75、狐目の恩人
俺には一つ、密かに恐れていることがある。
いつか来るかもしれないし、来ないかもしれないその日を考えると胃の中に氷を放り込まれたような感覚に襲われる。考えてどうにかなるものでもないとできるだけ考えないようにしていたが、深夜、一人でダンジョンを彷徨っていると不意に最悪の状況が頭に浮かぶのだ。
今まで幸運にもそういった状況に陥ったことはなかったが、恐れていたその日はある日突然なんの前触れもなくやって来た。
「お前! 久しぶりだなぁ、元気にやってたか?」
ダンジョンに侵入者が入ったとの情報を受け、偵察に向かった先にいたのは大した防具も付けずへっぴり腰でダンジョンを進んでいく男だった。
彼は呆然とする俺に顔を向けるや、嬉しそうにその狐のような目を更に細めて笑う。
その胡散臭い顔には見覚えがある。俺はこの男を知っていた。
「おいおい、俺のこと忘れちまったのか? あー……えっと、俺もお前の名前忘れたけど……ほら、しばらく一緒に旅してたろ?」
どうやら彼は俺が沈黙している理由を「自分のことを忘れているからだ」と勘違いしたらしい。その上、ダンジョンの暗闇のお陰か、彼は俺の正体にまだ気付いていないらしかった。
「……もちろん覚えてますよ、先輩」
俺はそう言って引き攣った顔に無理矢理笑みを乗せる。
先輩と出会ったのは数年前、まだ俺が新米冒険者だった頃のこと。
うっかり魔物の群れに囲まれて殺されかけていたところを通り掛かった先輩に助けて貰ったのだ。それをきっかけに数週間ほど先輩と一緒に旅をし、冒険者としてのいろはを教えてもらったのである。先輩はそれほど強い冒険者ではなかったが、その狡猾で卑怯な戦い方は教科書通りの戦法しか知らなかった俺に大きな衝撃を与えてくれた。色々な意味で先輩は俺の恩人なのだ。
よりによってそんな人とこんな形で再会を果たすとは。
色々と話したいこともあるが、数年ぶりの再会を呑気に喜んでいる暇はない。
彼は冒険者のままだが、俺はもはや冒険者どころか人ですらない。日々冒険者の殺戮に精を出す化け物なのだ。
「まぁなんでも良いから助けてくれよぉ、実は俺……あれ? なんかお前薄くね?」
この時になってようやく先輩はなにかに気付いたらしい。言いかけていた言葉を引っ込め、まじまじと俺の透けた体を見つめる。
「すいません先輩。俺はもうそちら側の人間じゃないんです。というか、人間じゃないんですよ」
俺は先輩をできるだけ驚かさないよう、ゆっくりとそちらに近付いていく。
先輩は次第に視線を俺の足元に下ろし、インクの少ないペンで描いたような掠れた脚を見るなり目を見張った。
「あ、お前、脚……」
「俺、幽霊なんです。ここの魔物なんですよ」
先輩は目を丸くしたまま、声も出ないといった様子で固まってしまっている。
まぁ驚くのも無理はない。恐がって逃げ出されなかっただけ良いくらいだ。
俺が恐れていた事。それはダンジョンでかつての仲間や知り合いと再会すること。そして彼らが殺されるのをこの目で見ることだ。
一つ目は実現してしまったが、今なら二つ目の事態を回避することができるかもしれない。
「恐がらないでください、俺は先輩を殺すつもりはありません。まだ他のアンデッドには気付かれてないみたいだし、このまま帰ってくれるというなら道案内して――」
「お、お前……」
俺はハッとして言いかけた言葉を飲み込んだ。先輩は拳を握り締め、小刻みに震えている。
怒っているのだろうか。確かに俺は先輩に殴られても仕方のない事をやっている。元冒険者にも関わらず、今は化け物となってかつての同業者たちを殺しているのだから。
先輩は俺の頬を殴って然るべきだ。しかしこの透けた体ではそれも叶わない。
どんな言葉も薄ら寒い言い訳になってしまいそうで、俺は黙ったまま先輩の言葉を待つ。
すると先輩は勢い良く顔を上げ、俺の元へ駆け寄って思いも掛けない言葉をかけてきた。
「お前……すげーな!!」
「……え?」
俺は先輩の言葉の意味がよく分からず、そのまま固まってしまった。
すると先輩は少年のように目を輝かせながら俺の透けた体をまじまじ眺める。
「だってお前幽霊って……壁とかすり抜けたり飛んだりできるんだろ? すげーじゃん!」
