第2話:テコの原理は、知らない名前
朝、目が覚めると、隣の男の足が俺の口元にあった。
強烈な納豆のような臭いが鼻腔を蹂躙し、俺は「ぐふっ」と奇妙な声を上げて跳ね起きた。
薄暗い小屋の中は、饐えた酸味と、男たちの汗、そして土埃の臭いで充満している。
「……なんで俺、まだここにいるんだよ」
俺は頭を抱えた。
昨日、俺は織田信長に「堀尾家の跡取り」として認められたはずだ。
ならば、ふかふかの布団で目覚め、召使いにお茶を淹れてもらうのが筋だろう。あるいは、実家である岩倉の屋敷に帰されるのが普通だ。
だが現実は、清洲城下の汚いボロ小屋で、雑魚寝させられている。
昨日の信長の言葉が脳裏に蘇る。
『猿! そのなまった身体、根性から叩き直してやれ。一人前の武士になるまで、屋敷に戻ることは許さん。兵と同じ釜の飯を食わせろ』
あれは比喩じゃなかったのか。
魔王の命令に比喩表現はない。文字通りの「強制収容」だ。
俺は体を小さく折り曲げ、硬い板の間で呻いた。現代では平均的な身長だが、ここでは頭一つ分突き抜けた「大男」だ。そのせいで、狭い長屋では居心地が悪いことこの上ない。
「起きろォ! いつまで寝てやがる、この穀潰したちが! 日が昇ってんぞ!」
入り口の引き戸が蹴破られ、朝日と共に、小柄な男が入ってきた。
木下藤吉郎。
俺の教育係を押し付けられた、名もなき雑魚上司だ。
「点呼をとる! 並べ!」
藤吉郎が竹の棒で床を叩く。
汚い小男たちが慌てて整列する。俺も遅れまいと、列の端に並んだ。
「がんまく!」「へい!」
「かめきち!」「はい!」
「よしぞう!」「おう!」
藤吉郎が名簿らしき木札を見ながら名前を呼んでいく。
俺はぼんやりと考えていた。
(小太郎、だよな。昨日はそう名乗ったし、親父……泰晴さんも『名前は小太郎』って言ってたし)
「……おい、もすけ!」
藤吉郎の声が止まった。
「堀尾茂助!」
シーン、と場が静まり返る。
誰も返事をしない。
俺は周りを見渡した。
(誰だよ茂助って。新しい奴か?)
「……おい、無視してんじゃねえぞ」
藤吉郎の声が低くなり、こめかみに青筋が浮かぶ。
視線が、真っ直ぐに俺に向けられている。
「てめえだ! このウドの大木!」
バチンッ!
乾いた音と共に、俺の頬に激痛が走った。藤吉郎の竹棒が炸裂したのだ。
「あだァっ!?」
「何回呼ばせやがる! 堀尾茂助! てめえの名前だろうが!」
「えっ……あ、俺!?」
俺は目を白黒させた。
茂助? 俺が?
俺の名前は小太郎だ。昨日そう言ったじゃないか。
「寝ぼけてんじゃねえ! 『小太郎』なんてのはガキの呼び名だ! 元服した武士なら、通称(仮名)の一つも持ってるのが当たり前だろうが!」
藤吉郎は呆れ果てた顔で唾を吐いた。
「貴様の親父殿から届いた名簿には『茂助』とある。今日からてめえは茂助だ。返事は!」
「は、はい! 茂助です!」
俺は慌てて頭を下げた。
そうか。本物の「堀尾小太郎」は、元服?して「堀尾茂助」になっていたのか。
俺が昨日「小太郎です」と言ったのは、泰晴さんにとっては「死んだ息子の子供の頃の名前」という懐かしさと共に、「まだ一人前扱いされていなかった未熟者」という意味にも取られたのかもしれない。
あるいは、泰晴さんが信長様に提出した書類上、死んだ息子は「茂助」として登録されていたのか。
どちらにせよ、俺のアイデンティティはまた一つ剥奪された。
中身は現代人の小太郎。外見は大男。そして名前は、死人の「茂助」。
俺は何なんだ。誰の人生を生きているんだ。
「ちっ、ボサッとしやがって。飯だ! 食ったら練兵場へ走れ!」
***
その日の訓練は、名前を奪われたショックなど吹き飛ぶほどの地獄だった。
「構えッ!」
河川敷の練兵場。
めちゃくちゃ長い槍を持たされ、俺はプルプルと震えていた。
なんだこれ、六メートルぐらいあるだろ
こんな槍でどうやって戦うっていうんだ
重い。物理的に無理だ。
六メートル先の鉄の塊を、水平に維持し続けるなんて、テコの原理を無視した拷問だ。
隣の小柄な男を見ると、涼しい顔で構えている。
なぜだ? 俺の方が腕は太いのに。
いや、違う。彼らは「農作業」で鍛えられた体幹があるのだ。鍬を振り下ろし、重い荷を背負って山道を歩く。使う筋肉の質が、ジムでマシントレーニングをしていただけ(したことはない)の俺とは根本的に違う。
――くそ、腕がちぎれる!
