145、意識高い系サキュバス
お客様は神様だ、なんて陳腐な言葉がある。
生前はあまり縁のない言葉だった。なにせ冒険者というのは迷宮を歩き回ったり魔物をぶっ飛ばしたりするのが仕事。客商売とは程遠い職業なのだ。そんな俺がまさか魔物を客として働くことになるとは。人生何が起こるか分からないものである。
先ほどの言葉を信じるとすると、酒瓶の山に埋もれている彼女もまた神様ということになるのだろうか。
「……なんで私がこんな……あのバカ男……」
神様、もとい温泉を訪れたお客様が机に突っ伏して木目相手に延々と管を巻いている。
机の上の酒瓶の山は崩れ、床にも空き瓶が転がり、割れた瓶の欠片が散乱しているような状況だが、散らかしてしまって申し訳ないなんて気持ちは微塵も持ち合わせていないようだ。時々声にならない叫び声のようなものを上げながら、黒いハイヒールでガラスの欠片を踏みにじっている。まるで子供が地団駄を踏んでいるかのようだ。
『お客さん、もうここ閉めますから』
『客室に帰ってください』
スケルトンがそんな言葉の載った紙を掲げるが、突っ伏している女の目には机の木目しか映っていない。かといってスケルトンたちが女の体を揺すると、触るなだのなんだのとヒステリックに喚きながら暴れ出すため、全くコミュニケーションが取れていない状況であるらしい。
声を出すことができないスケルトンと酔っ払いの相性はすこぶる悪い。スケルトンたちが必死になって俺たちに助けを求めたのもうなずける。
「で、僕らは一体どうしたら良いんだ?」
呆れたような表情を浮かべた吸血鬼がため息混じりにそう呟く。一方、ゾンビちゃんは珍獣でも見るような目で机に突っ伏す女を観察している。
スケルトンたちが『温泉の方で客とトラブルがあった』なんて言うものだから、巨大なオーガか何かが大暴れしているのかと思って戦闘要員の二人を連れてきたのだ。今のところ戦闘の危険はなさそうだが、もしかしたらオーガが暴れていてくれた方が手っ取り早く事が済んで良かったかもしれない。魔物と人間とじゃ常識が違う部分も多々あるだろうが、さすがにただ酔いつぶれているだけの客を武力で排除するわけにはいかないだろう。
全く、とんだ神様が訪れたものだ。邪神もいいところである。客商売も大変だ。
「そうだなぁ、こんなとこにいられると掃除もできないし。吸血鬼、抱えて運んであげたら?」
「冗談じゃない。抱えている最中に吐かれでもしたら大惨事だ」
「じゃあレインコートでも持ってこようか」
「吐瀉物程度ならレインコートでも防げるだろうが、火でも吐いたらどうする。得体のしれない魔物を抱えられるほど僕は命知らずじゃない。それとも、うちに防火機能付きレインコートがあったか?」
「吸血鬼、不死身の割りに案外慎重だよね」
「君、死ななければ何でも良いと思っているのか? 驚いたな、百年以上アンデッドをしている僕よりよほど人間離れした感性を持っている」
吸血鬼の嫌味たっぷりな言葉に俺は思わず苦笑いを浮かべる。
確かに吸血鬼の言う通り、得体のしれない魔物を相手にするのは危険極まりない行為だ。逆に言えば、相手の正体を見破ることができれば対処法も分かるというもの。俺は机に突っ伏した魔物の周りをゆっくりと一周してみる。
顔が見えないため牙の有無や眼の色の確認はできないが、少なくとも角や尻尾は見当たらないし、皮膚の色も人間そのものだ。人形の魔物なのか、それとも魔物が人に化けているのか。とにかく、見た目から彼女の正体を見破ることは難しそうだ。
「そうだ、宿帳!」