「せ……先輩……!」
なんて懐の深い人だろう。冒険者から罵倒されても仕方のない俺を、先輩は罵倒するどころか優しい言葉で受け入れてくれたのだ。
感動に打ち震えていると、先輩はにんまりと笑みを浮かべながら腕を組んでポツリと呟く。
「金持ちの家の金庫の在処とか、家人が留守かどうかとかが簡単に分かるわけだろ? その上幽霊なら捕まる心配もねぇ」
「……ん?」
なにやら不穏な台詞を聞いたような気がして、俺は再び動きを止める。先輩はまだ独り言のようにボソボソとなにかを呟いていた。
「ああ、資産家奥方の不倫相手を探し出して強請るってのも良いなぁ」
「せ、先輩……」
なんて欲深い人だろう。
どうやら俺は大事なことを失念してしまっていたらしい。コイツ、根っからのクズだった。
そもそも、先輩にとって俺を助けたことはあくまで副産物でしかない。
魔物の群れに襲われた時助けてくれたのは俺を襲った魔物の革が高く売れるからだし、俺を旅の仲間に入れてくれたのは革を街に運ぶために人手が必要だったからだ。
つまり、先輩が自分の利益のため取った行動がたまたま俺を助ける事になっただけなのである。
俺にとって先輩が恩人という事に変わりはないが、彼は決して善人ではない。
取らぬ狸の皮算用を終えたらしい先輩は今更真剣な表情を浮かべ、俺の顔を覗き込んで言う。
「こんなとこ出て俺と一緒に行かねぇか? お前とならなんかすげーデカいことできそうな気がすんだよ」
「さっきのがなければ感動のセリフですけど」
「なぁ頼むよ、悪いようにはしねぇからさ。一緒に大金持ちになろうぜ」
「嫌です。どうせいくら稼いだって俺に取り分よこす気ないんでしょ」
「うっ……い、いやそんな事は」
今までの饒舌が嘘のように、先輩は苦笑いを浮かべながら言葉を詰まらせる。
俺はため息を吐いて先輩の言い訳がましい台詞を遮った。
「まぁいくらお金が入ったところで、どうせ俺には一銭も使えないですしね。こんな体なんで」
「……ちょっと待て。ならお前はなんでこんな場所で働いてんだ? 別に働かなくてもやっていけるわけだろ?」
先輩はそう言って怪訝そうな表情をこちらに向ける。
「な、なんでって。まぁ成り行きというか。そんな大きな理由はないですけど」
「いいや、理由もなくタダ働きするヤツがこの世に存在するはずない。あ、あれか? 人から感謝されることを至上の喜びとしてる系の人かお前?」
「いや、そういうワケでも……」
「言っておくが、ここの魔物なんかより俺の方がずっとお前を必要としているし、もし俺と来てくれるなら俺はお前に死ぬほど感謝するぞ。一万回でも十万回でもお前にありがとうといってやろう」
先輩はそう言いながら俺に詰め寄り、ギラギラと輝く目で俺の顔を覗き込んだ。ご馳走を前にした獣のようなその目に、俺は思わず後退りをする。
「いや、先輩からの感謝とかはいらないです。そもそも俺、この体になってからダンジョン出たことないんですよ。出たらどうなるか分からないんで」
俺の言葉に、先輩は目を丸くしてわざとらしいほど大袈裟に驚いてみせた。
「なに!? なんてもったいないことしてるんだ、そんなの宝の持ち腐れ以外の何物でもない! さぁ俺と共に行こう、自分の運命を切り開くんだ」
「そんな調子いいこと言ったってダメですよ。外に出て、そのまま消えちゃったらどうするんです」
「あー、もし消えたなら……まぁそれがお前の運命だったって事だな」
「なんか腹立つんで二度と『運命』って単語使わないでください」
見え透いた悪巧みとしつこい勧誘に辟易しながら、俺は根気よく先輩の耳障りの良い言葉を突っぱねていく。
その成果がようやく現れたのか、先輩は働きっぱなしだった口の動きを止め、眉間にシワを寄せながら大きく一つ息を吐いた。
「ふぅ……分かったよ、お前がそこまで嫌と言うなら」
「帰ってくれます!?」
嬉々として尋ねる俺の目の前に、先輩は真剣な表情でスッと人差し指を立てる。
「一月、いや一週間! 一週間だけで良いから俺と来てくれ!」
「……先輩、話聞いてました?」
冷たくそう言い放つと、先輩はなにやら喚き散らしながら俺の透けた体に縋り付いた。
