第3話:「初めまして」な里帰り
地獄の基礎訓練が始まって何日が過ぎただろうか。
清洲の練兵場で、猿顔の上司・木下藤吉郎が喚き散らしていた。
「あーっ! もう、金がねえ! 槍もねえ!」
藤吉郎は腐りかけた槍を地面に叩きつけた。
この猿は偉そうに威張り散らしていたが、この十日で薄々気づいたが、藤吉郎は織田家の新参者であるらしい。
「おい、茂助!」
「は、はいっ! 茂助です!」
俺は反射的に直立不動になった。
この十日間、名前を間違えるたびに竹棒で殴られ続けた結果、俺の体は「茂助」という音に自動反応するように調教されていた。悲しい現代人の適応力だ。
「てめえ、実家に帰ってこい」
「へ? 実家……岩倉に、ですか?」
「そうだ。てめえの親父、堀尾泰晴は岩倉の国衆だろ。今は負けてお館様の軍門に下ったが、腐っても元守護代の重臣だ。『装備一式と兵糧を献上して、お館様に忠誠を示せ』と言ってこい。要はカツアゲだ」
とんでもない命令だ。
敗戦して身ぐるみ剥がされた実家に、「もっと出せ」と追い打ちをかけろと言うのだ。
だが、俺の脳裏には卑しい下心がよぎった。
実家。
そこに行けば、少なくともこの泥だらけの足軽長屋よりはマシな寝床があるはずだ。
「い、行ってきます! 必ずや調達してまいります!」
***
岩倉街道を歩くこと数時間。
俺は見覚えのある土地にたどり着けるかとわくわくしていたが、なんにも見覚えのある風景はない。
現代でいう俺の実家の近所あたりのはずなんだが、風景は荒涼としていた。
その一角に、堀尾家の屋敷――というか、壁で囲まれた平屋があった。
俺はふと、足を止めた。
「……ん? 待てよ」
実家が近くて、名字も同じ??
「もしかして、この堀尾泰晴ってのは、俺の直系のご先祖様なのか? 俺はタイムスリップして、自分のルーツを守ろうとしているのか……?」
俺の胸に、運命的な熱いものがこみ上げた。もしそうなら、これは壮大なタイム・パラドックス活劇だ。俺が頑張らなければ、俺自身が消滅してしまうかもしれない!
(※注:史実の堀尾家は後に遠江浜松、出雲松江へと移封され、その直系は断絶したり養子が入ったりと複雑な変遷を辿るため、現代の岩倉に住むただの一般市民・堀尾小太郎とは遺伝子レベルで一切関係ありません。ただの偶然です)
「……よし、行くか。俺のルーツを守るために!」
俺は勝手に運命を感じて(勘違いで)気合を入れ直し、恐る恐る敷地に入った。
門番はいなかった。
扉は半開きで、そこには真新しい刀傷や、火矢で焦げた跡が生々しく残っている。
「……あのー、すいません」
庭先で薪を割っていた初老の男が、俺に気づいて顔を上げた。古参の家臣だろう。
「何奴だ。物乞いなら他を当たれ」
男の鋭い視線。
俺は唾を飲み込み、藤吉郎に叩き込まれた通りに名乗った。
「い、いえ。その……堀尾の、茂助、です。……跡取りの。……帰ってきました」
俺がそう名乗った瞬間。
男の手から薪が落ちた。そして、次の瞬間には近くにあった鎌を構え、俺を睨みつけた。
「き、貴様! 何の冗談だ!」
「えっ」
「茂助様の名を騙るとは、ふてえ野郎だ! 茂助様はな、もっと小柄で、スッっとした方だ! 貴様のような熊ごとき大男ではない!」
ごもっともだ。
俺は一七六センチの小太り。死んだ本物の茂助とは似ても似つかない。
騒ぎを聞きつけて、奥から数人の男や女たちが出てきた。
「誰だ!」「不審者だ!」
「この大男、あろうことか茂助様だと名乗りおった!」
「なんと! 戦場で行方知れずの若様の名前を騙るとは、許せぬ!」
全員が殺気立つ。
名前は合っている。だからこそ、彼らの怒りは深かった。「行方不明の主君の名前を利用する詐欺師」だと思われたのだ。
やばい。殺される。
俺が後ずさりした時、奥の板戸が乱暴に開いた。
「騒々しい! 何事か!」
現れたのは、堀尾泰晴。
俺の戸籍上の父であり、この家の主だ。その顔には深い疲労の色が刻まれている。
「殿! この大男が、茂助様の名を騙っております! 成敗してよろしいですか!」
家臣が鎌を振り上げる。
泰晴の視線が俺に突き刺さる。
俺は直立不動で冷や汗を流した。ここで泰晴が「知らん」と言えば、俺はただの不審者として処理される。
泰晴は数秒、俺をじっと見つめた。その目は、俺という「異物」をどう利用すべきか、冷徹に計算していた。
そして、重々しく口を開いた。
「……鎌を引け。その男は、間違いなく吉晴だ」
「は?」
俺の声と、家臣たちの声がハモった。
吉晴?
誰だそれは。新しいキャラか?
