139、不死鳥の聖女
「ッ……!」
ダンジョン最下層、宝物庫フロア。その中心で、白いローブに身を包み、目深にフードを被った女冒険が地面に膝をついて肩で息をしている。彼女の置かれている状況を一言で表すとすれば、「絶体絶命」あたりが妥当であろう。
女一人でアンデッドダンジョンに乗り込んでくるだけあり、その力はかなりのものだった。俺が見たこともないような高位の光魔法を惜しげもなく使用してダンジョンをどんどんと進んでいったのである。
ところが彼女、魔法使いとしての力は一流だが、冒険者としては素人であったようだ。その素晴らしい力を、惜しげもなく使いすぎたのである。
ダンジョン探索の鉄則、それは「余計な戦闘を避ける事」。ダンジョンには魔物がわんさかいるのだ。いちいち戦っていてはキリがない。最短ルート、そして最小限の戦闘でスマートにダンジョンを攻略するのが最適なやり方である。
しかし彼女のやり方は、最適とは程遠かった。だから今、彼女は体に傷一つ付いていないにもかかわらず、宝を目前にしてひざを折ってしまったのであろう。スケルトン一体一体と律儀に戦っておきながら、むしろよくここまで持ったものである。
「魔法使いにしてはなかなか体力のある女だが、それももう終いか」
さっさととどめを刺せば良いものを、吸血鬼は冒険者を見下ろしながら勝ち誇ったように言う。
もう抵抗する気力もないのか、冒険者は身の丈ほどもある杖を抱きしめるようにしながら小刻みに体を震わせるばかりだ。疲労と恐怖から息が上がっているのか、激しく肩を上下させている。
そして彼女は足元に視線を落としたまま、その桃色の小さな唇から透き通った声を漏らす。
「……殺しなさい」
声から察するに、この白いローブを纏ったやり手の魔法使いは俺たちが思っていたよりも随分と若いようだ。これほどの力を持った若い魔法使いがいなくなるというのが冒険者たちにとってどれほどの損失か、想像もつかない。
しかしそんな事、我々には関係のない話である。
「ああ、安心しろ。すぐ楽にしてやる」
吸血鬼は薄笑いを浮かべて冒険者の細く白い首を鷲掴みにすると、片腕だけで軽々と彼女の体を持ち上げる。苦しそうに足をバタつかせる冒険者だったが、首元から軋むような音が聞こえてくると、足を真っすぐに伸ばし体を硬直させてほとんど動かなくなってしまった。やがて細い首が断末魔の悲鳴を上げると、彼女は口から血の泡を噴き、猟師に狩られたウサギのようにぐったりと体を脱力させ、そして首の潰れた死体として地面に転がる事となった。
一仕事終えた吸血鬼は手に付いた血をハンカチで拭いながら、ドヤ顔でこちらを見上げる。
「どうだ、この美しい仕事ぶり! シャツにも染み一つ付いていないぞ」
吸血鬼は上機嫌で言いながら、胸元をレースで飾った白いシャツを自慢げに見せつける。しかし俺の目に吸血鬼のシャツなど映ってはいなかった。
「あー……吸血鬼、仕事はまだ終わってないみたいだよ」
「ん?」
怪訝な表情で振り向いた吸血鬼が、飛び出しかけた悲鳴を噛み殺すようにして息を飲む。
首の骨を粉砕され、息絶えたはずの冒険者が体を起こしてこちらをジッと見つめていたのである。
「おっ……と……あ、浅かったか?」
「どうしたの、早く殺しなさい」
動揺する吸血鬼とは対照的に、冒険者は至って冷静だ。フードから覗く、透き通るような碧い瞳からはなにか強い意志のようなものを感じさせる。
とどめを刺したと信じ込み、余裕をかまして白いシャツを自慢していた吸血鬼から逃げる絶好のチャンスだったにも関わらず、彼女はそうしようとはしなかった。やはり高位の魔法使いともなれば、敵に背中を向けて無様に敗走するような真似はしないのだろう。