俺はスケルトンに素早く指示を出し、受付から宿帳を持ってきてもらう。人間世界の宿屋の宿帳にある「職業」や「住所」などの項目がない代わりに、ここの宿帳には「種族」を記入する欄があったはず。
俺はスケルトンと共に宿帳の文字を目で追っていく。とても解読できない乱雑な文字やスケルトンが代筆したと思われる文字が並ぶ中、異様な輝きを放つその美しい文字を俺は無意識のうちに口に出してしまっていた。
「……サキュバス?」
次の瞬間、机に突っ伏しているばかりだった女がまるでお化け屋敷に佇むバネ仕掛けの人形のように勢い良く起き上がった。そして彼女は耳を塞ぎたくなるような金切り声で言う。
「そうよ私よ! 私がサキュバスのくせに男に捨てられた女よ!」
「いや、誰もそんな事言ってない……」
素早く訂正するも、サキュバスはなお微妙に焦点の合っていない目でこちらを睨みつける。
サキュバスというだけあって、確かに人間離れした怪しい美しさを持った女だ。化粧が崩れ、髪が乱れ、酒瓶にまみれて管を巻いてさえいなければ、その美しさに圧倒されて口を開くことができなかったかもしれない。
「お休みのところ悪いが、もう営業時間は過ぎているんだ」
吸血鬼が高圧的にそう告げると、サキュバスも負けじと声を張り上げる。
「だったら何よ。邪魔なら外に投げ捨てればいいじゃない! 私を! ゴミみたいに!」
「お客さん相手にそんな事しませんよ。気分悪いならソファ貸すんで、とりあえずそこから――」
「客だからなの!? 私が客じゃなかったらやっぱり捨てるのね!」
「ああ、面倒くさい……面倒くさいタイプの酔っ払いだ」
顔を上げさせることに成功したのは進歩だが、残念ながらそれほど状況は変わっていない。いや、もしかしたら悪くなってさえいるかもしれない。
思わず頭を抱えると、地面に座ってサキュバスの観察を続けていたゾンビちゃんがすっくと立ちあがって舌なめずりをした。
「私ガ連行シヨウか?」
「……食べようとしてる?」
「食ベナイよ」
ゾンビちゃんは不服そうな表情を浮かべ、口を尖らせながらそう答える。
確かにゾンビちゃんに任せればサキュバスを容易に部屋から出すことができるだろう。だがサキュバスの体はそれほど頑丈ではない。ゾンビちゃんが好奇心に負けて腕を齧ったらサキュバスには抵抗するすべがないし、たとえそんな気が起きなかったとしても、お世辞にも力の加減が上手とは言えないゾンビちゃんの事である。悪気なく彼女を握り潰してしまうようなことだって十分あり得る。
どうにもならなければ実力行使に出ることも考えなければならないが、その仕事は吸血鬼に任せた方が良さそうだ。せっかくの申し出ではあるが、俺はゾンビちゃんの提案を断ることにした。
「とりあえず強引なことはしない方が良いよ。相手はアンデッドじゃないし」
「そうか、バラバラにして運ぶこともできないんだな。ますます面倒だ」
「その発想が出てくるのはアンデッドか猟奇殺人鬼くらいだね」
落胆の表情を浮かべる二人を横目に、俺はなんとか自分の脚でサキュバスが出て行ってくれるよう交渉に挑む。
「このままじゃ翌日の営業にも響くんです。お願いですから、とにかく席を空けてください」
「……そうね、なら私を慰めて頂戴。私ね、今凄く傷ついているの」
「慰め……? ええと、そう言われても」
「ああ、そうよね。事情が分からないと慰めようがないわよね」
もしかすると、サキュバスは自分の話を聞いてくれる人を探していたのではあるまいか。この時を待っていたとばかりに、彼女は言い淀むことなく滑らかに話しはじめる。
