67、招かれざる客達
ダンジョン入り口から吹きすさぶ風が俺の透明な身体をすり抜けていく。すっかり感覚の鈍くなってしまったこの身体でも風の孕む刺すような冷たさがハッキリと感じ取れた。
この季節、風が冷たいのは言うまでもなく当然のことである。だが昨日までの寒さと今日の寒さは明らかに格が違った。嫌な予感をなんとか抑え込み、恐る恐るダンジョン入口に切り取られた外の森を覗く。
目に飛び込んできたのは桜と見紛う雪の花の咲いた樹、平らで滑らかな白い大地――そこには眩しいほどの銀世界が広がっていた。
「おおっ、雪だ! すげー! 綺麗だなー綺麗……はは……はぁ」
その美しさと非日常感にテンションが上がったのも束の間、それは一瞬の後にジェットコースターのごとく急降下していった。
冬は日が短く、訪れる冒険者の数が少なくなる。加えてこの天気、しかも積雪までしてしまったらダンジョンに冒険者が来ることはあまり期待できない。
「これはますます食料の節約に励まないと」
そう決意すると同時にその先に待ち構えているはずの惨劇が脳裏に浮かび、俺は思わず頭を抱えてため息を吐いた。
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「ねーレイス見テ!」
子供の様な無邪気な笑みを浮かべながらゾンビちゃんがその前髪を上げる。額に貼られているのはデフォルメされた顔の描かれたシールだ。子供が小さな悪戯をしたような微笑ましいその様子に思わず笑みがこぼれる。
「へー、可愛いね。どうしたのそれ?」
「コレ貼ってニク食ベルとオ腹イッパイになるんダッテ!」
「……ん?」
「コレ貼ってニク食ベルと――」
「いや、肉食べたらお腹いっぱいになるのは普通でしょ。シール関係あるのそれ?」
「んん?」
俺の言いたいことが伝わっていないのだろうか。ゾンビちゃんは怪訝な表情を浮かべて首を傾げる。
ゾンビちゃんからの返答が期待できない事を悟った俺は質問を変えるべく再び口を開く。
「まぁそれはとりあえず良いや。ところでそれどこで拾ったの?」
「拾ッテないよ、貰ッタの。ていうかコレカラ貰うの」
「これから貰う?」
彼女の言葉の意味が分からず今度は俺が怪訝な表情で首を傾げる。
するとゾンビちゃんはキョロキョロ辺りを見回しながら先ほどの言葉に付け加える様に口を開いた。
「ウン、ダンジョンにある金貨と交換デ貰うの。ねぇレイス、金貨ってドコ?」
「……ちょっと待って。それ貰うって言わないし、っていうか完全に騙されてるから!」
「ですから、この『エンゲル係数激落ちくん』から発せられる最先端魔法技術を駆使した微弱の魔力波により満腹中枢が刺激され――」
黒服に身を包んだゴブリンが大袈裟な身振り手振りを交えてゾンビちゃんの額に貼ったシールの説明を懇々と繰り返す。この説明を聞くのはもう数回目、さすがにうんざりしてくるがゴブリンはそんなこと気にも留めない。
「だからいらないと言ってるだろう! とっとと失せろ」
吸血鬼は矢継ぎ早に繰り出されるセールストークを遮り、バッサリと切り捨てる。
だがゴブリンもそう簡単には引き下がらない。
「どうしてですか? 凄く良い商品なんですよ。この『エンゲル係数激落ちくん』はアーモンドセレクション二十四年連続金賞。魔王城にも献上されている伝統ある商品でして」
最先端技術を使った伝統ある商品――その妙な組合せから胡散臭い匂いがぷんぷんしてくる。
吸血鬼も長々聞かされたセールストークに嫌気が差してきたらしく、不機嫌そうな表情と威圧感を前面に押し出しながらゴブリンに迫った。
