4.こゆるぎさんはうちぬかれる②
『お帰りの際はお忘れ物がないように』と、鉄板の放送が流れ、物販や撮影会、握手会の案内が続いた。
凪沙は今後の動きを頭の中でシミュレーションする。
(まず撮影会……チケットなくさないように……次に握手会……手を握ったら……やばい。考えるだけで震える……)
座席を立つと、周囲のファンも同じようにお行儀よく退席していく。皆よく訓練されている。
凪沙もトートバッグを抱え、出口に並んだ。
脳内はオタクスイッチ全開だ。
(アキ、さっきの髪の毛かきあげた仕草……物凄いセクシーだったなぁ。近くだと汗も……いやいや、落ち着け自分……!)
妄想を膨らませながら、撮影会の区画に到着すると、スタッフが番号を確認しながら列を誘導していた。
手元のチケットを何度も確認する。番号はA-042。
「……緊張してきた……」
心臓が暴れ、手のひらにはじんわり滲んだ汗。お腹も痛い。
職場では鋼の心臓の持ち主と言われるのに、推しのこととなると繊細になってしまう。
前の人が終わるたびに、一歩ずつ進む。
流れが早い、さすが国民的アイドル。
一瞬でも会えるなら、それだけでも喜ぶのがファン心。
推しと一緒に撮れるなんて、7年間の夢がようやく叶う瞬間で、未だに信じがたい。
撮影は公式カメラのみ、一発勝負だ。
目を閉じたり変顔になりませんように、と気合を入れる。
列の周辺では、ライブの感想や推しトークが飛び交っていた。
内心でうんうんと同意しながら、落ち着こうとする。
皆が今か今かと待っている最中。仕切りの向こうにS:yncが現れると、悲鳴があがった。
夢のように麗しい。後ろ姿でさえ同じ次元の存在とは思えず、息を呑んだ。うっとりため息を吐く人もいる。
皆同じ気持ちなのだ。
凪沙は深呼吸して落ち着こうと努めた。
(大丈夫……笑顔で……カメラ目線……心頭滅却……落ち着け……もちつけ……!)
もう何が何だか。
混乱しながら、段々と近づいてくるブース。
撮影用の背景パネルとライトが設置されているのが見えた。
――そして、ついに自分の番号が呼ばれる。
「A-042番の方、どうぞー!」
凪沙は大きく息を吸って、ブースに向かう。
スタッフがカメラをセットし、「番号確認しますね」と言われチケットを見せる。
指定されたマークに立つ。
緊張で手と足が同時に出ていたかもしれない。
グループのセンターであるAKIとSHO、REOの間にファンが立って、横並びで行う撮影だった。
触れられない程度に距離があるが、息遣いまで感じられるほど近い。
AKIが、にこっと微笑む。
光の反射で瞳がキラキラと輝いた
「……ひぇ……!」
(近い! 可愛い……!)
思わず小さく叫び、口元に手を当てる。心中大暴れしていた。かっこいいし可愛いし私の推し天下一品。
きゅうんと、ときめきで多分目がハートになった。
「カメラを向いてください」とスタッフに声をかけられ、視線を前に戻す。
視線を剥がすのにかなりの意志の力を費やしたが、傍目には普通に前を向いたように見えているのだろう。
――ああ、永遠に見ていたかった。
(それにしても……なんか申し訳ない……)
アイドルの間に割り込んでる感がすごくて、心霊写真のようにならないか、変に心配になった。
平凡女が割り込んですみません。
(S:ync三人だけで撮った方が良いのでは? え、撮りたい……)
と、違う形での撮影会を想像してしまった。いくらでも撮れそうだ。
「はい、こっち向いて笑ってー!」
スタッフの合図でポーズを取る。
カメラマンがシャッターを切る瞬間、凪沙は精一杯の笑顔でピースした。
撮影が終わるとすぐに退室を促される。
「ありがとうございましたー、次の方どうぞー」
凪沙は小さく頭を下げ、列を離れた。
(……ちゃんと笑えてたかな……)
ほんの数秒の出来事だったが、体感時間はとても長かった。心の中は興奮と幸福でいっぱいだ。
後日、写真データの案内が届くそうなので、期限内に忘れずにダウンロードしなければ。
ちらりと推しの顔を振り返り、その横顔にまた心が揺れる。
次に撮るファンの感極まった表情が、やけにちくりと胸をさした。
――そう、アイドルは皆のもの。