「分かった、次は確実に殺してやる」
吸血鬼は再び彼女の白い首に手をかけ、勢い良く持ち上げる。しかし今度は、首の骨を砕くだけでは済まさない。吸血鬼は片手で冒険者の首を握りつぶしつつ、もう片方の手でフードを取っ払う。豊かな金髪とともに露わになった彼女の正体は、想像以上に幼く、そして透き通るような美しさの少女だった。そして吸血鬼がそんな美しい少女に行ったのは、大の男でも卒倒してしまうような残虐なる所業である。
吸血鬼はその細い首を締め上げて骨を砕くと同時に、煌めくような金髪を鷲掴みにして雑草でも引っこ抜くみたいに彼女の頭を上へ上へ引っ張る。骨が砕け、皮が伸び、やがてブチブチと音を立てながら少女の首がもげた。
「うわぁ、えぐいなぁ……」
美しい少女に似合わぬあまりに惨い最期に、俺は思わず顔を顰める。
もっと綺麗に殺す方法もあったはずだが、恐らく吸血鬼も彼女が生きていたことに驚き、焦ってしまったのだろう。
「クソッ、シャツが血塗れだ」
首から流れ出る大量の血液が自慢の白いシャツを染めていくのを見下ろし、吸血鬼は忌々しそうに舌打ちをしながら二つに分かれた少女をそれぞれ逆方向に投げ捨てる。
「あーあー……焦って変な殺し方するから」
「うるさいな。少し口を閉じていろ」
そう言って吸血鬼は俺を睨む。
しかしそれから数秒もたたないうちに、俺達は口を閉じるどころか、二人揃って馬鹿みたいに口を開けることとなった。
首を千切り飛ばしたはずの女が、いつの間にか澄ました顔をしてこちらを見つめていたからである。
「……は?」
「い、いや、そんなはず……手応えはあったんだ」
「吸血鬼……服が」
俺はゆっくり、恐る恐る吸血鬼のシャツを指差す。吸血鬼も自らのシャツに視線を落とし、そして幽霊でも見たような――いや、幽霊を見たときなんかよりよほど酷い表情を浮かべて絶句した。
ついさっきまで吸血鬼の白いシャツを染めていたはずの血が綺麗さっぱり消えてしまっているのだ。
いや、シャツだけではない。冒険者の白い首は何事もなかったかのようにつながっているし、白いローブにも血のシミ一つ付いていない。先ほどの惨殺劇の痕跡が、ひとつ残らず消えてしまっているのだ。
そしてやはりと言うかなんと言うか、彼女はせっかく首がつながったにもかかわらず逃げようとせず、再び吸血鬼の前で凛とした声を上げる。
「さぁ、早く。殺しなさい」
「うるさいな、お前が死なないんだろうが! 一体なんなんだお前」
「も、もしかしてこの子もアンデッドなんじゃ?」
俺は少女を注意深く観察しながら、吸血鬼にそう耳打ちをする。
彼女の体にツギハギや腐敗した形跡は見られないし、牙や長い爪も確認できない。しかし彼女がただの人間でないことは明らかだ。
そして都合の良い事に、吸血鬼は彼女の正体を探る良い方法を持っている。
吸血鬼は冒険者に素早く近付き、その首を爪で掻き切る。頸動脈を切断されたことにより噴水のごとく首から血をまき散らす冒険者を尻目に、吸血鬼は手にべっとりと付いた血液を少量舌で掬い取った。
しかし次の瞬間、吸血鬼は嘔吐しそうな勢いで咳き込みながら口に入った血を吐き出し、悲鳴にも似た声を上げる。
「酷い! こんな酷い血は初めてだ!」
「やっぱりアンデッドだった?」
「いいや、小娘の腐った血の方が何倍もマシだよ。クソッ、まるで聖水を舐めたみたいだ。舌が焼ける」
吸血鬼は俺の質問に勢い良く首を振りながら、苦虫でも噛み潰したような表情を浮かべる。本当に酷い味だったのだろう、眼には薄っすらと涙まで浮かんでいる。
「お前、ただの魔法使いじゃないな」
吸血鬼は涙の膜に覆われた赤い目を冒険者に向け、彼女をキッと睨みつける。