「私はね、そのへんの『男ならなんでも良い』っていう馬鹿サキュバスとは違うわけ。より高いレベルの男を落とすために日夜女を磨いているのよ。それこそ、普通のサキュバスじゃ近付くこともできない上流階級の男とかね」
「はあ」
「長くなりそうだな」
吸血鬼がうんざりしたように言うのもゾンビちゃんが大きなあくびをし出したのも気にせず、サキュバスはさらに続ける。
「女を磨くとは言っても、私のは普通のサキュバスがするような外見を磨く行為とは違うのよ。サキュバスなんだから姿形が美しいのは当たり前でしょう? ワンランク上の男を狙うなら美しさに加えて知性や品性、教養を兼ね備えなきゃ」
「な、なるほど」
確かに言われてみれば、彼女は俺の思い描くサキュバスのイメージとはやや異なる。サキュバスといえば服なのか布なのか分からないものを身に纏い、目に留まった男に絡みつき、魅了し、一滴残らず精を吸い尽くす奔放な悪魔、多くの人がそんな魔物を頭に思い浮かべるだろう。しかし彼女はそんなステレオタイプなサキュバスとは少し違うようだ。彼女が纏っているのは上品な黒いワンピースとエレガントなネックレス、どことなく知的な雰囲気と、それから気軽に話しかけるのを躊躇わせるような高いプライドである。
「貴族の侍女に化けて基本的な作法を学びながら、お料理、竪琴、織物、羽ペン字講座……それはもう、色んな習い事をやったわ。その上で毎日新聞を読み漁って、1ミリも興味ないどっかの国の王族の名前や世界情勢なんかを頭に叩き込んだ。つまらない女だと思われるのは何よりも苦痛なの。男性の政治談義に付き合えるくらいの知識は持っていなくちゃ。費用も労力も惜しまなかったわ。私は普通のサキュバスで終わりたくないんだもの」
酒瓶の山の下で何を言っているんだと思わないでもないが、宿帳に書かれた美しい文字からは確かに彼女の並大抵でない努力が伺える。
しかし努力は報われなかったのだろう。サキュバスは視線を落とし、ため息と共に口を開く。
「でも勉強ばかりじゃ息がつまるし、大事なのは実戦でしょ? だから私、手近な男で実戦演習することにしたの。まぁ私が求めるような上流階級の男とは程遠かったけど、顔が良くてそこそこ優しくて、そして物凄くモテる男だった。だからサキュバスの力を使わず、多くの女たちを押しのけて彼を仕留めることができれば……まぁそれなりに自信がつくかしらって思ったわけ」
「読めたぞ、振られたんだなその男に。よくある話だ」
「オチを言うな! 最後まで話を聞きなさい」
呆れたような表情で投げやりに話す吸血鬼を一喝し、サキュバスは腕と足を組みながら部屋に響き渡るような舌打ちをする。
「……まぁ良いわ。あのね、私は振られたわけじゃない。でもヤツはそれ以上に屈辱的なことをしたの。あの男、私を選ぶフリをしてその実私を選んではいなかった」
「ん? どういう事?」
「鈍いわね。浮気してたって事よ!」
堪えきれないほどの強い怒りを思い出したのか、サキュバスの赤い唇が小刻みに震えている。
「でもまぁそれは別に良かったわ、最後に私を選んでくれればね。だってそうでしょう? 元々自分の力を測るための演習なんだから、むしろじっくり他の女と比べてもらった方が良いくらいよ。でもあの野郎は結局、誰も選ばなかった。この私が、他の、人間の女と大差ないって、アイツは暗にそう言ったのよ……!」
サキュバスは怒りの滲み出るような震える声を上げながら、空になった酒瓶を握り潰す。その焦点の合っていない眼は親の敵でも見るような厳しい視線を虚空に向けて放っていた。
「なんとかして他の女に勝つため、私は必死になったわ。ありとあらゆる手を尽くした。けどもがけばもがくほどあの人は離れて行って……最後は何も言わず、私の元を去った。屈辱よ、屈辱だわ。あんな顔だけの男に玩ばれて……私ってそんなに魅力ないのかしら……」
