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こゆるぎさんはゆるがない  作者: 水月 灯花
第二章 推しと謎の関係性

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8/9

8.こゆるぎさんはおちつかない

 

 これは夢? 現実?


「――ですので、当日はよろしくお願いいたします」


 また、私は都合の良い夢をみているのだろうか。

 はたまた前世で何かものすごい徳を積んだのか?

 もしかしたら我が身を犠牲にして誰かの命を救ったとか――


「――さん。小動さん?」

「はっ、はい!」

「……大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫です」

「それでは、また後ほど詳細が決まりましたらお伝えしますので、なるべく混乱が少ないよう、職員同士協力していきましょう」

「はい」


 上司の言葉を聞き逃しかけるなんてありえない。

 しっかりしろ。

 こっそりぎゅうーと頬の内側をまた噛んで、平静を保った。

 絶対口内炎が出来て痛いけれど、そうでもしなければ、とてもじゃないが奇行に走る自信しかなかった。


『S:ync 8th記念イベント企画 AKI母校訪問』


 何度書類を見ても、あれ? 今推し活中だっけ? という気分にしかならない。


(平常心仕事しろー!!)


 生活に支障を来すのはデキるファンじゃない! という気持ちで乗り切ったが、その日は一日気がそぞろになりがちだった。

 まさか、自分の職場に推しが来るなんて、これ何て夢小説?

 姉に教わった推しとのあれこれを妄想する小説の中に入り込んだような、奇妙な気分だった。

 ――たいていは二次元の作品の話なので、AKIとのものは見かけたことはないけれど、妄想したことはある。

 なので、凪沙は、この期に及んでやっぱり夢かも……と、仕事をしながらつい現実逃避してしまったのだった。



 ◇ ◇ ◇



 凪沙の職場は私立常羽ノ宮(とこはのみや)学園。

 私立の学校――初等部から大学まである総合学園で、その事務局に籍を置いている。

 広い学園なので、各校舎それぞれの事務が存在し、事務局はそれらを統括する部署にあたる。


 元々は別の公立高校に通っていた凪沙だったが、推し活の際、推しの母校が気になって調べ、自由な校風や学内の雰囲気、設備が気に入って、大学から常羽ノ宮に入学してしまったのだった。

 そして、学内アルバイトから臨時嘱託員になり、そのまま正規職員に昇進したという経緯がある。

 学生時代、大学内でアルバイトが出来るなんて、通学時間を考えれば有難い限りだった。

 とてもお世話になったし愛着もある職場だったので、トントン拍子に就職できたのはかなり幸運だったと思っている。


 何より時折、推しを感じられるのが良い。

 数年前の、推しの名前が載った入学案内は大事に保管してある。

 芸能科に限らず色々な分野の学科がある為、パンフレットやホームページに載る卒業生の名前は定期的に変更されるので、チェック漏れがないように気をつけている凪沙だった。

 たいてい定時で上がれるし有給消化も順調。

 福利厚生もしっかりしていて、ホワイトな職場だと思う。

 対外的な窓口にもあたるので、秘書の技能をはじめ色々な資格も取得している凪沙は、推し活をしながら勉強することも忘れていなかった。


 学内のイベントや試験も落ち着き、学生たちが夏休みの長期休暇に入る前の時期に降って湧いた外部との仕事が、まさかの推しの母校訪問だった。

 おそらくもっと前に上層部で決定していたことが今降りてきたのだろうけれど、気まずい。

 ファンです、と上司に伝えたことはなかった。

 今更言えないし、言ってはまずい気がする。

 夏休み中の人が少ない頃に、高等部を中心に、AKIの学内での思い出の場所を巡り、職員にインタビューをするなどの撮影があるらしい。


 部活動生などと多少鉢合わせても構わないとのことで、当日の動線について計画を立てたり、来訪の際のあれこれをチェックしたりするのが凪沙の仕事となった。


 実質推し活では? 推し活して給料が発生してもいいのだろうか? という困惑が新たに生まれたが、とにかくその日はファンであることは徹底的に隠して動く他ない、と気を引き締めざるをえなかった。



 ◇ ◇ ◇



『今度職場にいらっしゃるんですか』

『母校訪問って伺ったんですけど』

『私いますけど気にしないでくださ』


「っあー、ダメダメ」


 何度も文字を入力しては消し、と繰り返して、結局一文字も送らずにベッドにダイブ。


「公私混同……だよね」


 あちらから来るメッセージに返すことはあっても、凪沙から切り出すことはこれまでなかった。

 ファンとして聞きたいことや知りたいことはたくさんあっても、お見合い相手――未だに信じ難い――としてのやり取りは、何をどう返せばいいかわからない。

 いや、友達になったらしい。

 ますますわからない。

 推しが友達って何?

