第5話 平和主義者の必殺・愛の抱擁(ベアハグ)
毎日12時頃更新予定
その日の朝も、俺、堀尾小太郎――ここでは茂助と呼ばれ、実家では吉晴と呼ばれる、名前の多重債務者――は、憂鬱な目覚めを迎えた。
ボロ小屋の硬い床。染み付いた汗とカビの臭い。
だが、今朝はそれに加えて、外から聞こえるドスの利いた怒号が、俺の胃をキリキリと締め上げていた。
「おい! 出てこい、木下組の『鬼』!」
「柴田隊の次鋒、岩井の源太様が勝負しに来てやったぞ!」
「ビビってねえで顔を見せろ!」
まただ。
一昨日の「柴田隊の男を弾き飛ばした事件」以来、俺の平穏なパシリ生活は崩壊していた。
噂が尾ひれをつけて拡散し、今や俺は『身長八尺の大入道』で『素手で猪を引き裂く』ことになっており、『天竺の秘術を使う』というオプションまで付いているらしい。
てか、八尺って何センチだよ。八尺様かよ。
結果、腕に覚えのある暇な足軽たちが、毎朝こうして道場破りのように押しかけてくるようになったのだ。
「……帰りてえ」
俺は筵を頭まで被って現実逃避を試みた。
俺は喧嘩なんてしたことがない。現代では、不良に絡まれたら即座に財布を出して「これで勘弁してください」と言うタイプだった。
だが、現実は非情だ。
「おい、茂助!」
筵が剥ぎ取られ、猿顔の悪魔――木下藤吉郎がニヤニヤしながら俺を見下ろしていた。
「また客人が来てるぞ。人気者は辛いなァ」
「藤吉郎様……勘弁してくださいよ。俺、ただの平和主義者なんです。断ってきてもらえませんか?」
「断る? 馬鹿野郎、せっかくのカモを逃がす手があるか」
藤吉郎の目が、銭の形に光った気がした。
「いいか、戦がない時の足軽なんてのは、暇とエネルギーを持て余した獣だ。喧嘩と博打しか楽しみがねえ。……そこでだ」
藤吉郎は懐から、粗末な木札を取り出した。そこには『木下興行』と汚い字で書かれている。
「てめえを使って、一稼ぎすることにした」
「……はい?」
***
数時間後。
清洲城下の河川敷は、異様な熱気に包まれていた。
即席で作られた土俵。その周りには、織田家の各隊から集まった足軽たちが、数百人もひしめき合っている。
酒の臭い。汗の臭い。そして、賭け事特有の鉄火場の空気。
「さあさあ、張った張った!」
「東、柴田隊の猛牛、岩井の源太!」
「西、木下組の鬼、堀尾の茂助!」
藤吉郎が即席の行司となり、声を張り上げている。
その足元には、賭け金代わりの米や、永楽銭の山が築かれていた。
どうやら俺は、見世物小屋の熊のように、賭けの対象にされたらしい。
「ううっ……吐きそうだ」
土俵の脇で、俺は青ざめていた。
対戦相手の源太という男を見る。
でかい。
身長は一六〇センチほどだが、横幅がすごい。筋肉の塊だ。顔には古傷があり、耳が潰れている。どう見てもカタギじゃない。本職の荒くれ者だ。
対する俺は、身長一七六センチ、体重八〇キロ。
現代のジムで鍛えた(言ったことはない)筋肉はあるが、その中身はウー〇ーとエアコンで培養された「白い筋肉」だ。実戦経験もゼロ。殺気もゼロ。
「茂助様、頑張ってください!」
少年の弥七が、俺の背中をさすってくれる。
「俺、なけなしの給金を全部、茂助様に賭けました!」
「やめろ弥七! ドブに捨てるようなもんだぞ!」
「大丈夫です! あんなチビ、茂助様の『不動の構え』でイチコロですよ!」
期待が重い。物理的に胃が潰れそうだ。
俺はチラリと藤吉郎を見た。「負けたら殺す」という目で俺を見ていた。逃げ場はない。
「両者、見合って!」
藤吉郎が軍配を上げた。
源太が土俵の中央に進み出る。ドスドスと地面が揺れる。
俺もフラフラと前に出る。
「へへっ、噂の『鬼』がどんなもんか知らねえが……俺の張り手で顔面を粉砕してやるよ!」
源太が、歯の欠けた口で笑った。
怖い。
顔面粉砕? 嫌だ。痛いのは嫌だ。整形外科なんてこの時代にないんだぞ。
「はっけよい……のこった!」
号令と共に、源太が突っ込んできた。
速い!
低い姿勢からの頭突きのような突進だ。
「ひぃっ!」
俺の思考は停止した。
逃げたい。でも後ろは土俵際。逃げたら負けで、藤吉郎に殴られる。
殴られたくない。痛いのは嫌だ。
――顔を守らなきゃ!
俺の生存本能が選んだのは、「攻撃」でも「防御」でもなく、「抱擁」だった。
俺は反射的に両手を広げ、突っ込んでくる源太を、真正面から抱きしめた。
そう、ハグだ。
相手の体に密着してしまえば、腕を振り回して殴られることはない。ボクシングで言うクリンチ。いや、もっと必死な、恋人同士のような密着だ。
ドスン!
