156、綺麗な吸血鬼
「私、性善説信じてるんだ」
突然やってきたと思ったら、ミストレスは開口一番そう言った。
緊張も相まって、俺たちはその突拍子のない言葉に気の抜けた返事をすることしかできない。
しかし俺たちの様子などミストレスはこれっぽっちも気にしていないのだろう。さらに続ける。
「人っていうのは本来、綺麗なガラス玉みたいな状態なの。でも生きているうちに手あかがついたり埃がついたりしてどんどんガラスが曇っていくんだよね。で、気付いたら真っ黒なきったないタールの塊みたいな大人になっちゃうわけ。つまり、快楽殺人者も狡猾な詐欺師も爆弾魔も放火魔も強姦魔も吸血鬼も、もとはガラス玉なの」
「その並びに僕の名を入れないでほしいんだが」
吸血鬼が渋い顔で言うのを無視し、ミストレスが杖を振るう。
「そこで実験!」
ミストレスの杖の先から白い巨大な箱が現れた。次に彼女は、吸血鬼へ杖を向ける。
「積年の汚れ、吸い取ってみよう!」
「うわっ、待っ――」
ミストレスの杖の動きに合わせて吸血鬼が宙を飛び、頭から箱に突っ込む。瞬時に蓋が閉まり、ごうんごうんという低い音を響かせはじめた。
それから数分。
ピピッという電子音を響かせながら、箱の蓋が開く。
ミストレスの引っ張り出してきた吸血鬼は、ぐったり脱力し、泡を吹いていた。恐る恐る声を掛けるも、反応はない。
「だ、大丈夫なの? 死んでる?」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
「本当に? 白目向いちゃってるけど……っていうか一体なにしたの?」
「洗濯だよ。魂の洗濯」
「魂の……?」
ミストレスはそう言いながら、箱の後ろから牛乳瓶ほどの大きさのボトルを取り出した。ボトルを満たすのは、ドロドロしたタールのような液体である。
「これが積もり積もった数百年の汚れだよ。興味深いよねー、このドロドロに色んな汚いものが詰まってるんだよ」
「そ、そんな事して本当に大丈夫なの? 全くなんの不具合も起きないの?」
「うるさい幽霊だなぁ。大丈夫だよ、最悪赤ちゃんになっちゃう程度だから」
「なにそれ」
「吸引力が凄すぎて、汚れと一緒に別の色々も吸っちゃうことがあるんだよね。ちょっとだけなら大丈夫だけど、吸いすぎると中身空っぽの『赤ちゃん』になっちゃう、かも」
「ええっ、知能とかも吸っちゃうってこと? そんなの聞いてないよ!」
「言ってないもん。でも大人が赤ちゃんみたいに泣き喚くのは凄く面白いよ」
夜泣きする吸血鬼、ガラガラであやされる吸血鬼、哺乳瓶で血をのむ吸血鬼――ゾッとする。冗談じゃない。
しかし彼女が見つめるのは吸血鬼じゃなく、瓶の中のタールだ。
「見た目からは分からないけど、やっぱり人間のそれとは違うのかな。さっそく調べないと」
「えっ、吸血鬼は?」
「は? そんな抜け殻どうでもいいよ。いったい何がガラス球をタールの塊に変えるのか、私の興味はそれだけだもの」
ミストレスがそう言って杖をひとふりすると、タール入りのボトルと共に煙のように消えてしまった。
ホッとした反面、とてつもない不安が俺の胸を蝕む。
そしてとうとう、吸血鬼が目を開いた。
「だ、大丈夫……?」
彼の口から出るのが人生二回目の産声だったらどうしよう。
そんな予想はすぐに裏切られる事となった。
吸血鬼は今まで見たことのないほど綺麗な目を俺に向け、落ち着いた声で言う。
「大丈夫なんてもんじゃない。最高の気分だ。こんなに清々しいのは初めてだよ」
……きちんと喋れてる。赤ちゃんにはなってない。それだけでもとりあえずは安心だ。
とはいえ、ミストレスの“洗濯”は彼の体に確かに変化を起こしていた。
「ここに置いて良いか?」
山のような荷物を抱えながら、吸血鬼はスケルトンへにこやかに尋ねる。恐らくは温泉で使用する食材やらなんやらだろう。
「いつもなら自分の洗濯物すら畳まないくせに……」
スケルトンたちも不審げに吸血鬼を見ながら、恐る恐るといったふうに頷いた。
『ありがとう』
「気にするな。ともに生活しているんだ、これくらいの仕事は当然だ……っと」
吸血鬼のつま先が地面に寝転がっていたゾンビちゃんの腕に当たる。