話が終わるとサキュバスは涙を堪えるように唇を噛み、そして悲痛な表情を隠すようにうつむいてしまった。その様子にダンジョンの空気は水を含んだように重くなり、俺達の体に纏わりついてくる。とても口を開けるような状況ではない。
しかしサキュバスはまたしてもバネじかけの人形のように勢い良く顔を上げ、俺達に容赦なく言い放つ。
「ほら言ったわよ! さぁ慰めなさい。私を元気付けなさい」
これはいよいよ困った事になった。よくある話ではあるが、だからこそ分かりやすくその辛さが伝わってくる。そしてこういう時に下手なことを言えば、行き場を失った矛先がこちら向きかねないということも知っている。
どんな言葉を口にしていいかもわからず、ただただ気まずい空気が流れていく。ほかの者たちも重苦しい空気に飲まれて口を開けずにいるようだ。
しかしどれくらい時間がたっただろう。この重苦しい空気を振り払い、果敢にもサキュバスに声をかける者が現れた。ゾンビちゃんだ。
「元気ダシテ」
ゾンビちゃんは珍しく優しい言葉を口にしながら、サキュバスの肩をポンと叩く。
同性のゾンビちゃんにはサキュバスの辛さが俺達よりも良く分かったのだろうか。彼女は「憐れみ」を薄い膜のようにして顔に張り付け、人工甘味料のような甘さを含んだ声で言う。
「浮気サレたカラって、ソンナニ落ち込まナイで。浮気サレた時はニク食べるのがイチバンだよ。お腹イッパイにナレバ浮気サレタことも忘レラレルよ」
「浮気浮気うるせーッ! あんた馬鹿にしてんでしょ!?」
案の定逆上したサキュバスに、ゾンビちゃんは白々しく首を振る。
「シテナイシテナイ。でももし浮気サレたのが我慢デキナイくらいツライなら、私がラクにしてアゲるよ」
「ストップストップ!」
「お前、やっぱり食べようとしてるだろ」
俺たちの言葉に、ゾンビちゃんはすっとぼけた表情であらぬ方向に視線を泳がせる。
「ううっ、私はゾンビにまで馬鹿にされるようになっちゃったって言うの?」
ゾンビちゃんは血の固まりきっていないサキュバスの生傷に粗塩を塗り込んでしまったようだ。サキュバスはボディブローでも食らったみたいに呻き声をあげ、額を机の上に打ち付ける。
さて、状況は先ほどよりも悪い。打ちひしがれた彼女になんて声をかければ――なんてことを考えもせず、俺は吸血鬼に視線を送る。
「……頼んだ、吸血鬼」
「な、なんで僕が。君が声をかけてやったら良いじゃないか」
「そうしたいのは山々だけど俺には圧倒的に経験値が足りないんだ。みんなと違って何十年、何百年と生きてるわけじゃないからさ」
「都合のいい時ばかり年下面するな君は……」
吸血鬼は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべながらも、机に突っ伏したままの女に視線を落とす。
「あー、まぁあれだ。世の中には想像もつかない馬鹿がいる。そんなのと同じ土俵に立ったのがそもそも間違いだったのだ」
「馬鹿……そうね。アイツはとんでもない馬鹿だったわ。なんで私が……あんな馬鹿に……」
女は拗ねたような、くぐもった声でそう呟く。それも顔を上げず、机に突っ伏したままだ。
「だ、だからだな、君の敗因は馬鹿に合わせて自分の力をセーブした事だ。サキュバスとしての特別な能力があるならば惜しみなく使うべきだったんだよ。本気でやっていればそんな男を落とすなんて造作もないことだった、そうだろ?」
「……確かに」