血液だけで吸血鬼にダメージを与えるほどだ、相当の光魔法の使い手に違いない。
「魔法使いより高位となると……プリーストか、まさかビショップ?」
「いや、高位の神官だって所詮は人間だ。血が飲めないなんてことはないし、首をはねられて平気な顔していられるはずもない」
「でもビショップより高位の存在となると、もう神様くらいしか」
「いいえ、神だなんてとんでもありません。私はしがないただの聖女」
「……は?」
不意に口を開いた冒険者の一言に、俺達は言葉を失い、ただ目を丸くする事しかできない。
いきなり口を開いたかと思ったら、一体何を言い出すんだこの女。
「ど、どうする吸血鬼。頭おかしめの人だよ」
「いや……あながち嘘や妄想じゃないかもしれないぞ」
吸血鬼はいつになく真剣な表情でジッと「自称聖女」を見つめている。
……確かに聖女の血ならば吸血鬼の舌を焼くような神聖な力を持っている可能性も否定できない。神の加護だかなんだかで首を飛ばされても死なないという能力を持っている可能性も……ある……ということも考えられなくはない……のだろうか……。
「だ、だとしても、聖女がなんでこんな場所に」
「慈悲と慈愛に満ち満ちた聖女様は暗闇に潜むアンデッドにすら救いの手を差し伸べてくれるというのか?」
吸血鬼はにこやかな笑みを浮かべながら、嫌味ったらしい言葉を吐き捨てる。
対する聖女もにこやかな笑みを浮かべる。しかしその澄んだアイスブルーの瞳に湛えられているのは、紛れもない「軽蔑」である。
「そんなまさか、とんでもない。神の教えに背き、こんな日の当たらない場所で情けなく偽りの生にしがみついているような者に救いの手を差し伸べられるほど、私の腕は多くはないのです」
あれだけ酷い殺され方をしたにも関わらず、聖女からは全く「恐怖」だとか「焦燥」といった感情が伝わってこない。
吸血鬼からどんな攻撃を受けようと、きっと彼女は死なないのだろう。とはいえ、彼女だって傷を受ければ痛みを感じるはずだ。そういった意味でも、我々はまだまだ優勢に立っていると言って良い。なのになんだ、この余裕は。
「そのご立派な聖女様が、こんな場所へ一体何をしに来た。痛めつけられにでも来たか」
「ええ、その通りです」
吸血鬼の挑発的な言葉に、聖女はなんともあっさりと頷いてみせた。怪訝な表情を浮かべる俺達を嘲笑うかのように、聖女は続ける。
「私は神の加護を受けた不死鳥の聖女。全ての人々を苦しみから救済するため、全ての苦しみを体験すべく旅をしています。今回は志半ばで力尽きた哀れな冒険者の魂を救うべく、彼らの通った道をなぞっているのです」
「教会の人間がアンデッドダンジョンで苦行か。随分と舐めた真似してくれたな」
吸血鬼は牙を剥き出しにして、その隙間から威嚇するような低い声を漏らす。
アンデッド歴の浅い俺にはイマイチピンとこないが、吸血鬼が怒っているところを見るに、聖女が行っているのは我々にとってなかなかに侮辱的な行為らしい。
しかし聖女は口元を手で抑えながら、どこか嬉々とした声を上げる。
「ああ、なんて嫌な顔。薄汚い、血に濡れた罪人の憎悪に塗れたその表情! 可哀想に、一体何人の罪無き人間たちがその牙の餌食になったんでしょう。来なさい、いつも冒険者にやっているように、私を嬲り殺すのです」
聖女はそう言うと、「さぁ!」などと言いながら両腕を広げてみせる。
……やらされているのではない。彼女は本当に、心の底から嬲り殺されることを望んでいるのだ。
聖女らしい自己犠牲の精神と言えばそれまでだが……そんな大義名分の奥に何かもっと不気味な物が隠れているような気がして、なんだかとても恐ろしかった。
しかし吸血鬼はそんな事を気にしてはいないらしい。