「吉晴様……? そ、それでは、まさか本当にこの大男が茂助様だと!?」
家臣たちは「吉晴」という名前に聞き覚えがあるようだが、目の前の巨大な現実と一致せずに混乱している。
「そうだ。戦場をくぐり抜け、一皮むけて戻ってきたのだ。……そうであろう? 吉晴」
親父の目が笑っていない。
ここで「俺は小太郎です」とか言ったら殺す、という目だ。
俺は慌てて頷いた。
「あ、はい! そうです! 俺、茂助で吉晴です!」
家臣たちは狐につままれたような顔をしている。
「しかし、いくらなんでも背が伸びすぎでは……」
「顔つきも随分と変わって……」
ざわつく家臣たちを、泰晴が一喝した。
「ええい、くどい! 信長様が『これが堀尾吉晴である』と認めたのだ。主命に疑義を挟む気か!」
泰晴の低い声が、有無を言わせぬ圧力を放った。
「信長様」という単語が出た瞬間、家臣たちは押し黙った。信長が黒と言えば白も黒。それが敗者のルールだ。
彼らは納得いかない顔のまま、しかし逆らうこともできず、俺に頭を下げた。
「……お、お帰りなさいませ。若様」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
自認は小太郎。
職場では茂助。
実家では吉晴。
なんだこれ。
通称とか諱?とかいうらしいけど、知識のない俺にとっては、ただ単に「名前が三つに増えた」というカオスな状況でしかなかった。
俺は一体誰なんだ。
***
通された部屋は、薄暗く、寒かった。
出された食事は、冷えた玄米の握り飯と、具のない味噌汁。
泰晴が俺の前に座った。二人きりになると、その表情は一層険しくなった。
「……何の用だ、吉晴」
「あ、あの、親父さん……その呼び方、慣れないんですけど」
「黙れ。それがお前の諱だ。自覚を持て」
泰晴は冷たく言い放った。有無を言わさない。怖い。
「はあ……。実は、木下様より、装備と兵糧の供出を命じられました」
俺が要件を伝えると、泰晴が拳を握りしめ、床を叩いた。
「……骨までしゃぶる気か」
泰晴は苦渋の決断を下した。
家の存続のために、最後の備蓄を吐き出す。それは、この家の者たちがこの冬、飢えることを意味している。
「……吉晴」
「はい」
「持っていけ。あるだけ全て。……だがその前に、一つ確かめさせろ」
泰晴が立ち上がり、壁の木刀を手に取った。
「お前が、『吉晴』という名に相応しい男になったのかどうかだ。……庭へ出ろ」
***
俺は庭で、木刀を構える泰晴と対峙していた。
家臣たちが遠巻きに見ている。「あの大男、本当に茂助様なのか?」という声が聞こえてくる。
「来い!」
泰晴が踏み込む。
本気の殺気だ。
俺は悲鳴を噛み殺し、全力でバックステップした。
「ひっ!」
木刀が鼻先を掠める。
怖い!
俺は必死に逃げた。右へ転がり、左へ飛び退き、木刀を捨てて頭を抱えてしゃがみ込む。
「ぜぇ、ぜぇ……も、もう無理です父上! 降参!」
俺は泥だらけになって土下座した。
無様だ。家臣たちも呆れているだろう。
だが、頭上から降ってきたのは、泰晴の感心したような声だった。
「……ほう」
顔を上げると、泰晴は木刀を下ろし、家臣たちに向かって言った。
「見たか。あやつ、わしの打ち込みを全て紙一重で『見切って』かわしおった」
は?
「吉晴は、無駄な争いを好まぬようだ。まともに打ち合わず、徹底して間合いを外す。……攻め気には欠けるが、『慎重さ』という意味では、今の堀尾家に必要な資質かもしれん」
家臣たちがざわついた。
「あの大殿の剣をかわし続けるとは」「やはり戦場で化けたのか」「吉晴様、意外とやるかもしれん」
いや、違う。ただの逃げだ。
だが、泰晴はこの「誤解」を利用して、俺を堀尾家の正統な後継者「吉晴」として定着させようとしているのだ。
「持っていけ。槍十五本と、米二俵。……これが堀尾家の全てだ」
***
帰り際。
屋敷の裏口には、一頭の馬が用意されていた。
荷物を運ぶための、やせ細った茶色の駄馬だ。
だが、その目は死んでいなかった。俺を見る目が、明らかに俺をナメていた。
「よし、こいつに荷物を……」
俺が手綱を引こうとすると。
ブルルッ!
ガブッ!
「痛ってぇ!!」
馬がいきなり俺の肩に噛み付いてきた。
甘噛みではない。本気の「不服従」の意志だ。
家臣の一人が、すまなそうに言った。
「そいつは気性が荒く、誰も乗りこなせなかった暴れ馬でして……他の馬はみな戦に取られてしまい、残っているのはこいつだけで……」
マジかよ。
俺は槍十五本と米二俵を、この暴れ馬に無理やりくくりつけた。
馬は嫌がって暴れるが、荷物が重すぎて動けなくなったようだ。
「さあ、行くぞ! ハイッ!」
俺が手綱を引く。
馬は動かない。道端の草を食い始めた。
「頼むよ、動いてくれよ……!」
俺は手綱を必死に引っ張った。馬は梃子でも動かない。
むしろ、馬に引きずられて俺がコケた。
俺は、三つの名前と、言うことを聞かない馬と、重すぎる責任に押しつぶされそうになりながら、清洲への道を歩き出した。
いや、歩いていない。俺が馬にお願いしながら、一歩ずつズルズルと進んでいるだけだ。
「……勘弁してくれよ」
俺は誰の人生を生きているんだ。
少なくとも、俺自身の人生でないことだけは確かだ。
待ってろよ、猿。
この馬が奇跡的に動いてくれれば、夜明けまでには帰れるはずだ……たぶん。
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