「な? だから君が悩む必要はないんだ。さぁ今すぐその酒瓶の山から起き上がれ。その馬鹿男に復讐するんだ」
「流石はイケメン、口が達者ね」
独り言のようにそう呟いた直後、サキュバスはまたもやバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。それも、地獄の最深部に住まう魔王のような恐ろしい表情を浮かべて。
「でも私はもう騙されない! 顔が良いだけの男には騙されないんだから!」
その噛みつかんばかりの勢いに、さすがの吸血鬼も一歩、二歩とサキュバスと距離を取る。
「言われた通り慰めたのに。一体どうしろって言うんだ」
「酔っ払いに理論的な返事を期待するのが間違いだったね……困ったな」
こうなってくると、いよいよ実力行使に出るほかないのかもしれない。
しかしこんなにも消耗し、打ちひしがれ、そして支離滅裂な言動を繰り返す彼女を外に放り出して良いものか。このままではいったい何をしでかすか分からない。もっと他に策はないものか、色々と考えを巡らせてみる。
しかし次の瞬間、突如として部屋に転がり込んできたトラブルメーカーによって俺の頭をめぐっていたあんなアイデアやこんなアイデアはすべてどこかへ吹っ飛んで行ってしまった。
「狼男!?」
「あ、お邪魔してるよ」
狼男は俺たちにそう挨拶をしながら乱暴に扉を閉める。銀色の髪は乱れ、いつものヘラヘラ笑いはなく、その琥珀色の目には焦燥と恐怖の色が浮かんでいた。
そして狼男は吸血鬼の姿を捉えるなり、半ば飛び付くようにして彼に縋りつく。
「吸血鬼君! 急にごめん、あのさ――」
「良いとこに来たな狼男!」
「へっ?」
吸血鬼の思わぬ歓迎に、狼男は面食らったように目をパチクリさせる。
しかし吸血鬼の歓迎ぶりに驚いたのはなにも狼男だけではない。
「ま、まさか狼男に押し付ける気?」
声をひそめて尋ねると、吸血鬼はさも当然であるかのように平然と口を開く。
「押し付けるとは失礼な。男に付けられた傷は新しい男に癒してもらうのが一番だ。そういう意味じゃヤツはこれ以上ないくらい最適な人材だぞ」
「そりゃ最初は良いかもしれないけど、最終的には心の傷が増えることになるんじゃ」
「最終的なアレコレは僕らの管轄ではない。あとは個人の問題だ」
「酷い事言うなぁ……」
「なにが酷いもんか。見ろ、あの熱視線」
吸血鬼は声を潜め、視線でサキュバスを指し示す。
なるほど。確かにサキュバスは狼男をじっと見ている。しかしその視線は、熱視線というには少々激し過ぎる。それに纏わりついているのは明らかな殺意だ。
「や、やっぱり今はそういう気分じゃないんじゃ」
さっきだって理不尽に吸血鬼に噛み付いたばかりだ。男女というのはそんな磁石みたいに簡単にくっつくようなものでもあるまい。
しかし俺たちが行動を起こすより早く、狼男の目がサキュバスを捉えてしまったようだ。ヤツはなんの躊躇も相談もなく、彼女の元へ歩いていく。
「えっ、珍しいな。女の子いるじゃん。お客さん? 初めまして、結構飲んでるね。俺もご一緒して良――」
そこまで言って、狼男は突然言葉を飲み込み足を止めた。ヘラヘラした笑みは凍り付き、見開いた眼でサキュバスを見つめている。
「あら驚いた。私のこと、覚えていたの?」
サキュバスは髪を掻き上げながら、仮面が張り付いたような笑みを狼男に向ける。しかしその目は凍り付くように冷たく、視線は狼男を射殺す程に鋭い。
「や、やぁ! 久しぶりだね……」
面白いくらいしどろもどろになりながら、狼男は妙に上ずった声でそう挨拶する。
この二人が知り合いなのは間違いないようだが、まさか。
「あのう……例の『馬鹿男』って、もしかして」