「良いだろう、付き合ってやる。体が無事再生し続ける事を精々神に祈るんだな!」
吸血鬼がそう宣言をすると、フロアは一気に地獄と化した。無抵抗の少女を屠る吸血鬼の姿は、まるで鬼か悪魔である。彼が体を動かすたびに少女の体から血が噴き出し、骨が砕け、肉が抉れる。それが延々と続くのだ。彼女の体は壊しても壊しても一瞬で修復されるため、攻撃をやめるタイミングがない。
並の幽霊より多く凄惨な死体や殺し合いを見てきたという自負があるが、それでもこの光景を直視し続けるのは困難な事であった。
そして聖女の体が肉塊になるより早く、吸血鬼に限界が訪れた。吸血鬼の体力が底をついたのだ。
「よ、よーし。サービスはここまでだ」
膝に手をついてぜえぜえと肩で息をしながら、吸血鬼はこの殺戮ショーの終了を宣言する。
全力の攻撃というのはそう長く続かないものだ。なによりこんな行為になんの生産性もない。
「不死者同士の戦いほど不毛なものはないね」
「ふん、まるで他人事だな……しかし君の言う通りだ。もう十分すぎるほど殺したぞ、並の冒険者五十人分の致命傷ってとこだ。並の冒険者と違うところは、こんなに頑張っても一切血にありつけないところだな」
吸血鬼はそう言ってため息を吐く。全力の攻撃を浴びせた事で、怒りもだいぶ収まったのだろう。
会った経験はないが、彼女が仕える神様だってきっとこれ以上の事を求めたりなんてしないはずだ。若い女性がこれ以上ないほど、それこそ何度死んでも足りないほど痛めつけられたのだ。彼女が甚振られるのをもっともっと見たいなどと言うのは本物の鬼か悪魔か、もしくは特殊な性癖を持った者くらいである。
ところが、加害者とオーディエンスが満足しても当の本人の気が済んでいなかった。
「なぜ! なぜやめてしまうのです!」
「……は?」
「今が聖女の命に終止符を打つとき、この太陽の光の届かない寂しい洞窟こそが私の墓場! さぁ、早く私を殺して!」
地べたに座り込み、息を弾ませ、頬を赤く染め、目を爛々輝かせた聖女が、縋るように吸血鬼に手を伸ばす。
「殺してくれったって……お前が死なないんだろう!」
脚に伸びた聖女の手を振り払うようにして、吸血鬼は彼女の小さな頭を蹴り飛ばす。
ミシミシという鈍い音が響き、一瞬事切れたように体を脱力させて地面に這いつくばったものの、彼女はすぐに体を起こし、そのアイスブルーの瞳を吸血鬼に向ける。
しかしその目に湛えられているのは、「恐怖」でも「憎悪」でも「軽蔑」でもなかった。
「はぁ、良いわ。なんて強烈で禍々しい衝撃、意識が飛びそうになります」
聖女は自らの紅潮した頬にそっと手を当てる。
その表情の、なんとだらしない事だろう。力が抜けきってしまったように口元を緩ませ、半開きになった目はどこを見ているのか判然としない。まるで良くない薬でも嗅がされてしまったみたいである。
そして彼女はそんな表情を浮かべたまま、緩んだ唇から懇願するような言葉を漏らす。
「もっと、もっとです。私を殺して下さい」
この女、明らかに正気じゃない。
吸血鬼もここにきてようやく異変に気付いたらしく、聖女の熱気に気圧されるようにして一歩、ニ歩と後退りをする。
「ふざけるな! ここは自殺スポットじゃないし、僕は自殺幇助をするつもりはない」
「そ、そんな。後生です、どうかもう少しだけ。あと少しで私……神にだって会えそうなんです」
ため息混じりにそう言いながら、聖女は祈りを捧げるように顔の前で手を組み、焦点の定まらない視線をここではないどこかへ向ける。
俺は吸血鬼と互いに苦虫を噛み潰したような顔を見合わせ、そして再び聖女に視線を移した。
「なんなの? 本当に死にたいの? でもその体じゃあいくら切り刻んだところで……」
