136、ヤギ頭の悪魔
「……誰?」
狭い通路に集まったアンデッドたち、そして彼らに囲まれるようにして立っている怪しげな男。
男から敵意のようなものは感じられず、アンデッドたちも彼に襲い掛かろうとしない。それどころか、アンデッドたちの男を見る目ときたら、まるで人気アイドルに向けるそれだ。
少なくとも、どうやら彼は我々の敵ではないらしい。
「なんの騒ぎ?」
男を囲むアンデッドたちにそろりと近付き、近くにいた吸血鬼に尋ねる。俺の言葉に反応して振り返った吸血鬼は、今までに見せたことがないような明るい表情を浮かべていた。
「おおレイス! 凄いぞ、この方が僕らの願いを叶えてくれるって言うんだ」
「……え?」
想定外の言葉に、俺は思わず言葉を失う。
それから俺は言葉を口にする代わりに、改めてその男に目を向けた。
闇に溶けてしまいそうな喪服に身を包んだ姿、真っすぐに伸びた背筋、堂々とした立ち姿はまさにジェントルマンそのものだ。彼の頭がヤギであることを除けば、だが。
「いやぁ、突然願いを叶えますって言われてもなかなか思いつかないな」
そう言ってヘラヘラ笑う吸血鬼を俺は慌てて制止する。
「ちょ、ちょっと待ってよ。突然願いを叶えますって言われて、なんで素直に受け入れちゃうんだよ。怪しすぎるでしょ」
「いえいえ、決して怪しい者ではございません」
反論の声を上げたのは吸血鬼ではなくヤギ頭の男であった。
口がしっかりと動いているところを見るに、どうやらその頭は被り物の類ではないらしい。
彼はその丸い二つの目を俺に向け、低く落ち着いた声で言った。
「わたくしと契約していただければ、なんでも一つ願いを叶えて差し上げます」
「な、なんでも……って」
「ええ、なんでもです。巨万の富、誰もがひれ伏す権力、人間離れした美貌――どんな願いでも構いませんよ」
その言葉に、俺は思わずその男から目を逸らす。
一笑に付しても不思議でないくらいの荒唐無稽な話であるが、この男が言うとなぜだか物凄い説得力があるのだ。
「……それなら例えば、『人間の体が欲しい』ってのも?」
俺は考えた挙句、意を決して男にそう尋ねる。
しかし男は俺の言葉に対しなんともあっさり首を振った。
「もちろんその願いをかなえることは可能ですが……大変申し訳ございません、幽霊はわたくしの契約者とはなり得ません」
「ええっ、なんだよそれ。期待して損した」
「君はこの期に及んでまだ人間の体に未練があるのか?」
吸血鬼はそう言って呆れたようにこちらを見る。
なんだか妙に恥ずかしくなって、俺は彼の赤い目から逃れるように足元へと視線を落とした。
「う、うるさいな。聞いてみただけだよ。そう言うみんなはどうなんだよ」
俺の言葉にいち早く反応したのはスケルトンであった。
彼らは輪になってかたまり、女学生のようなハシャギっぷりで願い事の相談を始める。
『みんなどうする?』
『完璧な形の骨格が欲しい、とか』
『壊れない骨格とかどう?』
『鋼鉄の強度を持つ骨とか』
「どんな願いも叶えられる」と言われているにも関わらず、スケルトンたちが出してくるのは骨に関する願い事ばかりだ。彼らの価値観は本当に独特である。
しかしスケルトンたちの盛り上がりも長くは続かなかった。彼らのテンションを地に落とす一言を男が口にしたからである。
「期待させてしまい大変申し訳ないのですが、スケルトンの方も契約対象外となっております」
その言葉により、スケルトンたちは一瞬にして凍ってしまったかのように動きを止める。そしてほんの数秒後、彼らは一斉に骨を使って落胆の音を鳴らした。
静かになったスケルトンたちの代わりに、良く通る甲高い声がダンジョンに響く。
「私ニク! ニクいっぱい欲シイ!」
スケルトンたちを掻き分けてヤギ頭の男へと近付くのは、期待と食欲に目を輝かせたゾンビちゃんである。全く意外性のない、実に彼女らしい願いである。
しかし男は悪びれる様子もなく、ゾンビちゃんの願いに首を振った。
「申し訳ありません、ゾンビの方も対象外でして」
「エー! ナンデ!」
「決まりですから」
不服そうな表情で不満げな声を上げるゾンビちゃんを軽くいなし、男は吸血鬼へと視線を向ける。
「……もしかして、このダンジョンで契約の権利があるのは僕だけか?」
「そうなりますね」
吸血鬼の言葉に、男は口角を持ち上げてニッコリ微笑む。