「通行の邪魔だ」と彼女を蹴り飛ばすのではと身構えたが、吸血鬼は荷物を下ろしてそっとしゃがみ込み、ゾンビちゃんの体を優しく揺すった。
「女性がこんなとこで寝ていてはダメだぞ」
口調も、まるで紳士のように柔らかく優しい。
だが寝かけていたところを起こされたのが気に触ったのだろう。ゾンビちゃんは不機嫌そうに吸血鬼を睨み、彼の手に噛み付いた。
「痛ダダダダダッ!?」
「ちょっ、ゾンビちゃん!?」
「触ルナ」
口に入ったらしい吸血鬼の血と共にそう吐き捨て、ゾンビちゃんは再び目を瞑る。
普段だったらどちらかの首が折れるまで続く殴り合いに発展するところだが、今日の吸血鬼は手の噛み傷から流血していても笑顔を崩さない。
彼は血塗れの手をハンカチで拭きながら口を開いた。
「君はいつでも元気だな、良い事だ。死んでもなお元気でいられるのはアンデッドの特権だからな」
「ほっといた方が良いよ。手に傷が増えるだけだよ」
「まぁ気持ちよく寝ているのなら無理に起こすのも可哀想だな。しかし風邪を引いたら大変だ」
吸血鬼はそう言って自分の上着を脱ぎ、それを地面に横たわるゾンビちゃんに掛けた。
新品の上着の袖が土に触れている事を、吸血鬼は全く気にしていないみたいだ。
「ど、どうしちゃったの吸血鬼……」
「ん? なにがだ?」
笑顔まで爽やかになってる気がする。毒気がすっかり抜けているようだ。あのドロドロを抜かれたからか。まるで別人のようである。
知り合いが今の彼を見たら、きっと大笑いするに違いない。
とはいえ、ここまでとは思わなかったが。
「アッハハハハハ! マジか、これが吸血鬼君? ミストレスの言う通り、すっかり『ガラス玉』じゃん。こんな綺麗な目になっちゃってさ!」
ミストレスから話を聞きつけたらしい。狼男がダンジョンへやってきたかと思うと、彼は吸血鬼を指さして大笑いした。
いつもの吸血鬼だったらこの無礼な知人に蹴りをお見舞いし、早々に減らず口を縫い付けていたに違いない。
しかし今の吸血鬼は川のせせらぎを聞いているかのような穏やかな表情を浮かべている。
「元気そうで何よりだ。一人旅は何かと大変だろう、大したことはしてやれないがゆっくりしていくと良い」
吸血鬼の寛大な言葉にも、狼男は大笑いで答える。
このまま窒息して死んでしまいそうだ。っていうか死ねばいいのに。
「ひぃ、おかしい。やっぱりミストレスって偉大だね。優しい吸血鬼君なんて、針のないハリネズミみたいだよ。今ならなんでもお願い聞いてくれそうだなぁ」
「ええ……変なこと言うのやめてよ……」
「結局女の子は優しい男が好きだからね。今の吸血鬼君ならきっとモテるよー! ねぇ吸血鬼君、また一緒に合コンやらない?」
狼男の一言に、吸血鬼の顔色が変わる。
「狼男……君はまだそんなことを言っているのか」
合コンにはトラウマがあるうえ、ついこの前も吸血鬼は狼男の合コンの餌食になったばかりだ。
さすがの吸血鬼もこれには怒るか?
と思いきや、彼はどこまでも優しかった。
「君に弄ばれた女性たちの気持ちを考えたことがあるのか?」
吸血鬼は狼男の肩を掴み、どこまでもまっすぐな目で狼男の顔をぞき込む。
これにはさすがの狼男もギョッとした表情を浮かべる。
「えっ……それは俺が求めてない優しさだなぁ」
「君の為を思って言っているんだ。今までのような無茶な遊びを続けていては、いずれ痛い目を見ることになる」
「大丈夫だよ。もう十分痛い目見てるし」
「なにその開き直り……」
思わず苦笑が漏れる。この男に吸血鬼の言葉など届くはずない。
しかし吸血鬼はなおも食い下がる。
「君だって子供じゃないんだ。いつまでも遊んでばかりいないで、そろそろ所帯を持つことを考えても良いんじゃないか」
「しょしょしょ、所帯!? 俺が!? なに言ってんの吸血鬼君、頭おかしくなった?」
「いや。今、僕の頭は極めてクリーンだ。僕らアンデッドと違って、君は父親になる事だってできるだろう。そろそろ一つの場所に腰を落ち着けても良いんじゃないか」
狼男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、助けを求めるようにこちらを見る。
「俺、この吸血鬼君嫌だ!」
「割と正論だと思うけどね」
優しさと甘やかしは似て非なるものである。