「いいえ、そんなまさか! 私はただ多くの苦痛を受けて気持ち良――じゃなくて、できるだけ多くの人々を救いたいだけです」
聖女は突如として正気を取り戻したようにキリッとした表情を浮かべ、ハッキリとした口調でそう言ってみせる。しかしどんな立派なセリフも、口元を伝うヨダレを拭いながら言われたんじゃなんの説得力もない。
嫌悪や怒りや驚きといった感情を通り越してしまったのだろう。吸血鬼は呆れたような表情を浮かべてため息混じりに口を開く。
「苦労してお前を殺したところで僕になんの得がある。血は飲めないし、靴が汚れるだけ損だ」
「そう言わないで、お願いです! お願いします!」
聖女は本来忌むべきアンデッドにそう懇願しながら、吸血鬼の脚に飛び付くようにして縋り付く。
「寄るな、服が汚れる!」
聖女を振り払うため動かした脚が、図らずも彼女の鳩尾を蹴り上げるような形になってしまった。
……いや、彼女自身がそうなるよう仕組んだのか。
ともかく、聖女は腹部を押さえながら地面に這いつくばり、ごほごほと苦しそうにむせ込む。しかし傷が修復され、起き上がった彼女の顔に浮かんでいたのは恍惚とした表情であった。
「こいつ……本物だな」
「こんなとこ見たら、信者だってガッカリするだろうね……」
「ッ……ああッ!」
何気なく呟いたその一言が聖女の中の何かを刺激したらしい。彼女は自分の身を抱きしめるようにしながらぶるりと体を震わせる。
「憎むべきアンデッドに私と私の信者を侮辱されるなんて……なんて屈辱! なんて苦痛!」
「いや、別に信者を侮辱したつもりは……」
なんとか取り繕おうと口を開くが、彼女に俺の声など聞こえてはいないようである。
聖女は目を爛々と輝かせ、新しい獲物でも発見したかのような嬉々とした声で言う。
「あなたは!? あなたは何かできないのですか!?」
「な、なにか……?」
「凍えるような寒さと引き裂かれるような恐怖の中、為す術なく呪殺……はぁ、悪くないわ……。さぁ、私の魂を引き裂いてみなさい! ああっ、そんな事をしたら、もしかしたら本当に死んでしまうかも――」
聖女はそう畳み掛けると、またぶるりと体を震わせた。しかしそれが恐怖からきた身震いでないことはもはや明白だ。
そして残念ながらと言うべきか幸運にもと言うべきか、俺が彼女の願いを聞き届けてあげることは不可能である。
「申し訳ないんだけど、俺は誰を傷つける事もできないよ」
「な、なにも遠慮することはありません! 私がそう望んでいるのです。あなたが気に病む必要も、罪悪感を負う必要もありません」
「いやいや、そういう紳士的な理由で断ったんじゃなくて……やりたくてもできないんだよ。俺にはその力がないんだ」
俺は思わず苦笑しながら、ポカンとした表情を浮かべる聖女の前でヒラヒラと透明な手を振ってみせる。
しばらくの沈黙の後、聖女は盛大な舌打ちと共に吐き捨てるように言った。
「チィッ、役立たずが……」
「か、仮にも聖女が口悪いなぁ」
「なぁ、もう十分だろう。頼むから出て行ってくれ」
「嫌です。まだまだ苦痛が足りません。こんな事では私を送り出してくれた信者や私を見守っていてくださる神に顔向けができない!」
吸血鬼の懇願するような言葉も聖女の耳には届かない。しかし吸血鬼の体力も限界だろう。これ以上聖女の際限無い要求に応えていたら、彼の身が持たない。
どうしたものかと考えていると、吸血鬼がハッとした表情で口を開いた。
「いるじゃないか! 喜んで延々と苦痛を与えてくれるヤツが!」
********
「本当にその方が……?」
「ああ、そうだとも」
怪訝そうな表情を浮かべる聖女に、吸血鬼は自信有りげに頷いてみせる。