源太の頭が俺の腹にめり込む。
うぐっ、と息が止まりそうになったが、俺の脂肪がクッションになった。
俺は必死に腕を回し、源太の背中で手を組んだ。
「あ、あれ……?」
源太が動きを止めた。
俺の腕の中にすっぽりと収まってしまったのだ。
俺の身長一七六センチに対し、源太は一六〇センチ。
さらに、俺の体重八〇キロに対し、当時の栄養状態の悪い彼らは、どんなに筋肉質でも六〇キロそこそこだ。
二〇キロの体重差。これは格闘技において絶望的な階級差だ。
「は、離せ! てめえ!」
源太が暴れる。俺の脇腹を殴ろうとする。
痛い! やめて!
俺は恐怖のあまり、さらに強く抱きしめた。
全力で。
火事場の馬鹿力で。
「離したら殺される」という恐怖が、俺の上腕二頭筋と広背筋を極限まで収縮させた。
ギリギリギリ……。
俺の腕の中で、何かがきしむ音がした。
「ぐ、ぐぼぁ……ッ!?」
源太の罵倒が、奇妙なうめき声に変わった。
俺は気づいていなかった。
現代人の栄養満点の骨格と筋肉によるフルパワーの抱擁が、当時の小柄な人間の胸郭を、万力のように締め上げていることに。
いわゆる「鯖折り」の体勢だ。
「落ちろ! 落ちろ!」
俺は心の中で叫んでいた。(意識を失ってくれれば助かる、という意味で)
「折れる! 折れる!」
源太は心の中で叫んでいただろう。(背骨と肋骨が、物理的に)
観客席が静まり返った。
彼らの目にはどう映っていたか。
鬼の茂助が、突っ込んできた猛牛・源太を真正面から受け止め、微動だにせず捕獲。
そして、無表情(恐怖で顔が強張っているだけ)で、ゆっくりと、冷酷に、相手の背骨をへし折ろうとしている姿に。
「え、えげつねえ……」
「打撃じゃない。握り潰す気か……」
「おい見ろ、源太の顔が紫色になってるぞ!」
プシュ~……。
源太の口から、魂が抜けるような音がした。
酸欠と激痛で、彼は白目を剥いて脱力した。
ズズン。
俺の腕の中で、源太がぐったりと崩れ落ちた。
俺は慌てて手を離した。
「わ、わあ! 死んでないよな!? ごめん、やりすぎた!?」
俺はパニックになって源太の頬をペチペチ叩いた。
だが、その姿すら、周囲には「倒した獲物の生死を確認する冷徹な所作」に見えたらしい。
「しょ、勝負ありィ!!」
藤吉郎が裏返った声で叫んだ。
「勝者、木下組、鬼の茂助ェェェ!!」
ドッと河川敷が揺れた。
歓声。いや、悲鳴混じりの称賛だ。
「すげえもん見ちまった……」
「張り手一発も出させずに、抱き潰したぞ」
「あれが『愛の抱擁』か……」
誰かが勝手に技名をつけた。やめてくれ。恥ずかしい。
藤吉郎が駆け寄ってきて、俺の背中をバンバン叩いた。
「やりやがったな茂助! 見ろ、この銭の山を! 大儲けだ!」
「……藤吉郎様、俺、もう帰っていいですか? 足が震えて……」
「ああ? 武者震いか? よしよし、次は三番勝負だ! 賭け金倍付けで募集しろォ!」
「えっ」
俺は絶望の表情で藤吉郎を見た。
こいつ、まだやらせる気か。
その日、俺はさらに二人の挑戦者(前田隊の槍使いと、丹羽隊の柔術家)を、それぞれ「逃げようとしてぶつかったら相手が吹っ飛んだ」「足を滑らせて倒れ込んだら相手の上に落下して圧殺(未遂)した」という、物理法則を味方につけたラッキーパンチのみで撃退した。
***
夕暮れ時。
俺はボロ雑巾のようになって長屋に戻った。
体中が痛い。特に精神が痛い。
だが、俺を迎える木下組の二十人の目は、昨日までとは明らかに違っていた。
畏敬。崇拝。そして絶対的な信頼。
「茂助様、お湯を沸かしておきました!」
「肩をお揉みします!」
「俺たちの組に、こんな最強の男がいたなんて!」
彼らは知らない。
俺がただ、ビビって抱きついたり、転んだりしていただけだということを。
現代人の「体格」という遺産を食いつぶしているだけだということを。
「……もう、どうにでもなれ」
俺は出された白湯を啜った。
藤吉郎から「特別報酬」として渡された、握り飯一つ分の米粒が、今日の俺の命の値段だ。
噂は止まらない。
『鬼の茂助』の名は、清洲城下だけでなく、那古野や小牧の方まで広がりつつあるという。
――信長様。
あなたの部下に、とんでもない詐欺師が生まれつつあります。
お願いですから、早く天下統一して、世の中を平和にしてください。
じゃないと、俺の心臓が持ちません。
俺の切実な祈りは、天井のシミに吸い込まれて消えた。
そして翌日。
俺の元に、ついに「信長からの呼び出し」という、最大級の爆弾が投下されることになる。
相撲の噂は、魔王の耳にも届いてしまったのだ。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




