第二百九話 上げ潮と下げ潮
「あちゃー。ちょっとやりすぎたか?」
俺は上空で思わず声を漏らす。魔力の込め具合を間違ったかもしれない。
俺は今、アガルタとラマロンの国境に来ていた。そして、イリモに乗ったまま上空を旋回している。眼下に見えるイルベジ川は水位が大幅に上がり、濁流となっている。
クノゲンがガルビーに転移したのを見送った俺は、イリモに乗ってこの国境付近に来ていた。一面の銀世界に包まれた幻想的な光景が広がっている。山間部のためか、雪が降り続いており、積雪量もかなりのものだ。そんな光景を楽しみながら、さらにイルベジ川の上流を目指していく。イリモの翼で飛ぶと、すぐに標高の高い雪山が見えてきた。
「あれ・・・は?」
しばらくイリモに上空を旋回してもらい、場所を選んで地上に降りてもらう。
「おお、すげぇな・・・」
何とそこには、巨大な氷瀑が出現していた。縦も横も数十メートルに及ぶだろうか。巨大な氷の壁がそこにあった。その迫力と幻想的な光景に俺はしばし見とれる。
「滝が凍るというのは聞いたことがあるが・・・。まさかこれほど見事なものだとは思わなかったな」
「キレイです・・・」
イリモもその光景をうっとりと眺めている。俺はイリモの体を撫でてやる。
「ちょっと勿体ないけど、やるか。ま、この寒さだ。また滝は凍るだろう」
凍るには凍るだろうが、おそらく二度と、この形に凍ることはないことは容易に想像できたため、俺はしばしこの光景を目に焼き付ける。
「よし、じゃあイリモ、頼む」
再びイリモに跨った俺は、上空に舞い上がり、滝の頂上に至る。そこには雪山に囲まれた小さな湖があった。
俺は小さな灼熱弾を目の前の雪山に向けて放つ。同時に、湖と氷瀑に向かってファイヤーボールを投げる。一瞬のうちに氷の壁が崩れ落ち、その直後、目の前の雪山から大量の雪が湖に向かって滑り落ちるようにして流れていく。しかも、雪深く突き刺さっているにもかかわらず灼熱弾の炎は衰えず、雪が炎を纏いながら滑り落ちていく光景は、言葉で言い表せない程の幻想的な光景を生み出していた。
その炎を纏った雪が湖に滑り落ちた瞬間、雪が一瞬にして溶けて、大量の水が滝から落ちていった。まるで、水がいっぱいに入った巨大なバケツをひっくり返したかのような風景だった。しかも、灼熱弾で溶かした雪は、周囲の山の雪の一部も溶かしており、一気に湖の水位が上がっている。
「おおう!見事な光景だが・・・。やりすぎたな?こりゃ、しばらくはイルベジ川は増水することになるな」
上空からは大量の水が川下に向かって流れていくのが見える。俺はイリモに雪山の頂上に降りてもらい、その直後、アガルタとラマロンの国境に転移する。
そこは、先ほどとは打って変わって静寂が支配していた。しんしんと降る雪の音だけが聞こえている。しばらくこの雰囲気に包まれていたい気持ちになったが、それを振り切るようにして再びイリモに乗って上空に至る。すると、川上の方からすさまじい濁流がやってきているのが遠目に見える。
「……予想以上だな。まあ、あのあたりに人家はないから人的被害は心配なさそうだが……。ただ、森の精霊たちには怒られるかもしれんな。あとでソレイユに言って状況を確かめないとな」
そんなことを呟きながら俺は、濁流が国境まで迫ってくるのをじっと眺めていた。そして、とんでもない水量が俺とイリモの足元を通り過ぎる。
「おおー。すごい水量だな。まあ・・・。このくらいの水位なら、大丈夫だろう」
そう言って俺は、帝都の屋敷に帰った。
アガルタとラマロン皇国の国境に通じる森の出口に、二棟のロッジが立てられている。そして、その周囲にはおびただしい数のテントが張られている。言うまでもなく、クリミアーナ教国の首都、アフロディーテから移住してきたクリミアーナ教国の者たちのキャンプである。そのロッジの一室では、和やかなティータイムが催されていた。
「・・・すべて合わせると、およそ三万ですか」