「なぁ頼むよ! そうだ、俺がこのダンジョンに来た理由教えてやろうか?」
「いや、結構です」
「借金取りに小突かれて無理矢理このダンジョンに放り込まれたんだよ。冒険者なら宝の一つや二つサクッと取ってきて借金返せってな。酷い話だろ?」
「自業自得じゃないですか」
吐き捨てるように言うと、先輩は地面に膝を付いてわざとらしく項垂れてみせる。そして俺の方をチラチラ見ながら暗い声で呟くように言った。
「とにかくだな、俺はなんの成果もなしにダンジョンから逃げ帰ることはできないんだ。外で借金取り達が手ぐすね引いて待ってんだからな。一緒に来てくれねぇって言うならせめて宝の在処を教えてくれ」
「……先輩立場分かってます? 正直先輩の実力じゃうちのダンジョンは厳しいです。このままだと死んじゃうんですよ?」
あまりに滅茶苦茶な彼の理論に思わず顔を顰めながらそう言って先輩を諭す。ところが、彼は真顔で俺にこんな反論をした。
「お前こそ自分の立場を分かっているのか。このままだとお前の命の恩人が目の前で死ぬんだぞ? 良いのか? 俺が死んでも本当に良いのか? 寝覚めが悪いぞ、後悔するぞ」
……先輩がこのまま死んでも構わないと思ってしまうのは、俺が血も涙もない幽霊だからだろうか。
「先輩、いい加減にしないとそろそろ――」
そう言いかけたその時、どこからか不意にペタペタという可愛らしい足音と何か重いものを引きずるような不穏な音が聞こえてきた。
よりによって一番話が通じないアンデッドがこちらへ接近しているらしい。
「ヤバい! 先輩逃っ……」
そう言いながら振り返った時、すでに先輩の姿はどこにも見えなかった。
話す相手を失い、宙ぶらりんになった言葉を俺は静かに飲み込む。そして代わりに今日一番の大きなため息を吐いた。
「アイツ、昔から逃げ足だけは速かったんだよなぁ……」
「ねぇレイス見テー」
そう言いながら通路の角からゾンビちゃんがその姿を現した。両手にはなんだかよく分からない血の滴る巨大な肉塊を持ち、それを地面にズルズルと引きずっている。
ゾンビちゃんはまるでバケツに入った血を被ったように全身血塗れで、彼女のツギハギだらけのワンピースは血を吸ってぐっしょり濡れている。彼女の通った後には血の跡がずっと続いていた。
「あれ? それは一体どうしたの?」
「入リ口をウロツイテタ」
「ふうん……ん? 入り口?」
ゾンビちゃんの言葉に、先ほどの先輩のセリフが脳裏に浮かんだ。
『俺はなんの成果もなしにダンジョンから逃げ帰ることはできないんだ。外で借金取り達が手ぐすね引いて待ってんだからな』
見れば、ゾンビちゃんに引きずられた二つの肉塊はどちらも強面の大男で、ゾンビちゃんの「つまみ食い」により激しく損傷しているもののその体には鮮やかな彫り物が見て取れた。
今や見るも無残な肉塊ではあるが、彼らが堅気の人でないのは明らかであろう。武装していないところを見ると冒険者でもなさそうだ。
とすると、彼らこそ先輩をこのダンジョンに放り込んだ「借金取り」と考えるのが妥当であり自然ではなかろうか。
「ソウいえば、レイス誰カと喋ってナカッタ?」
ゾンビちゃんの問いかけに、俺は少し考えてからポツリと呟いた。
「……ひとり言だよ」
「フーン」
ゾンビちゃんは男の腹の中をかき回しながら興味なさそうに返事をする。この短時間で彼女の興味は男のハラワタに移ってしまったらしく、明らかに大きすぎる俺の独り言はどうでも良くなってしまったようだ。
悲鳴やガシャガシャというスケルトンたちの足音が聞こえてこないところを見ると、どうやら先輩は無事ダンジョンを脱出できたようだ。
先輩はアンデッドと借金取りという迫りくる二つの危機から見事逃げ果せたと言うわけである。憎まれっ子世にはばかるとはよく言ったものだ。ヤツはきっと長生きする。
先輩が世にはばかるのは別に構わないが、問題は調子に乗った彼が再びこのダンジョンを訪れる可能性が無きにしも非ずという事だ。
俺はそっとゾンビちゃんに解体されている最中の肉塊に目をやる。
この肉塊がもし先輩だったら、俺はどんな精神状態になっていただろう。
……案外、こうして平然としているのかもしれないな。