微笑むヤギと言うのは非常に不自然で気味が悪い。第一、吸血鬼にだけ権利があるというのはどういう事なのか。「どんな願い事も叶えられる権利」を貰えるほど、吸血鬼が立派な男であるとは考えられない。
欲に目がくらんで見えにくくなっていたが、よくよく考えればあまりにも怪しすぎる契約である。
俺はジッと男を睨み、威嚇するような低い声で尋ねる。
「そんな凄い『契約』、まさか無償で結んでくれるわけじゃないよね。こっちだって相応の代償を支払わなくちゃならないんでしょ」
「ええ、それはもちろん」
男は思っていたよりもあっさりと俺の言葉に頷き、どこからともなく一枚の羊皮紙を取り出した。
見慣れない古い文字で書かれたその文章を完璧に解読することはできなかったが、文章を解読するまでもない。
実物を見たのは初めてだが、それは紛れもなく「悪魔の契約書」であった。
「ま、まさか……本当に悪魔? だとすると代償ってのは」
「はい。契約者には死後、魂を引き渡して頂きます」
男――いや、悪魔は恐ろしいことをさも当然であるかのようにサラリと言ってみせる。
小悪魔ならまだしも、人間と契約を結べるほどの上級悪魔なんて見るのも初めてだ。しかし、確かに彼が悪魔だというのなら「なんでも願いをかなえる」という一見荒唐無稽に思える話にも納得がいく。
彼の話は確かに魅力的だ。だが悪魔との契約なんて危険すぎる。
「せっかく来てもらったのに悪いんだけど、その契約書にはサインできな」
「決めたぞ! 僕が欲しいのは無限の富だ。その金で、まずはこの地下空間に城を造ってやる」
俺の言葉を遮り、吸血鬼が意気揚々と声を上げる。
その欲に塗れ、思慮のしの字も感じられない言葉に俺は思わず顔を顰めた。どうやら人の賢さと言うのは生きてきた年月に比例するわけではないらしい。
「ちょっと待ってよ、何言ってんの?」
「かしこまりました。ではこちらの契約書にサインを」
そう言いながら、悪魔は吸血鬼に羊皮紙を差し出す。
俺は悪魔と吸血鬼の間に素早く体を滑り込ませ、契約を阻止すべく声を上げる。
「待ってってば。悪魔と契約なんて絶対やめた方が良いよ。その辺の高利貸しとか、メンヘラ女との婚姻届にサインした方がずっとマシなくらいだ」
しかし分厚い欲にコーティングされた吸血鬼に俺の言葉は届かない。
吸血鬼は俺の透明な体に容赦なく腕を突っ込み、悪魔の差し出した羊皮紙を受け取る。
「ねえってば! よく考えてよ、魂と釣り合う願いなんてどこにも――ん?」
俺は言いかけた言葉を飲み込み、もう一度よく契約内容を思い返す。願いの代償、それは「死後、魂を引き渡すこと」である。
人間ならばそれで等価な契約になるのだろうが、生憎吸血鬼は人間じゃない。
「ちょっと待って、アンデッドの『死後』って、いつなの? そもそもアンデッドの魂なんかで悪魔と契約できるの? というか、アンデッドに魂なんて――」
「お、おいレイス!」
「……アンデッド? どういう事ですか?」
感情というものがまるで感じられなかった悪魔の声に、なにか黒く冷たいものが混じり始めたのが分かった。相変わらず冷静な口調ではあるものの、その根底にある大きすぎる怒りを隠しきれていない。
そしてしばしの沈黙のあと、悪魔は鋭い視線を吸血鬼に向け、再び口を開く。
「あなた、ご自身の事をネクロマンサーだと仰られていたように記憶していますが」
「そ、そんなこと言ったの?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げ、吸血鬼に視線を向ける。
すると吸血鬼は急に不機嫌そうな表情となって足元に視線を落とし、ダンジョン中に響き渡るような舌打ちで答えた。
「チッ……まぁダンジョンボスとしてこいつらをまとめているのは僕だからな。そういう意味ではネクロマンサーといっても間違いじゃないだろう」
「悪魔を騙すなんて……契約よりよっぽど危険だよ」
悪魔にとって契約は絶対である。どんなに強大な力を持つ悪魔であっても、契約に逆らった行動はできないのだ。
よって、悪魔は不誠実な契約者を決して許さない。悪魔よりも下等な生物である人間に裏をかかれるというのは、悪魔にとって最大の失態であり屈辱なのだ。