「よく動く口だな。だがお前が動かすべきなのは足の方だ。自殺願望があって、細切れのゾンビの餌になりたいというなら別だが」
ブチ切れ寸前のダンジョンボスから発せられた脅し文句はさすがに恐ろしく感じたのだろうか、ゴブリンはようやく商品を鞄に仕舞ってダンジョンから去って行った。
「はぁ、やっと帰ってくれた」
最初は俺がゾンビちゃんの額に貼られたシールの返品と代金支払いの拒否を申し出たのだが、あのゴブリンのセールストークの長さとしつこさには呆れや怒りを通り越して感心してしまう程であった。
だがやはり「恐い人」や「強そうな人」にはセールスマンもあまり強くは出れないのであろう。こんな時ばかりは吸血鬼の威圧感や傲慢な態度が羨ましくなる。
だが何はともあれようやく帰ってくれた。
ゴブリンの小さくなっていく背中にホッと胸をなで下ろしたのも束の間、すぐ横から不意に不機嫌そうな声が上がった。
「なに考えてるんだお前。あんな詐欺丸出しの胡散臭さを濃縮して固めたようなものに手を出して!」
セールストークを長々聞かされたイライラがまだ治まらないのか、吸血鬼は目を吊り上げてゾンビちゃんを叱りつける。だがゾンビちゃんは謝るでも怒るでもなく、キョトンとした顔でじっと吸血鬼を見つめる。
やがてゾンビちゃんは俺の方に顔を向けて吸血鬼を指差し、怪訝そうな表情を浮かべて言った。
「ナンデ怒ってるの?」
「なんでだって……? お前があまりに馬鹿だからだッ!」
「まぁ落ち着いて吸血鬼。ほら、ゾンビちゃん最近あんまり食べれてないからさ」
そう言って吸血鬼を宥めると、彼は頭を抱えて恨めしそうにゾンビちゃんを見つめる。
「……チッ、もうこんなに進んでるのか」
ゾンビちゃんの知能と腕力は食事量と密接に関係している。
大量の肉で満腹になれば知能は上がるが腕力は下がり、逆に空腹状態が続くと腕力は上がるが知能が著しく低下する。
今、ゾンビちゃんは慢性的な空腹によりどんどん知能が低下している状態にあった。
「まぁ本人に悪気がある訳じゃないし……五歳児の相手をするくらいの感覚で接してあげないと」
「ハァ、本当に五歳児だったらもう少し扱いやすいんだがな」
吸血鬼はそう言って頭を抱えたまま大きなため息を吐いた。
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空腹状態のゾンビちゃんは意外とダンジョン中を動きまわる事が多い。
ジッとしていた方が腹が空かなさそうだが、ゾンビちゃんは「お腹が空かないためにどうするか」ではなく「どうすればお腹を満たせるか」を考えて行動するのだ。いや、考えて行動するというのは少々語弊があるかもしれない。彼女は本能のまま、飢えた獣のごとく獲物を探して彷徨う。だがいくら動き回ろうとダンジョンに彼女の空腹を満たせるような獲物はいない。
だが、目の前の彼女は確かに手に持った何かを咀嚼していた。茶色くて、固くて、やや弾力のある何か――
「ゾンビちゃんそれは……?」
尋ねると、ゾンビちゃんはそれを真顔で咀嚼しながら短く答えた。
「ニク」
「いや肉っていうか革っていうか……」
一見パンのようにも見える形、光沢のある表面――俺の目が正常であるならば、それは一般的に革靴と呼ばれるシロモノであるらしかった。
「これ吸血鬼が渡したの?」
やや離れたところからソファにふんぞり返ってゾンビちゃんの様子を見ていた吸血鬼に尋ねると、彼は平然とした顔で悪びれる様子もなくアッサリ頷いた。
「ああ、肉が欲しい欲しいとうるさかったからな」
「だからって革靴……」