しかし狼男はこの吸血鬼を気に入らなかったらしい。
「元に戻してもらえるよう、ミストレスに話してくる!」
「えっ、なんで? この吸血鬼は狼男を甚振ったりしないのに。ダンジョンに変なもの持ち込んでも、腹を掻っ捌いて石を詰めるどころかお茶の一つでも出して歓迎するかもよ。うちに茶葉があるかは分かんないけど」
「そんなのいらないよ。お茶なら女の子が溺れるくらい出してくれるからね。……意外かもしれないけど、俺友達少ないんだよ」
「全然意外じゃないけど」
「とにかく、こんなつまんない事で貴重な友達を失いたくないんだ。止めたって無駄だからね!」
元の吸血鬼は多分狼男のことを友達だとは思っていないし、今の方がよほど友好的だと思うが。説教臭いのは嫌いなのだろうか。
狼男は止める暇もなくダンジョンを走り去ってしまった。
何をするつもりなのかは知らないが、願わくば吸血鬼にはこのままでいて欲しいところだ。狼男のようなクズにとっては鬱陶しいのかもしれないが、やましいことがなければ今の吸血鬼は最高のダンジョンボスである。
この吸血鬼なら「仕事」もしやすい。
いつもなら面倒くさがって手を付けたがらないことも、きっと今なら嫌な顔一つせずやってくれる。この状態のうちに色々できることをやっておきたい。
……なんて考えていたのも束の間。
俺は自らの大きな勘違いに気付かされることとなった。
「ねぇ、吸血鬼。新しい作戦を考えたんだけど」
「……レイス、そのことなんだが」
吸血鬼は神妙な顔を俺に向け、そして予想だにしないセリフを口にした。
「僕はもう、人を殺したくないんだ」
「へぇ、そうなんだぁ……えっ、ハァッ!? ちょっ、どういうつもり?」
何かの冗談かと思ったが、吸血鬼の目はどこまでもまっすぐだ。
「君も僕も、今はこんな姿だが元々は人間だろう。今まで散々好き勝手やってきて何をいまさらと思うかもしれないが……もう同胞を殺してまで生き永らえたいと思わないんだ」
そうか。日常になりすぎててすっかり忘れてた。
よくよく考えれば、俺たちは狼男なんかよりよほど悪人じゃないか。人間の常識でいえば殺人は大罪だ。
清すぎる川に魚が住めないように、我々アンデッドも清廉すぎる人格はむしろ毒になるらしい。
「取り敢えずダンジョンを出て、旅をしようと思う。ただ消滅を待つのもつまらないし、新しい生き方を見つけられるかもしれない。君たちには迷惑をかけることになるが――」
若者のようなキラキラした目でこれからの事を語る吸血鬼。
右の耳から左の耳へそれを流しながら、俺はゾンビちゃんに声をかける。
「……ゾンビちゃん、吸血鬼を拘束して」
「ハーイ」
待ってましたとばかりに吸血鬼に鎖をかけるゾンビちゃん。
「な、なにするんだ! やめなさい!」
そう声を上げるものの、今の吸血鬼はどこまでも紳士だ。ゾンビちゃんに手を上げてまで抵抗しようとはせず、あっというまに椅子に縛り付けられていく。
応急処置はできたが……あとはもう、狼男に期待するしかない。
それからしばらくして、狼男はダンジョンに戻ってきた。
その手に例の黒いドロドロを持って。
「これかけたら元に戻るって!」
目を輝かせながら言う狼男。
しかし彼の持っているドロドロの量は、ミストレスが持っていったものとはサイズ感が違っている。
「……なんか多くない?」
吸血鬼から奪ったドロドロは牛乳瓶ほどの大きさのボトルに収まる量だったように記憶しているが、彼が持っているのはまるで巨大な樽だ。
「どれが吸血鬼君のドロドロかわかんなくて、とりあえず片っ端から持ってきちゃった!」
「ええー? 大丈夫なのそれ、どうせろくでもない奴らのドロドロなんでしょ? 殺人鬼やらなんやらの……」
「大丈夫大丈夫、殺人鬼も吸血鬼も変わんないよ。で、吸血鬼君は?」
狼男に尋ねられ、俺は彼を吸血鬼の元へ案内する。
鎖で椅子に縛り付けられた吸血鬼は、ゾンビちゃんに拷問を受けている最中であった。
「今マデ何人殺シタか覚エテるのかー? ンー?」
どこから引っ張り出してきたのか、軍帽を被り、ブカブカのマントを引きずったゾンビちゃんが吸血鬼の前髪を引っ掴んでゆさゆさと揺する。
しかし吸血鬼の目は全く光を失っていない。
「問題なのは数じゃない。懺悔の気持ちだ!」