彼が連れてきた――というより半ば引きずるようにして運んできたのは、焦点の定まらない濁った目を半開きにしたゾンビちゃんである。聖女にやられた傷がまだ回復しきっていないのだろう、気怠そうに身体を吸血鬼に預け、脚をズルズルと引きずりながら少しずつこちらへ近付いてくる。
ゾンビとはいえ、自分よりも小さな、しかも手負いの少女がその細腕できちんと自分を痛めつけられるのか不安に思っているのだろう。しかしそのことに関して、聖女が心配をする必要はどこにもない。
聖女の存在に気付くや否や、ゾンビちゃんは弾かれたように背筋を伸ばし、自らの脚で立ち上がった。
「ソレ食ベテ良イ!? 食ベテ良イの!?」
無抵抗の獲物を前にして、彼女はその濁った眼を爛々と輝かせる。ゾンビちゃんの準備は万端のようだ。
「ああ、骨の髄まで食い尽くせ」
吸血鬼がそう言い終わらないうちに、ゾンビちゃんは飢えた野犬のように聖女へ飛びついた。その白く柔らかな腹を食いちぎられ、ハラワタを貪られながら聖女も満足げに悲鳴を上げた。
確かに彼女なら再生しまくる肉を喜んで食べるだろう。
しかし心配がない訳ではない。相手はただの人間ではない、聖女なのだ。
そしてすぐ、俺の予感は的中することとなった。
「マズイ……」
そう漏らしながら顔を上げたゾンビちゃんは、口元を血塗れにしながら今にも泣きそうな表情を浮かべている。
「なに贅沢なことを言っている。お前の大好きな肉じゃないか。さぁ食え」
自分はほんの一口分の血だって飲み込めなかったくせに、薄笑いを浮かべながらゾンビちゃんに食事を続けるよう促す。
「ウエ……ウウ……」
しかしゾンビちゃんの食欲も凄い。呻き声を上げ、目を回しながらも食べることを止めようとはしない。そんなに辛いならやめれば良いのに、とはもはや口に出せなかった。
しかし彼女がいくら頑張って食べ進めようと、聖女の体はどんどんと再生して減るということが無い。
「ウグッ……ウッ……」
恍惚とした表情を浮かべる聖女と対象的に、ゾンビちゃんはまるで拷問でも受けているかのような苦悶の表情を浮かべている。
これではどちらが苦痛を受けているのか分からない。そしてとうとう、ゾンビちゃんにも限界が訪れた。
「ウ……ニ、ニク……」
掠れた声でそう言い残し、ゾンビちゃんは事切れてしまった様に仰向けに倒れ込んだ。
「ゾ、ゾンビちゃん!?」
俺は慌ててゾンビちゃんの元へと駆け寄る。
彼女の口からは白い湯気がのぼり、まるでドライアイスでも頬張っているみたいだ。ぽっかり開いた彼女の口内を覗いてみると、そこには己の好奇心を呪いたくなるような惨状が広がっていた。
「うっ……酷い、焼け爛れてる」
彼女の口から素早く目を逸らしながら呟くと、吸血鬼は他人事感丸出しのなんともあっさりした口調でこう答えた。
「まぁゾンビとは言え聖女の肉なんて食えるわけ無いな」
「分かってたならもっと早く言ってよ。でもまぁ、ここまでやれば流石に――」
そこで俺は思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。
あれ程の苦痛を受け、犠牲者まで出ているにも関わらず、聖女はまだ物欲しそうな表情を浮かべて動かなくなったゾンビちゃんを揺すってる。
「……なんて貞淑な女だ。まさに聖女って感じだな」
「やっぱり俺達じゃ手に負えないね」
俺達の体から滲み出る心の声を感じ取ったのだろう。聖女は血走った目をこちらへ向け、噛み付くような勢いで口を開く。
「嫌です! まだまだ足りません。もっと苦痛を!」
「おまけに強欲。聖女の鑑だ」
「悪いんだけど、俺達だって日々の生活があるんだ。あなたにいつまでも居座られちゃ迷惑なんですよ」