「仕方ないだろう、動物性のもので思い当たるのがそれしかなかったんだ」
「まぁ本人が良いならいいんだけどさ。ゾンビちゃん、それ美味し――」
吸血鬼からゾンビちゃんに視線を移そうと彼女のいた方向に目を向けるが、もはやそこに彼女はいなかった。慌てて辺りを見回すがゾンビちゃんの姿は見えない。
「あれ、どこいったんだろ」
「落ち着きがないな、また馬鹿なことやってなきゃ良いが……」
そう言った瞬間、通路の向こうからガシャガシャ音を立てながらスケルトンたちが慌てた様子で走ってくるのが見えた。吸血鬼は苦い表情をスケルトンたちに向け、小さく呟く。
「……どうやらまた馬鹿なことをやったらしいな」
スケルトンたちに連れられて向かったダンジョン入口にてゾンビちゃんの姿を発見した。
彼女は死んだ魚の様な眼で虚空を見つめながらただただ機械的になにかを咀嚼している。
「今度はなに食べてるの……?」
「ニク」
「あのー、魔忌日新聞の者なんですけども」
ゾンビちゃんの正面にいた魚のような頭の魔物が恐る恐ると言った風に声をかけてきた。魚の顔から表情は読み取れないが、その声には困惑の色が見え隠れしている。
「新聞? 魔物のですか?」
「ええ。政治、経済、エンタメに美味しい人肉レシピまで多様な情報を毎日お届けしますよ。いかがですか?」
セールスの次は新聞勧誘だったらしい。
魔物の世界にも新聞があるのかと言う素朴な驚きと共に魔物の新聞記事の内容に興味が湧いてこないこともなかった。だがこの身体では新聞を捲るのも一苦労――というか、それ以前に今は新聞に構っている場合ではない。
「人肉レシピ……革靴の次は『絵に描いた肉』か?」
ゾンビちゃんの口の端から見える灰色のなにかと、彼女の足元に転がる破れた新聞紙を見て吸血鬼はため息を吐いた。足元の新聞紙からはちょうど「今日の献立」のタイトルのすぐ下の部分が破り取られている。そこにあった肉の絵でも齧ったに違いない。
「見ての通りのんびり新聞読んでる暇ないんで、うちは結構です」
とうとう紙まで口に入れ始めたゾンビちゃんの様子に危機感を抱きつつ、俺は改めて魚の魔物の新聞勧誘を断った。だが魚もそう簡単には引き下がらない。その酸欠の金魚のような厚い唇をパクパクさせながらなおも食い下がる。
「そう言わないで下さいよ、一ヶ月だけでも良いんで。ほら、そちらのお嬢さんも気に入って頂けたようですし、防寒や掃除、生ゴミを包むのなんかにも使用できますよ」
「今言ったの全部本来の使い道と違うんですけど」
「セールスマンがそんな使用用途勧めて良いのか?」
魚の魔物は俺たちの疑問に答えようとはせず、鞄から何やら赤い色のボトルを数本取り出してこちらに差し出した。
「お願いしますよぉ、今なら洗剤も付けますんで。冒険者の恐怖心を煽る返り血の香り付きですよ」
「誤飲、誤食間違いなしだな」
「いくらゾンビでも洗剤はダメ! 洗剤は絶対ダメ!」
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ガリ、とかゴリ、とか言う通常ならあり得ないような強い咀嚼音がダンジョンに鳴り響く。もちろん音の発生源はゾンビちゃんだ。
「ゾンビちゃん、それ肉じゃない。石だよ」
一応指摘してみたものの、無視しているのか聞こえていないのか、それとも俺の言った言葉の意味がもう分からないのか。彼女は魂が抜けてしまったように虚空を見つめたままこちらに顔を向けようともしない。
俺はゾンビちゃんからの返事を諦め、隣にいた吸血鬼に視線を移す。