「世間って狭いのね」
サキュバスは冷ややかな笑みを浮かべて俺の質問に答える。
元彼に弱みを見せたくないという女の意地がなせる業だろうか。失恋に打ちひしがれて酔いつぶれ、焦点が定まらない目でこちらを睨みつけながら理不尽に管を巻くサキュバスなど初めから存在していなかったみたいに、今の彼女は毅然とした態度で狼男に向き合っている。
髪や服が乱れ、酒瓶が転がってさえいなければ誰も彼女が浴びるように酒を飲んでいたとは思うまい。
気まずい空気が流れる中、狼男はハッとしたように声を上げる。
「そ、そうだ。俺こんなことしてる場合じゃ」
「こんなこと?」
「あっ、いや……」
激しくはないが、細かな棘の無数についたサキュバスの言葉に狼男は右へ左へ視線を泳がせる。
サキュバスはやや前のめりになって頬杖をつき、冷たい笑みを浮かべながら首を傾げる。
「せっかくの再会だもの、この際だから聞かせてよ。私の何がダメだったの?」
「ダメだなんてとんでもない! 本当に、俺にはもったいなさすぎる女の子だよ。というか、俺本当に時間が」
そう言いながら後退りをする狼男の腕を掴み、サキュバスは彼を逃さんと凄い勢いで引っ張り込む。
「ちょ、ちょっと」
「やめてよ。もう恋人じゃないんだから甘い言葉なんていらないの。どこがだめだったか言って。言いなさい!」
「わ、分かった分かった。分かったから。ええと、そうだな、強いて言うなら……サキュバスっていうからどんな娘かと思ったけど案外フツーだったとこかな」
狼男はしどろもどろになりながら、やっとの思いでそう答える。しかし狼男の放ったその言葉は、ガチガチに武装されたサキュバスの数少ない柔らかい部位を的確に射抜いたようだった。
「フツー……? 私が? 普通?」
サキュバスの顔がみるみる蒼くなっていく。まるで全身の血と魂を吐き出してしまったかのようだ。サキュバスに精を吸い尽くされた男達の方がまだ生き生きした表情をしているのではなかろうか。
「ご、ごめん。普通っていうのは別に悪い意味ではなくて――」
「アンディカゴ、オールディガス!」
狼男の謝罪と言い訳を掻き消したのは、女性のもののようだが、太い、そしてどこか攻撃的な声だった。その聞き覚えのない言葉を俺はなんらかの呪文であると考えたが、どうやらそれは違ったらしい。
次の瞬間部屋に押し入ってきたのは、水着と見紛うような露出度の高い鎧に身を包んだ三人の女戦士たち、そして彼女たちの後ろをくっつくようにして歩く眼鏡をかけた小柄な女性だった。
「うわあああっ、ほら見つかった!」
狼男は今にも泣き出しそうな表情で叫び、ここから逃げ出そうと地面を蹴る。しかし女戦士たちに呆気なく腕を掴まれ、そのままねじり上げられてしまった。
「なるほど、あれから逃げてたからあんなに慌ててたんだ」
「……じゃあアイツ、女から逃げながら別の女に声をかけてたのか。あいつの脳味噌は一体どこについているんだ?」
俺たちは心底呆れながら狼男に視線を向ける。しかし俺たちの非難の声は狼男には届いていないようだ。
彼は今、三人の女戦士たちに囲まれ、威圧感たっぷりの詰問を受けているところである。どうやら彼女たちは俺たちと違う言語を操る人種であるらしく、彼女たちが狼男をどんな風に罵っているのかを理解することはできなかった。そしてそれは狼男も同じであるらしい。
「あの、彼女たちはなんて? みんなで一緒に温泉に入りましょう……とか言ってたりしない?」
狼男が恐る恐る問いかけると、眼鏡をかけた女性が俺たちのよく知っている言語で淡々と答える。