「ソンナ事言ッテ、血が欲シイんだろー? 飲ンジャエよぉ、飲ンジャエよぉ」
「やめろォッ!」
血液入りボトルを吸血鬼の頬に押し付けるゾンビちゃん。
彼らを遠巻きに眺めながら、狼男は困惑気味に頬を引きつらせる。
「えっ、なんなのあの小芝居。どういう状況?」
「吸血鬼を闇落ちさせようと俺たちも頑張ってたんだ。効果はイマイチだけど」
「なんか、急に協力的だね?」
「色々あったんだよ。それよりほら、早くドロドロを!」
「ああ、うん」
狼男は「ふう」と息を吐き、彼らしからぬ真剣な表情で吸血鬼の前へ歩み寄る。
彼の抱えた、思わず顔をそむけたくなるようなおぞましいドロドロを見て、吸血鬼は静かに口を開いた。
「落ち着いてくれ狼男。僕は今の自分が気に入っているんだ。そんなことをしたって、何の得にも――」
「うるせー! 御託はもう良い、元の吸血鬼君を返せ!」
珍しく声を荒げ、狼男は容赦なく黒いドロドロを吸血鬼に浴びせかける。
「ああああああああッ!?」
……このドロドロは一体どういう成分から成っているのだろう。
硫酸でもかけたみたいに、吸血鬼から湯気が上がる。熱したゼリーのように鎖が溶けて崩れ落ちる。
「やったか……?」
「やったか? じゃないよ。大丈夫なのこれ」
「……大丈夫なんてもんじゃない。最低の気分だ」
残った鎖を引き千切り、吸血鬼が椅子から立ち上がった。
ヘドロの海から這い上がってきたみたいに、体中ドロドロ塗れ。
先程までの爽やかさはどこへ行ってしまったのか。目は虚ろ、不機嫌を体現したような表情を浮かべている。
「ドロドロだ。服も、頭の中も」
「ヤッター! 元の吸血鬼君だ!」
両手を挙げ、やってやったぞとばかりに歓声を上げる狼男。
だが吸血鬼は舞い上がる狼男を叩きつけるように彼の顔を鷲掴みにし、地獄から響くような低い声で言った。
「この落とし前はつけてもらうぞ」
「……ふぇ?」
*****
ソファにどっかり座り、スケルトンがグラスに注いだ血を傾ける吸血鬼。
「チッ……こんな血しかないのか」
吐き捨てるように言うと、吸血鬼は血液で満ちたグラスを地面に転がったゾンビちゃんに叩き付けた。
鎖で手足を拘束されたゾンビちゃんは、顔に被った血を涼しい顔で舐めとる。
「で、狼男」
吸血鬼は足元に視線を移す。
ゾンビちゃんと同じく、手足を縛られた狼男が地面に転がっている。
いつものようにヘラヘラ笑っているものの、その表情はどこか固い。
「は、はーい?」
「気分も体調も最悪だ。腹も胸もむかむかして、薬中みたいに落ち着かない。おまけに自慢のシャツが真っ黒だ。どうしてくれる」
「えーと……洗濯します?」
「悪くない案だな、だがもっと手軽な手段がある。お前の内臓を売って新しいのを買うってのはどうだ? だが脳だけはお前のものだ。ソテーして食わせてやろう」
「ひえっ……お、俺の内臓にそんな価値はないよ……」
「なら剥製にするか。狼の剥製が売れるんだ、狼男の剥製はいくらで売れるんだろうな? うまく皮をなめせるかだけが心配だが」
「アハハ……吸血鬼君ってば冗談きついなぁ」
「だがお前には感謝してもいる。さっきまで小難しくてつまらない考えで頭がいっぱいだったが、今はいたって単純で愉快なアイデアで溢れている」
「そ、それは良かった」
「そういえばお前、合コンがどうとか言っていたな。ちょうどいい。ダンジョンに連れてこい」
吸血鬼の言葉に、狼男の顔が輝く。
「えっ、マジ? 良いの? 吸血鬼君がそう言ってくれるなんて嬉しいなぁ。どんな子が良い?」
「そうだな、若くて健康なのは最低条件だ。そしてなにより清潔なヤツにしてくれ。女の新鮮な血を飲めば、きっと気分も良くなる」
「えっ、うーん、餌の調達はちょっと……」
狼男はそう言って苦笑する。
狼男がミストレスから聞いたところによると、しばらく放っておけば吸収してしまった他人のドロドロは勝手に抜けていくらしい。
しかし一体いつまでこのテンションに付き合わなければならないのか。今から憂鬱だ。
「ダンジョンを出ていかれるのは困るけど、さっきの吸血鬼の方が良かったなぁ」
しかし狼男はこんな状況にも拘わらず、俺の言葉に首を傾げる。
「そう? 俺はさっきの吸血鬼君よりはこっちの方がマシだなぁ」
「マジか……」