「なんか最近訪問販売みたいなの多くない? 雪積もってるのによくこんなに来るよね。いつもこんなに来るっけ」
一応雪は降り止んだものの、ダンジョン外の森は相変わらずの銀世界だ。人間の気配はしないのに、訪問販売の魔物ばかりダンジョンを訪れる。
だが吸血鬼は「雪が降っているからこそだよ」などと言って俺の疑問に答える様に口を開いた。
「冒険者の来ない今の暇な時期こそ奴らにとっては狙い目とも言える。忙しかったら話も聞いてもらえないからな。それから……ああいう奴らは独自のネットワークを持っているというから、もしかしたらうちの情報が洩れてるのかもしれん。チョロそうなゾンビがいる、とか」
「高額商品をゾンビちゃんが食べちゃったらと思うとゾッとするね」
「もうだいぶ不安定になっているからな。差し出されればなんでも食うぞ」
「しばらくは監視必須かぁ」
俺たちはそっとゾンビちゃんに視線を向ける。
今はじっとしているが、少し目を離すとまるで幼児のように突然走りだしたりしてしまうのだ。その上腕力まで強くなっているからタチが悪い。今は比較的落ち着いているが、いつ「発作」が起きるか――
そんな事を考えていると、不意にスケルトンたちのガシャガシャという足音が聞こえてきて乱暴に扉が開かれた。もはや筆談で状況を伝えてもらうまでもない。また招かれざる客が来たのだろう。
「またか……俺ちょっと行ってくるからゾンビちゃん見張ってて」
「ええっ、僕が?」
吸血鬼は目を丸くして自らを指差す。
俺は当然だろとばかりに頷いた。
「他に誰がいるんだよ。スケルトンじゃゾンビちゃんに太刀打ちできないし、俺は論外でしょ」
「アアアアア……ニク……ニク……」
ゾンビちゃんは突然ふらりと立ち上がり、ふわふわした足取りでスケルトンたちの脇を潜り抜け通路へと出て行く。
「ほらほら、行っちゃうよ。お世話頼んだからね」
「なんで僕が小娘のお守りなんか……クソッ、どこ行くんだ馬鹿!」
吸血鬼は文句と暴言を吐きながらもゾンビちゃんを追いかけて部屋を出て行った。ゾンビちゃんのことは吸血鬼に任せておけば取りあえず大丈夫だろう。
こちらは俺一人でどうにかしなければ。俺は密かに気合を入れて天井をすり抜け、ダンジョン入口へと向かう。
まず俺の目に飛び込んできたのは、スケルトン数体を相手に演説の真似事の様なことをしている二人組の魔物であった。
一人は恐ろしい顔に巨大な赤い身体を持つ角の生えた鬼のような魔物。もう一人は蛇の下半身を持つ若い女の魔物であった。蛇の魔物の方はなかなかの美人だが、その金色の眼は獲物を前にした蛇のようにギラギラと気味悪く輝いており、何とも言えない威圧感を感じさせた。
「今度はなに?」
俺はうんざりした顔を隠さず、ゆっくりと二人組の魔物の前へと歩み出る。
すると蛇の魔物の糸の様に細い瞳孔が俺に刺すような視線を向けてきた。その迫力と恐ろしさに息をのむ俺に、彼女は勢いよくこう言い放つ。
「あなたは神を信じますか?」
「……えっ、なんです?」
あまりに突然の質問に俺は思わず眉を顰めて彼女にそう聞き返してしまった。というか、幽霊に「神を信じるか」なんて質問、彼女は違和感を感じないのだろうか。
困惑していると、ここぞとばかりに角の生えた魔物が恐ろしい顔に笑みを浮かべてその大きな口を開いた。
「私たち『幸福組』の者です! 今、こちらの方々に邪神宙返様の素晴らしさを説明させてもらってたとこでね、よかったらダンジョンの皆さんにも聞いてもらいたいんだけど」
その巨体と恐ろしい顔から男だとばかり思っていたが、どうやら彼女も女性だったらしい。その恐ろしい姿に似合わず、喋り方と声はいわゆる「人の良さそうなおばちゃん」そのものであった。