俺達は思わず呆れ顔で溜息を吐く。
しかしその一言により、聖女の表情が一変した。
「アンデッド風情が、私に指図するつもりですか? 今回はダンジョンで命を落とした冒険者の気持ちになるため力をセーブしていましたが、私がその気になればこの地を草花咲き乱れ小鳥のさえずる聖域レベルにまで浄化することも可能。これは忠告なのですが――あまり私を怒らせない方が良いと思いますよ」
聖女の髪がふわりと揺れ、ダンジョンの闇を照らすような輝くベールが彼女を覆った。吸血鬼はまるで太陽にでも直面してしまったかのように顔中から冷や汗を流しながら聖女と距離を取る。騒ぎを駆けつけてやって来たのだろう野次馬スケルトンたちもサッと岩陰に隠れてしまった。聖女を食べて動かなくなったゾンビちゃんすら、ゴロゴロと転がるようにして聖女から離れていく。
なんて恐ろしいことだろう、道中あれだけ魔法を使っていたにも関わらず、まだこんなにも魔力が残っているとは。腐っても聖女というわけか、その気になればダンジョンを丸ごと浄化できるというのも大袈裟な話ではなさそうだ。
……こんな下らないことで我々の棲家を失う訳にはいかない。
俺はそっと吸血鬼の顔を盗み見る。この状況で、聖女を満足に甚振ることができる者は彼しかいないと思ったのだ。
しかし吸血鬼は聖女に近寄ろうとはせず、その顔には薄笑いが浮かんでいる。
どうやら、なにか策が浮かんだらしい。
「……よし、では僕らの代わりに聖女様を甚振ってくれる者を紹介しよう。それでどうだ」
「代わり?」
怪訝な表情で首を傾げる聖女へ、吸血鬼はにこやかに伝える。
「ああ。そいつは僕らより強く、残忍で、そして女を甚振ることに快感を覚えるタイプの異常者だ」
「な……なんて罪深い魔物! これは放っておけません。その方は一体どこに」
「まぁそう焦るな。もう一つ付け加えておくと、そいつは魔物じゃない。人間だ。それもお前と同じか、それ以上に神の祝福を受けている」
「そ、そんな人間が……!?」
「な? 罪深いだろう? 気になって仕方ないだろう?」
胸の前で手を組み、碧い眼を輝かせながら聖女はコクコクと何度も頷く。
吸血鬼は罠に食い付いた獲物を見るような眼で聖女を見下ろしながらニヤリと笑った。
「そいつの正体は――勇者だ」
吸血鬼の言葉に、聖女は口に手を当てて目を見開き、声にならない悲鳴を上げる。そして彼女は興奮を隠そうともせず、食い付くようにして吸血鬼の腕を掴む。
「世界を救うはずの勇者様が、そのような邪悪な面を持っているだなんて! 以前お会いした時には、そのような素振りは微塵も――」
「なんだ、知り合いか?」
「知り合いどころの話ではありません。彼に聖剣を与えたのはこの私です! まぁ私は聖女として儀式を執り行っただけに過ぎませんが……しかし神より授かった聖剣で、そのような事を……」
聖女は堪えきれないように口元を緩ませ、そしてどこか遠くを見ながら妙に芝居がかった声を上げる。
「正当なる勇者がそのような趣味を持っているのは問題です。ここは私が神の名のもとに、彼の歪んだ性格を矯正して差し上げなくては」
言葉とは裏腹に、聖女の頬はますます紅潮し、眼はギラギラした輝きを増すばかりだ。
彼女の接触により、勇者の「悪い癖」が悪化することは明白である。しかし彼女を止める者などいるはずもない。
なぜなら、これ以上に丸く収まる解決法があるとは思えないからだ。
勇者を探すため足取り軽やかにダンジョンを後にする聖女の後ろ姿を眺めながら、俺達はこっそり呟く。
「変態同士、実にお似合いだな」
「二人が永遠に虐殺を続けてくれたら、世界はもう少し平和になりそうだね」