数あるファンの中の一人だとしても、自分と推しとの写真は一枚きり。家宝にする他ない。
凪沙はそう自分に言い聞かせ、名残惜しげに足を動かしながらも、手元のチケットを握りしめて撮影ブースを後にした。
その背に一瞬視線が送られていたことなど、知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
次は握手会だが、撮影が終わってからS:yncが一人ひとりのブースに移動して行われるので、少し空き時間がある。
身支度を整えて、少し頭を冷やすことにした。
同担拒否などと、心の狭いファンになってはいけない。少なくとも凪沙の応援の仕方は違う。
――夢としか思えないマッチングで、直接言葉を交わしたからって、自分は彼の特別なんかじゃない。
(……うん。それが普通。アキはみんなのアキ)
もやもやするものを振り払って、握手会の会場に向かった。
時間より前でも、既に待機列は長い。
握手できる相手は一人だけ。
凪沙はもちろん、『AKI』と表示されたレーンに並ぶ。
三つのレーンとも盛況だが、やはりセンターのAKIが一番ファンが多いように思えた。
色々考え込んでいる内に、開始が告げられて、順番に奥へと吸い込まれていく。
スタッフの、「立ち止まらないで」「前につめてくださーい」と誘導する声で、少しずつ推しへと近づいていった。
握手の時、何を伝えよう。
(大好きです? ずっと応援してます? ……生きててくれてありがとう? ああもう、何を言えばいいかわからない……!)
撮影の時とはまた違う緊張に襲われて、列が進むたびに一歩が重くなる。
握手が終わったファンが、嬉しそうに横を通り過ぎていった。
「今日手洗えない!」「神対応だよね、一生推すー!」などなど。
頬を上気させ、目を潤ませながら。
羨ましいやら、期待するやら。
握手の時手汗をかいていたらどうしよう。
今日のために健康管理は欠かさなかったけれど。
(世界一尊い手に、私の汗や病原菌をつけませんように……!)
直前にアルコール消毒があってほっとしたけれど、変な心配をしてしまった。
緊張が最高潮に達する中、前の人がパーテーションで区切られた半個室の中へ消えていき。
「次の方、どうぞー」
そしてすぐに、入れ替わりで自分の番が来た。
促されて一歩踏み出すと、小さな机を挟んで推しが目の前に立っていた。
「今日は来てくれてありがとう」
良い声過ぎて、耳が溶けそう。
今日いちばんの、自分だけに向けられた笑顔――凪沙が吸血鬼ならもう昇天していた。
差し出された骨ばった大きな手を、震えながら握る。
あたたかい。
触ってしまった。
推しの体温。
関節と筋肉がセクシー。
長い指と爪があぁぁぁぁ。
「体調、大丈夫?」
「はっ、はい!」
ほんの一瞬の接触で萌えがビッグバンを起こしていたため、かけられた声に反射で返した。
「そっか。良かった」
そう言って安堵したように相好を崩すアキの表情――全宇宙一尊い。
バァンと銀の弾丸で撃ち抜かれた吸血鬼のように、凪沙はノックアウト。
神々しさに消し炭になっていたら、いつの間にか退席させられていて、気がついたら会場のエントランスにいた。
――はいしか言ってない。
己の不甲斐なさに打ちひしがれ、しおしおと凹みつつ家路をたどった。
アキの手の温もりだけが、ずっと心に残っていた。
ぼうっと熱に浮かされた心地と反省する気持ちは帰宅してからも続き。
「あ、凪沙。不在通知入ってたわよ」
二人暮らしをしている姉にそう言われるまで、他のことは何も頭に入ってこなかった。
「ありがとー」
戦利品を並べたり、チケットをファイルに入れたりしていた手を止めて受け取ると。
本人指定受取、差出人は。
「……国立遺伝子適合センター……」
数ヶ月前に届いた特別な封筒を思い出して、頬が引き攣る。
振り返った先で、開封されたままの一通目の手紙が、机の上で所在なさげにしていた。
「これ、受け取らなきゃ駄目だよね……」
通知を手にしたまま、ばたりと布団に倒れ込む。
ベッドの上を転がり回る彼女の苦悩は、まだまだ続きそうだった。
凪沙は脳内暴走系ファンであり、ファンは皆で推しを崇めるべきと思っています。