だがそう安心してもいられない。俺には彼女が何者なのか、未だに見当がついていないのだ。
「ええと……?」
助けを求めてスケルトンたちに視線を向けると、一体のスケルトンが紙に短く何かを書いてこっそりと俺に提示してくれた。
『宗教』
「えー、魔物にも宗教あるんだ……」
魔物たちの社会にも色々あるんだなぁ、などと感心していると、蛇の魔物がまるで神官かなにかのように厳かに口を開いた。
「昨夜宙返様からこちらのダンジョンに災いが降りかかるとのお告げがありました。このままではあなた方大変な事になりますよ」
「でも私たちが来たからにはもう大丈夫! 宙返様への信仰が必ずあなた方を助け、災いを退けてくれますからね」
蛇の女とは対照的な明るい笑顔と声が鬼の魔物から上がる。
恐らく蛇の魔物が獲物を脅し、鬼の魔物が救済策として宗教を提示するという手法を取っているのだろう。あちらのペースに飲まれてはいけない。
俺は大きく息を吸い込み、「毅然とした態度」というワードを口の中で呟いた。
「急にそんな事言われても困るんですけど!」
俺はできる限り強い口調で二人の魔物にそう言い放つ。
だが魔物たちは顔色一つ変えず、それどころかワガママを言う子供を宥めるように優しい言葉をかけてきた。
「ええ、そうよねごめんなさい。困惑するのは無理もないわ。でもそんな悠長なことを言ってる暇はないのよ。最近何か困ったことが起きてるんじゃないの?」
「いや……そんな事は」
俺は頭に浮かぶゾンビちゃんの死んだ魚の目を必死で振り払う。
「災いはあなたのすぐ後ろにまで迫っています。早くしないと取り返しのつかない事になりますよ」
「うっ……うちは至って平和ですから大丈夫です! 帰ってください」
俺は必死の思いで声の震えを抑え、魔物たちに帰宅を促す。だがそんなのは慣れたものとばかりに魔物たちはグイグイこちらへ迫ってくる。
「まぁとにかくお話だけでも。少しだけで良いので……ああ、そちらの方にも是非お話を!」
「あっ、ちょっと勝手に入らないで下さいよ!」
俺の制止を聞かずダンジョンの中へ入っていく魔物たちを追いかけて振り向くと、フラフラこちらへ歩いてくるゾンビちゃんの姿が目に入った。そばにいるはずの吸血鬼の姿は無い。また油断してゾンビちゃんを逃がしたに違いない。
「くそ、あの野郎どこ行きやがった……」
「私たち『幸福組』の者です! 今このダンジョンに災いが迫っていて……あっ、とりあえずパンフレットを――」
鬼の魔物が明るい声を上げながらゾンビちゃんに近付いていく。
そのとき俺はようやく気付いた。ゾンビちゃんのツギハギだらけのワンピースに真新しい血が付いている事に。
革靴や新聞や石を食べただけでは血など零れない。ネズミでも捕まえて食べたのか。いや、それにしては血の量が多すぎやしないか。
嫌な予感が胸をよぎる。そしてその予感を裏付ける様に、ダンジョンの奥から血に塗れた吸血鬼が這うようにしてその姿を現した。彼は眼を見開き、ゾンビちゃんに近付く鬼の魔物に向けて警告を発する。
「だっ……ダメだ……そいつに近付くなっ……逃げろ!」
「え?」
だが吸血鬼が現れるのは少々遅すぎた。鬼の魔物はすでにゾンビちゃんの手の届く距離に入ってしまっていたのだ。
ゾンビちゃんは自分より二回りも大きい鬼の懐に飛び込み、その赤い身体に容赦なく噛り付く。刹那、鬼の魔物の咆哮がダンジョンの空気をビリビリと震わせた。俺たちはその恐ろしさに思わず体を硬直させたが、当のゾンビちゃんはそんなものはお構いなしに目の前の肉に噛り付く。
