場の人間としては腹立たしい思いをすることもあるが、どうしようもなかった。
もしもジェニーが直接上げたものであったなら、もう数日は掛かったかもしれない。だからジェニーはヒューイットに頼んだのだ。
ジェニーが黙って先の言葉を待てば、書類から視線を上げたクロフォードの鋭い眼光がジェニーを捉えた。
「お前の隊を派遣して欲しいとのことだが、理由は何だ。ブラックウッド」
発言を許されて、ジェニーは口を開く。
「情報が私の情報提供者からによるものだからです」
「その情報提供者は」
「パラディーから逃亡し、現在共和国内で身を隠しています」
「何故本部で保護しない」
「当人は、身の危険を感じて人前に出ることを拒否しています。無理をさせれば今後の信頼関係に影響がでます。私の情報提供者です。私が守ります」
するとクロフォードは、僅かに目を細めた。
「信憑性は」
「確かです。お手元の研究開発部長の報告書にある通りです」
「……ヒューイットは、オレニアの持ち帰りを希望している。できなければ破壊しろ」
「分かりました」
魔具の破壊は、もしかするとカミーユの命へ影響するかもしれない。何としても無事に持ち帰らねばならないとジェニーは内心で決意する。
クロフォードは持っていた書類を机の上に置いて別の書類を手に取ると、それに視線を移した。
「行け。期限は一週間だ」
「はい。失礼します」
無事に事が運んだことの礼を言うためにヒューイットのところへ顔を出せば、エミリアの同行も許可されたことを知らされた。魔具の取り扱いに注意が必要ということで、ヒューイットが口添えをしてくれていたらしい。
ナタンとエミリアと翌日からの出発の打ち合わせを終えて、ジェニーは帰宅した。
メイベルには明日からしばらく仕事で家を開けると言ってから、彼女が帰った後にカミーユと話をするために、ソファに座って向き合った。
「明日からエミリアと私の隊で、パラディーに向かうわ。隊といっても私と、私の部下のナタンの二人だけど」
「獣人の?」
「そう」
するとカミーユは少しの間沈黙してから、前のめりになるようにジェニーに顔を近づけた。
「あのさ」
「……何? 近いんだけど」
「ジェニー、つがいになってよ」
「…………」
明日からの出発を控えているこの状況で、何をまた。
そうジェニーは思ったのだが、出会ったその日に言われた時よりも、カミーユはもっと熱のこもった真剣な目をしていた。無下に断らず、きちんと答える必要があることは、すぐに分かった。
ジェニーはカミーユの目を見つめ返して尋ねた。
「つがいって、私たちの感覚でいう恋人になることと、近い?」
「うん」
「でも、気軽に付き合うほど軽いものではないはずでしょう?」
ためらうようなジェニーの言葉に、カミーユは少し笑う。
「俺にとってはね。でも、ジェニーは人だから。同じだけ返して欲しいとは思ってないよ。ジェニーが望まない時には、ちゃんと身を引く覚悟はある。だから気軽に付き合うくらいの感覚でもいいんだけどな」
「……私は気軽に考えたいから言ってるんじゃないわ」
誤解して欲しくなくてそう言えば、カミーユは少し驚いたような顔をする。
「無責任なことはしたくない。愛情を貰うのなら、私だって同じだけ返したい。でも、今は任務のことで頭がいっぱいなの」
正直に心情を吐露すれば、カミーユはしばらく無言でジェニーを見つめ、それからそっとジェニーの両手を取った。
「真剣に考えてくれるのは、嬉しい」
「……この件が片付くまで、待ってくれる?」
「待つよ」
ジェニーは安堵して、頬を緩めた。するといつになく真面目な顔をしていたカミーユも、柔らかく微笑む。
それから彼は、やや困ったような顔をしてジェニーに言った。
「ところでさ、今つがいになれないんなら、パラディーに行くに当たって問題がひとつ」
「……何?」
「パラディーで人の姿が稀であることは昨日話しただろ? ジェニーは、目立ちすぎる」
「魔力のこと?」
カミーユの言葉に、ジェニーは眉を潜めた。しかしカミーユは首を横に振る。
「魔力もあるけど、それよりも人狼は鼻が利くんだ。だからジェニーはエミリアと比べても、特に目立つ」
「……どういうこと?」
「エミリアは、獣人のつがいだろ?」
ジェニーは目を小さく見開く。
「分かるの?」
「うん、匂いで。でもジェニーの気持ちは分かったから。無理やりは俺も嫌だ」
それで何となく察した。要するに、つがいとして深い関係にあるかどうかだ。
だからカミーユは、このタイミングでつがいになってくれと言ったのか。ジェニーが受け入れれば、何も問題もなくパラディーに向かうことができる。
「……どうして先にそれを言わなかったの?」
「言ったら、ジェニーは任務のために受け入れそうだから」
カミーユは優しく笑った。
ジェニーが何も言えないでいると、カミーユは、人よりは立派な犬歯で自分の唇を噛んだ。見る間にそこから赤い液体がつっと零れ落ちる。カミーユは再びジェニーに顔を近づけた。
「ジェニー、飲んで。血が混じれば、少しはごかませる」
カミーユの唇から流れていく鮮やかな色に、思わず無言で目を奪われていたジェニーは驚く。
「どうやって?」
「説明、いる?」
「…………」
少しためらった後、ジェニーはカミーユに近づいた。
カミーユの唇に、ゆっくりと唇が触れる。滴り落ちていた血液をこぼさないように、舌を押し当てて舐めとる。錆びた鉄の味の液体は温かく、言いようのない甘美な気持ちが胸に込み上げる。
と、カミーユの手がジェニーの後頭部に回り、ジェニーをぐっと引き寄せた。
「んん……」
深く口づけをされて、ジェニーは慌ててカミーユの胸を押して身を離した。
咎めるような視線を向ければ、カミーユが思い詰めたような表情でジェニーを見ていた。
「……やっぱり、つがいになるしかないって言えば良かった」
切なげなまなざしに、ジェニーの心もぐらりと揺れかける。
ジェニーはカミーユの側から離れようとした。きっと自分も赤い顔をしている。恥ずかしくて見せられない。
「もう、いいんでしょ?」
「……まだ」
「その顔は、嘘ね」
困ったように少し睨んでから、ジェニーはカミーユの血がまだ傷口から溢れているのに気が付く。さすが狼の牙だ。
「止血しなくちゃ。押さえるもの、持ってくる」
ソファから立ちあがろうとしたジェニーの腕を、カミーユが掴む。
「ジェニーが押さえてくれたらいい」
「何言って――」
強引に引き寄せられて、唇が唇で塞がれる。
ぴったりくっついても、血の味は変わらず。こう熱を持っては、血も止まるはずがないと思うのだが、ジェニーは何故か抵抗できなかった。
あと、もう少しだけなら。
そう思ってジェニーはゆっくりと目を閉じた。