「『一体どういうつもりだ』『よくも我らを弄んだな』『逃げられると思うたか。地獄の果まで追いかけて貴様を八つ裂きにする』とおっしゃっています」
「あはは、思ったより物騒だな……」
「アルドゥルガミンチ。アーマアーマ!」
女戦士が狼男を羽交い締めにしながらそう号令をかけると、残りの二人がそれぞれ脚を持ち、軽々と狼男を持ち上げた。
「えっ、待って待ってなに? ちょ、なにすんの? なんて言ってる?」
「『裏切り者に死を』とおっしゃっています」
次の瞬間、三人の女戦士は綱引きでもするみたいに狼男の体をそれぞれ引っ張る。
そのあまりの勢いに、狼男は体を軋ませながら悲鳴を上げる。
「痛い痛い痛い痛い! ごめんなさいごめんなさい俺が悪かったよ。ちょっ、マジ無理! 助けて!」
狼男の命乞いを翻訳しているのだろう。小柄な女性は女戦士の言語で彼女たちに語りかける。
それを遮るように、狼男はまた悲鳴に似た声を上げた。
「違う違う、あなたに言ってるんです! 通訳さん助けて」
狼男はそう言いながら、縋るように眼鏡の女性に右手を伸ばす。その手と狼男の顔とを見比べて、女性はきょとんとした表情を浮かべた。
「えっ、私ですか? しかし私はただのしがない通訳ですし」
そう言いながらも、女性は助けを求める狼男の手を取る。絶体絶命四面楚歌のこの状況でようやく現れた「味方」に、狼男の苦痛に歪んだ顔が一瞬だけ輝く。
しかしそれも長くは続かなかった。
「……それに、正直あの排他的なアマゾネスたちとここまで意見が一致したのは初めてです」
通訳の女性は素早く女戦士たちと肩を並べ、同じように狼男の右腕を引っ張る。
そして彼女はその小柄な体からは想像もできないほど野太く、鬼気迫る鬨の声を上げた。
「裏切り者に死を! 殺せ八つ裂きだ」
狼男の絶叫と女戦士たちの勇ましい雄叫びがダンジョンに反響する。
突然の公開処刑に、俺達はダンジョンの奥に入り込んだ人間を排除する事も忘れ、ただただそれを見守ることしかできない。
「わぁ、手足ナガイ」
「人の体ってあんなに伸びるんだね」
「アイツ、今度は一体なにをしたんだろうな……」
俺たちはそれぞれ驚きを持って狼男を眺めていたが、サキュバスの驚きようは俺たちのそれとは比較にならないようだった。
彼女は目を見開き、魂でも抜かれてしまったかのように呆然と狼男が八つ裂きにされるのを見つめている。
「す、凄い……あれが普通じゃないって事なのね」
サキュバスはどこか恍惚とした表情を浮かべ、まるで夢でも見ているみたいにそう呟く。俺達の目の前に広がっている光景は確かに普通じゃないが、それを見つめるサキュバスの様子だってどう見ても普通ではない。
「あの……大丈夫?」
「……色々と努力はしたけど、結局私は普通の女だったんだわ。習い事だって、新聞を読むことだって、みんながやってる『普通』の範疇。あんな刺激的な女性たちに囲まれてたんじゃ、私が退屈な普通の女に見えるのも仕方のないことね」
サキュバスはそう言って、晴れやかな笑顔を俺たちに向ける。そして彼女は、どこか吹っ切れたように明るい声を上げた。
「なんか、覚めたわ。酔いも目も!」
彼女の様子と言葉に、俺たちは思わず顔を見合わせる。
酔いが冷めたというのは分からないでもないが、一体あれのどこを見て目が覚めたと言うのだろう。いろんなショックが重なって、むしろ視野が狭くなっているようにすら見える。
しかし彼女は詳細を語らず、俺たちも尋ねず、彼女は驚くほどあっさり席を立ち、ダンジョンを後にした。
その後、女戦士たちの一族――アマゾネス達に弟子入りした女がいると噂を聞いたが、まさかこの件とは関係あるまい。