「こ、これは災い……! 邪神宙返様の名のもとに命じます、その者から離れなさい!」
そう言って勇敢にもゾンビちゃんの元へ駆け寄るのは相棒の蛇女だ。彼女は懐からしゃもじのようなものを取り出し、鬼に噛り付くゾンビちゃんの背中をバシバシと叩く。だがそれは武器と言うよりは宗教的な法具のようなものらしい。ゾンビちゃんには一切ダメージを与えられていない。それでもなお、蛇女はゾンビちゃんの背中を熱心に叩き続ける。
「離れなさい! 離れなさい!」
「そんなモノ効くわけないだろ! おいスケルトン、武器を出せ。それから鎖だ。引き剥がして押さえつけるぞ!」
吸血鬼の一声でスケルトンがゾンビちゃんを包囲し、吸血鬼自身も手負いの身体を引きずってじりじりとゾンビちゃんに近付いていく。だが、蛇女は相変わらずゾンビちゃんに意味の無い攻撃を繰り返していた。
「大丈夫よ、あなた達は心配いらないわ。私が災いを祓ってあげます」
「いいからどけ、邪魔だ!」
「すぐ離れてください! あなたも危な――」
俺がそう言い終わらないうちに、ゾンビちゃんの矛先が突然蛇女へと向かった。
自分の獲物をとられると思ったのか、それとも女の方が美味そうに見えたのかは分からない。とにかく、ゾンビちゃんはうめき声を上げながら女の長い蛇の下半身に噛みついた。
蛇女は悲鳴を上げながら無茶苦茶に暴れるが、ゾンビちゃんは一度噛み付いたらそう簡単には離れてくれない。蛇女がどんなに神に助けを請おうと、ゾンビちゃんの耳には届かない。
正直彼女たちの話を信じていたわけではないが、血塗れで獣のごとく肉を貪るゾンビちゃんの姿は確かに「災厄」そのもののようであった。
*********
『猛ゾンビ注意!』
生々しい血痕の残るダンジョン入口の脇にそんな文言の書かれた真新しい看板が立っている。
「これで良いだろう」
看板を横目に、吸血鬼は一仕事終えたように小さく息を吐いた。
まだダンジョンの外には銀世界が広がっているものの、空からは弱いながらも太陽の光が注いでいる。俺たちアンデッドにとって太陽は忌むべき存在であるが、今ばかりは恵みの光である。雪が解ければ少しは冒険者の入りも良くなるだろう。
だが不思議なのは、ダンジョンに訪れる招かれざる客の数が一気に減ったことだ。
「セールスとかあんまりこなくなったよね。まだ雪は積もってるのに」
そう呟くと、吸血鬼は苦い表情を浮かべて足元の血だまりに目を落とした。
「奴らの情報網に伝わったんだろう、『あのダンジョンにはヤバイゾンビがいる』とな」
「ああ……あの二人ね」
彼女たちの信仰していた邪神は我がダンジョンの「災厄」を退けることは叶わなかったが、二人の命を繋ぎ止めることには成功した。彼女らはゾンビちゃんに肉を食われながらもなんとか一命を取り留めたのである。
彼女たちはダンジョンを出た後、その成果を教会本部に報告したはずだ。もうあそこから勧誘が来ることはないだろうと思っていたが、他の勧誘まで根こそぎ追い払ってくれるとは。
「それはなによりだけど……」
俺は声を落としてダンジョンの奥から聞こえてくる呻き声に耳を傾ける。
「ニク……ニク……」
ゾンビちゃんは鎖で縛りつけてダンジョンの一室に隔離している。
だがあんな鎖、空腹発作が起きればたちまち破られてしまうだろう。いつ爆発するとも知れない時限爆弾を抱えているようなものだ。状況自体は好転しているものの、ゾンビちゃんの容体は悪くなる一方である。
「宗教でもなんでも良いからこの状況どうにかして欲しかったなぁ……」