悪魔と契約などすべきではないし、どうしても契約すると言うならば誠実な契約を結ぶべきである。しかし万が一悪魔を出し抜こうというならば、それは決して悪魔に悟られないようにしなくてはならない。
……吸血鬼は今、悪魔と契約する上で考えられる最悪の状況に陥っているのである。
「どうやら薄汚れたオンボロの命に終止符を打ちたくなったようですね」
悪魔は低い声でそう言いながら吸血鬼を見下ろす。
その表情に大きな変化はないが、悪魔の発する目に見えない「怒り」は俺達の体に纏わりつき、身をすくませるには十分な威力を持っていた。
吸血鬼もようやく事の重大さに気付いたのか、引き攣った表情で悪魔を見つめている。しかし恐怖によるものなのか、それとも悪魔の能力のせいか、吸血鬼は悪魔に立ち向かおうとも逃げようともせずただ悪魔を見上げながら立ち尽くすばかりだ。
やがて悪魔は一歩ずつゆっくりと足を踏み出し、吸血鬼との距離を詰めていく。そしてその黒く尖った手が吸血鬼に伸ばされたその時。
「ッ……!?」
吸血鬼の目と鼻の先で、突然悪魔の手の動きがピタリと止まる。そして彼はそのまま腕を下ろし、まるで見えない何かに怯えているようにきょろきょろと辺りを見回す。
「そ、そんなまさか……いや、まだ時間はあるはず……しかし……」
悪魔はあちこちに視線を向けながら誰に言うでもなくブツブツとなにかを呟いている。
ひとまず危機は乗り越えたのかもしれないが、俺たちの恐怖心は高まる一方だ。
「急になんだ……?」
吸血鬼の呟きが彼をこちらの世界に引き戻したのだろう。
悪魔は我に返ったように独り言を止め、そして再び吸血鬼に視線を向ける。思わず身構える吸血鬼だが、悪魔の表情はそれまでのものとは一変していた。
持ち上がった口角、三日月型に曲がった目――歯を剝き出しにして怒っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。信じられないことではあるが、恐らく、これは笑顔だ。
「お互い勘違いがあったようですが、残念ながらアンデッドの魂を対価にした契約はできないのです。しかし対価にできるのはなにも魂だけではありません! 眼、心臓、四肢なんかでも契約は可能です」
悪魔は先ほどまでとは信じられないような友好的な態度で吸血鬼にそう告げる。
この急激な態度の変化に吸血鬼は戸惑いと躊躇いを見せながらも、恐る恐ると言った風に口を開いた。
「ほ、本当か? 願いが叶うならそんなものいくらでもくれてやるが」
「まぁ再生するからね……でも、なんで急に」
悪魔を騙したのだ、本来ならば100回殺されても文句は言えない。現についさっきまで悪魔は吸血鬼への殺意を隠そうとすらしていなかった。
にも関わらず、悪魔は吸血鬼に再び願いを叶えるチャンスすら与えようとしている。これでは「悪魔」ではなく「天使」、もしくは「聖人」と呼んだ方がしっくりくるくらいだ。これは何か裏があるに違いない。
「……流石に魂を対価にした時と同等の願いが叶えられるって訳にはいかないですよね?」
「ご安心下さい! ある程度の制限はありますが、様々な願いを叶えることが可能ですよ」
「『無限の富』はどうだ?」
吸血鬼がそう尋ねると、悪魔は不自然な笑みを浮かべたまま困ったような声を上げる。
「心臓などを対価にした場合ですとその願いはお聞きできません。かわりにクッキーを無限に生み出す魔獣、『クリッカー』の召喚方法をお教えします。ヤツを召喚すれば瞬く間にクッキーが湧き出て、クッキーで溺れ死ぬ事が可能ですよ」
「どうしてクッキーで死ななきゃならないんだ」
「完全に罰ゲームだよね」
俺たちは思わず呆れ顔でため息をつく。
やはりこの契約も悪魔による嫌がらせの一環なのだろうか。だとしたら彼には一刻も早くお引き取りいただかなくてはならない。吸血鬼がうっかり契約書にサインしてしまったら取り返しのつかない事になる。
ところが、悪魔は怒るでも話を打ち切るでもなく、まるで営業成績ビリのセールスマンのごとき必死さで吸血鬼に縋り付いた。
「そ、そうおっしゃらず。これでもかなり頑張っているんですよ。そうだ、今すぐ契約をしていただけるならこの洗剤もおつけします。悪魔的洗浄力を誇る逸品です」
そう言うと、悪魔はどこからか黒いボトルに入った衣類用の洗剤を取り出す。
こう必死になられると、逆に気味悪く思えてくるものだ。吸血鬼は困惑したように視線を泳がせながら首を振る。