優雅な振る舞いで紅茶を口に運んでいるのはヴィエイユである。彼女を含む六人の司教たちとカッセルは、思い思いに菓子を口に運んでおり、リラックスした空気がそこにあった。その雰囲気を壊すことなく、司教の一人であるコフレシが笑顔で口を開く。
「ええ。ガルビーからはおそらく一万を超える信徒がイルベジ川を上ってきます。さらに、ヒーデータ経由でも一万近い信徒がイルベジ川を経由して、このアガルタにやって来ましょう。そして、ニザ経由でも、数千の信徒がやってくるとのことです」
「なるほど・・・。やはり、アガルタの周囲の国から信徒を移動させるとなると、このくらいが限界ですか」
「アガルタ自体が、山に囲まれた場所にありますから・・・。なかなか周辺国とはいえ、簡単に移動できるものではありません」
「そう考えると、アガルタがガルビーを支配下に置いていたのは、我々にとって幸いでした。あそこの港がなければ、我々を含め、信徒の移動はさらに困難なものとなったでしょう」
コフレシの後に言葉を続けているのは、女司教である。その言葉を聞いて、ヴィエイユは鷹揚に頷く。
「そうですね。これも偏に、クリミアーナ様のご加護のお陰でしょう。我々をアガルタに差し向けるべく、クリミアーナ様が導かれたのでしょう。もちろん、道を作って移動しやすくするという案を考えたカッセルの働きも大きいですね」
その言葉を聞いてカッセルの口角が少し上がっている。それを愛おしそうな眼差しで見ていたヴィエイユは、さらに言葉を続ける。
「三万もの信徒が集まってくるわけですから、それなりの場所が必要になりますね。さて、我々の楽園を作るのは、どこがいいでしょうか?やはり、アガルタの都近くがいいでしょうか・・・」
「姉さま。そしてみなさん。僕から提案があります」
自信満々の顔をして立ち上がったのはカッセルだ。
「今、我々が逗留しているこの地に楽園を作ればいいかと思います。ここには森もあり、水もあります。そして何より、イルベジ川を上ってくる者たちと合流するのに好都合です。さらに、ここは船に乗ればガルビーまで半日で行くことができます。また、アガルタの物資も、この川沿いを経てイルベジ川に至ります。ここを押さえると、アガルタの物資も、場合によっては押さえることができます。どうでしょうか?」
司教たちは顔を見合わせているが、反対する者はいない。その様子を見てヴィエイユは口を開く。
「カッセルの案はとても説得力があると思います。皆さんいかがでしょうか?」
司教全員が頷く。それを見てヴィエイユは満面の笑みを浮かべて宣言する。
「ではここに、クリミアーナ教国の総力を結集して、この地に楽園を築きましょう。カッセル、素晴らしい考えを、ありがとうございます」
ヴィエイユの視線を受けてカッセルは、嬉しそうに頷いた。
「ヴィエイユ様。本格的な建設は、ガルビーに停泊している船から資材が運び込まれてからになりましょう。それまでは、続々とやってくるであろう信徒を迎える準備をしたいと思いますが、いかがでしょうか?」
「素晴らしいですね、コフレシさん。ぜひ、そうしてください」
「畏まりました」
コフレシは恭しく一礼し、ロッジを後にした。
「・・・アガルタ王には早く洗礼を受けていただきたいのですが、クリミアーナ様を騙る邪神に心を操られているようです。しかし、我らが作る楽園を見れば、聡明なアガルタ王のこと、きっと目を覚ましていただけるでしょう。クリミアーナ様が天罰をお下しになるなど・・・。あり得るはずがありません」
ヴィエイユは笑顔で口を開く。そして、その笑顔のまま、一人の司教に視線を移す。
「ニエデスさんは、ご苦労ですが、ニザからやって来る信徒たちを迎えに行ってあげてください。あと、残った皆さんはアガルタの都に、クリミアーナ様のありがたい教えを広めに参りましょう」
ヴィエイユの言葉に、全員が笑顔で頷いた。彼女たちは知らない。リノスが仕掛けた鉄砲水が、想像を絶する地獄を生み出すことを。そして、その光景はクリミアーナの人々、とりわけヴィエイユには大きなトラウマとなり、長年苦しみ続けることになることを。
アガルタの大地は、太陽に照らされた、一面の銀世界が美しく大地を彩っていた。