限界だった。このままでは槍を落とす。落としたらまた「茂助ェ!」と殴られる。
俺の脳がフル回転し、現代の知識検索を始めた。
物理だ。物理で解決しよう。
もっと効率的な持ち方があるはずだ。
俺は左手の位置を、少し手前にずらした。そして、右脇で槍の柄を挟み込み、体全体を「支点」とするように重心を後ろにかけた。
おお! 楽だ! 天才!
カウンターウェイトだ。柄の後ろの方に体重を乗せることで、先端の重さを相殺する。
これなら何分でも持っていられる。俺は心の中でガッツポーズをした。
「……おい」
低い声と共に、視界の端に竹の棒が見えた。
ドゴォッ!
「ぐえっ!?」
俺の横腹に、強烈な蹴りが入った。
俺は無様に泥の中に転がった。
「何やってんだ、茂助ェェェ!!」
藤吉郎が鬼の形相で見下ろしている。
「な、何するんですか! ちゃんと構えてたじゃないですか!」
「構えてたァ? なんだその腰の引けた、ふざけた格好は!」
「こ、これは物理的に合理的なフォームで……テコの原理を利用して、腕の疲労を最小限に……」
俺が得意げに説明しようとした言葉は、藤吉郎の二発目の蹴りで遮られた。
「屁理屈こねてんじゃねえ!」
藤吉郎は俺から槍を奪い取ると、俺がやっていた「楽な構え」を真似て見せた。そして、近くにいた足軽に命じた。
「おい、その槍を叩いてみろ」
足軽が、藤吉郎の構える槍の穂先を、横から軽く叩いた。
すると、重心が後ろにあるせいで、槍先は大きく半円を描いて振られた。その勢いで、柄の後端(石突)が、後ろにいた別の足軽の腹にドスッとめり込んだ。
「ぐえっ」
後ろの足軽が呻いてうずくまる。
「見ろ! これがてめえの構え方だ!」
藤吉郎が俺の胸倉を掴み上げた。一五〇センチに満たない男の腕から、信じられないほどの力が伝わってくる。
「てめえが楽をしている間に、槍先が遊んで敵に隙を与える! 衝撃を受け流せねえから陣形が崩れる! そして何より、後ろの味方の邪魔になるんだよ!」
正論だった。
ぐうの音も出ないほどの、実践的な正論だった。
俺の考えた「効率」は、あくまで「俺個人の疲労軽減」のためのもの。集団戦術における「全体の効率」とは対極にあるものだったらしい。
「分かったら、その図体に見合った働きをしろ! 若様だろうが容赦はしねえ! 腕が千切れようが槍を水平に保て! 返事は!」
「は、はい! 茂助やります!」
俺は反射的にその名を叫んでいた。
もう、小太郎だか茂助だかどうでもいい。とにかく殴られない方の名前を言うしかない。
***
その日の夜。
俺は小屋の隅で、雑巾のように丸くなっていた。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
ふと、隣で寝ていた少年兵――昼間、俺の実験台にされて腹を突かれた奴だ――が、身じろぎをして呻いた。
「……悪かったな」
俺は小声で謝り、懐から、昼の残りの「干したアンズ」を取り出した。
少年は驚いたように目を開け、それを受け取った。
「……ありがとう、ございます。茂助様」
その呼び名に、俺の心臓が少しだけ跳ねた。
まだ慣れない。呼ばれるたびに「誰だそれ」と思ってしまう。
「様なんてやめろよ。お前と同じ奴隷みたいなもんだ」
「でも、茂助様はすげえや」
少年はアンズをかじりながら言った。
「あんなでっけえ槍、一日中持ってて、藤吉郎様にどんだけ殴られても倒れねえんだもん。……おいら、名前負けしてないと思うな」
「名前負け?」
「うん。茂助って、『茂る』に『助ける』だろ? なんかこう、頼りになりそうな名前じゃんか」
少年は無邪気に笑った。
俺は苦笑いした。
頼りになる? 俺が?
ただ殴られて耐えていただけだ。槍を持っていたのも、怖くて離せなかっただけだ。
本物の茂助は、きっと立派な若武者だったのだろう。俺みたいな中身空っぽの現代人とは違う。
「……勘弁してくれよ」
俺は小さく呟き、硬い板の上に寝転がった。
小屋の隙間から、冷たい月が見える。
俺はこの先、ずっとこの「茂助」という名前の皮を被って生きていくしかないのか。
本物の茂助がどんな奴だったかも知らないまま、彼が果たすはずだった役割を演じさせられる。
――ああ、やだやだ。
明日は筋肉痛で動けない自信がある。
俺は深いため息をつき、泥のように眠りに落ちた。
明日もまた、「茂助ェ!」という怒号で起こされるのだとしても。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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