 友達がアイドルになって推すならともかく、その逆とは?

 異性のお見合い相手にまず友達からと言われても、混乱するばかり。

 仕事のことを聞いてもいいのかわからない。

 ぐるぐる考え込んでいたら、通知が来た。


「わ!」


 飛び起きて携帯を見ると――


『今日もお疲れ様』


 噂をすればなんとやら、AKIからのメッセージ。

 適度に挨拶をくれる彼は本当にまめだと思う。

 おつかれさま、と珈琲を差し出す可愛い犬のスタンプにも見慣れてしまった。こちらも同種――購入した――で返す。


『凪沙さんって常羽ノ宮学園に勤めてたりする?』

「ぎっ……」


 変な声が出た。

 なぎささん。とこはのみや。

 推しからの下の名前呼びの破壊力がえぐい。

 頭から湯気が出ていないか心配な位に頬が熱い。

 先日の、友達からよろしく、の直後にしれっと、良かったら名前で呼ばせてとメッセージが来ていたのを忘れていた。

 色々いっぱいいっぱいで、あ、ハイ……みたいに返した自分に何とも言えない感情が浮かぶ。

 職場のことも、何てタイムリーな。

 消したつもりがメッセージを送っていたのか? と混乱して遡って確認してしまった。送ってなかった。


『ごめん。答えにくいなら大丈夫。今日仕事でもらった資料の中で、案内担当の人の名前が「小動さん」だったから、つい気になって』

「……う」


 気遣いのAKI推せる……。

 のたのたと返事を返した。


『はい。常羽ノ宮で働いています』

『やっぱりそうなんだ。俺の母校なんだけど偶然だね』


 偶然じゃないんですー! と罪悪感で胸が痛み、慌てて暴露する。


『いえあの、推し活で知って気に入ったので、大学から入学したんです』


 送ってから、これってストーカー? 気持ち悪い? と、はっと気づいて冷や汗が流れた。

 推しに黙っておくのが辛くて言ったが、不快な思いをさせたいわけではない。

 焦って文字を入力しようとするがうまくまとまらなくて絶望していたら、すぐに返事が来た。


『そっか、俺母校に貢献出来てたんだ。入学者増やしたなら相当だよな』


 やったね! と笑う犬のスタンプと共に届いたその言葉。


『受験頑張ってたもんな。大学生活楽しかった?』


 まるで、いつかのラジオの向こうのAKIが、優しく声を掛けてくれたみたいだった。


「――楽しかったです」


 ぎゅ、と携帯を握る。

 ああ本当に、神。

 この人を推していてよかった、そう思った。


 常ノ羽宮を受験すると決めたとき、私立大学の学費をどうするかが一番の問題だった。

 同じ偏差値なら国公立を受けた方が学費は浮く。

 それでも、どうしても心惹かれてしまったのだ。オープンキャンパスで足を踏み入れた途端に、ここに通いたいと魅了されてしまった。

 奨学金を借りるか悩んで調べる内に、成績上位者には入学金や学費を無償にしてくれる制度があることを知った。

 その為に猛勉強して、深夜ラジオでの推しからの応援もあって見事合格したのだ。


『ありがとうございます』


 万感の想いを込めて送った言葉は、彼にとっては何が? と不思議そうに返されることだったけれど、送らずにはいられなかった。

 あなたがただ、存在してくれることが生きる糧なのだと。


『大変申し訳ありません。AKIさんのファンであることを上司に伝えておりませんでしたが、仕事では公私混同せずに理性的に振る舞いますのでご安心ください』

『ご丁寧にどうも。そんなに気負わなくても大丈夫だよ。今度よろしく』


 明るく大丈夫! と前脚を前に出して肉球を見せている犬のスタンプに、ふっと頬が緩んだ。

 犬の肉球好きなんだよね、とメッセージでAKIが言っていたことを思い出す。

 犬の肉球も可愛いですね、と返したのはつい先日のこと。

 ファンとして盛り上がってしまうのは仕方ないが、公私は分けて仕事に徹しないと、と思ったのに。





「……じゃ、案内してもらえます?」


 にやっと悪戯っぽく笑う推し、顔が良い。

 心臓止まったかもしれない。


(何が起こってるの?)


 校舎の片隅、撮影の休憩時間。

 突然の出来事に、脳がストップした凪沙だった。








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