「まるで訪問販売だな。もう良い、帰ってくれ。これじゃあお前が本当に悪魔かどうかも疑わしい」
また失礼なことを。俺は吸血鬼のストレートすぎる物言いに顔を顰める。
彼が悪魔であることは明白。さすがにこの発言は目の前の悪魔の怒りを燃え上がらせるに違いない。
……という俺の予想は、拍子抜けするほどあっさりとひっくり返された。
「そ、そう言わないで下さい。今は悪魔としての力を制限されてて……とにかくもう時間がないんです」
悪魔は命乞いでもするような情けない態度で吸血鬼にそう懇願する。
上級悪魔がここまでプライドをかなぐり捨てているのだ。彼は今、そうまでしなくてはならない何らかの危機に晒されていると考えたほうが自然である。そしてどうやら、その危機はすぐ側まで迫っているらしい。
「なんだ、やけに必死じゃないか。ノルマでもあるのか?」
吸血鬼が怪訝な声を上げたその時。
突如、轟音とともにダンジョンがぐらりと揺れた。
「なんだ、地震か?」
何体かのスケルトンがバランスを崩して転倒し、派手な音を立てながらいくつかの骨の山と化す。
そんな混乱の中、悪魔は断末魔の叫びのような声を上げる。
「は、早くサインを! 早く!」
そして次の瞬間、彼の声は本当に断末魔の叫びとなった。
悪魔の肩から腰にかけて、赤い線が斜めに滲む。それはじわじわと彼の黒いジャケットに広がり、そして数秒の後、悪魔の上半身は重力に引っ張られるようにして下半身から滑り落ちていく。
「あなたの契約者は私だけ、約束でしょ」
湿っぽい音を立てて悪魔の上半身が地面へと落下する。
その光景に俺たちはただただ目を丸くすることしかできない。そして斜めに切断された悪魔の下半身の向こうにいる小さな魔女の姿に、俺たちは丸くなった目をさらに見開くこととなった。
「ミ、ミストレス……!」
粗大ゴミのように地面に這いつくばった悪魔から、恐怖と憎悪の混じった唸り声が上がる。しかし次に悪魔の口から飛び出したのは、まるで豚の腹を蹴飛ばしたかのような情けない悲鳴であった。ミストレスがその小さな足で悪魔の顔を踏みつけたのだ。魔法の力によるものか、彼女の体重からは考えられない負荷が悪魔の顔に掛かっているらしい。ミシミシという音とともに悪魔の顔に血の滲んたヒビが入る。
「お遊びもほどほどにしてもらわないと。それとも、本気で私から逃げられるとでも思った?」
ミストレスは低い声でそう吐き捨てると、足を高く持ち上げ、何度も何度も悪魔の頭を踏み付ける。そのたびに細かな血の飛沫が上がり、ミストレスの小さな靴と膨らんだスカートの裾を赤く汚した。もはや悪魔の頭部は原型をとどめておらず、肉片が土砂のように地面に広がっている。
しかしさすがは悪魔。非常に恐ろしいことではあるが、こんな状態になってもまだ死んでいないらしい。頭を踏みつけられるたびに、彼の指が痙攣するようにピクピクと震えている。
そんな恐ろしい行為を続けながら、ミストレスは突然顔を上げて満面の笑みをこちらに向けた。
「あなた達が聡明なアンデッドで助かったよ。この子が他の人と契約を結ぶと、私との契約が切れてしまうの。もしそうなってしまったら、私は新しい契約者を始末して契約を結び直さなくちゃならない。そんな面倒な真似、あなた達だって望んでいないでしょ?」
子供らしい明るい声の裏に潜む恐ろしさを噛み締めながら、俺達は精一杯の苦笑いを浮かべる。
やがてミストレスは頭部を破壊され、体を切断された悪魔とともに姿を消した。残されたのは地面に広がる血痕と、それから恐ろしく冷ややかで重い空気だけである。
「大丈夫かな、あの悪魔……死ぬんじゃないかな」
「死なせてもらえるならまだマシだろう」
俺の呟きに、吸血鬼が低い声でそう返す。
結末はどうあれ、ミストレスに連れて行かれた悪魔がこの世のどんな拷問より酷い目に合うことは間違いない。
ミストレスと契約を結んでしまった悪魔には同情を禁じ得ないが、我がダンジョンに火の粉が降りかからなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
「契約しなくて良かったね?」
薄笑いを浮かべながらそう言うと、吸血鬼は悪魔の血痕がこびりついた地面に目を落としながらブルリと身震いをし、そして彼にしては珍しく素直に頷いたのだった。




