116、ちょっと昔の話
時間の止まってしまった俺たちとは違い、ダンジョンの外の季節はまた移ろいつつあるようだ。冒険者の装備が重く暖かいものに変わり、吹き込む風が鋭い音をダンジョンに響き渡らせる。日が落ちるのがすっかり早くなり、訪れる冒険者の数も落ち着いてきた。
忙しく戦いまわっていた頃に比べればだいぶ暇になり、ゆっくりと休みを取れるようになって嬉しい反面、飢えの足音が近付いて来るようで少し恐くもある。
「吸血鬼はさぁ、この生活どうなの?」
暇に耐えきれなかった俺は、ソファでカタログを読みながらくつろいでいた吸血鬼に突拍子もない質問を投げかけた。
吸血鬼はカタログに落としていた視線を上げ、怪訝な表情で俺を見る。
「どういう意味だ?」
「深い意味はないけど……ほら、俺たちと違って吸血鬼って外でも生活していけるよね? ダンジョンって良くも悪くも受動的じゃん。戦う相手を選べないし、雪が降れば飢えることもあるし。なんでここで暮らしてるのかなーって」
「そうだな、確かに人間に紛れて街で暮らすヤツもいる。僕もここに来る前はあちこちの街を渡り歩いて生活していたものだ。だがな、外には外の大変さがあるんだよ」
「へぇ、例えばどんな? どうせ今日は冒険者も来ないし、話してよ」
そう言うと、吸血鬼は足元に視線を落として少し考えるような素振りを見せた挙句、ゆっくりと顔を上げてその赤い瞳を俺に向けた。
「そうだな、では不死身の僕が最も危険を感じたエピソードの一つを聞かせてやるとしよう」
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昔……と言ってもそこまで昔じゃない。ほんの少し前の話だ。
僕はここへ来る前、街から街へ渡り歩く旅人のような生活をしていたんだ。その時滞在していた街は筆舌に尽くし難いとても素晴らしいところだった。大きな劇場や画廊があり、広場の中心には美しい噴水があって、人々はそこで待ち合わせをしていたものだ。住民たちも、それはそれは素晴らしい者ばかりだった。田舎から出てきた一人暮らしの若者が多く、みな純朴で親切で、健康で肌が柔らかく、そして行方不明になってもすぐには捜索されない、最高の人間たちだったんだ。
だがあまりに居心地が良すぎて、僕はその街に長居をしすぎてしまったらしい。
獣の目のような形の月が空に浮かぶ夜、血液を求めて彷徨っていた僕が狙いを定めて襲いかかった二人組の獲物は、よりによってこのあたりを嗅ぎ回っていたヴァンパイアハンターだった。
そこからはもう形勢逆転だ。ヴァンパイアハンターの女二人が狩人ならば、僕はさながら逃げ惑う小ウサギだったよ。
瘴気に満ちたダンジョンならともかく、人間たちの住む街中でヴァンパイアハンターから致命傷を受ければさすがの僕もタダじゃ済まない。
結局ハンターの女が振り下ろした銀の剣が背中を切り裂き、もう一人の女が杖から飛ばした光の玉が脇腹の肉を抉った程度のダメージで済んだが、それはこの街に別れを告げる十分な理由になり得る体験だった。
だが僕の悪夢はまだ始まったばかり。この時はこれ以上状況が悪くなるなんて考えもしていなかったが。
日没直後、昨夜の戦いの疲れから棺桶の中で死んだように眠りこけていた僕は激しいノックの音で目を覚ました。
「おーい! 吸血鬼君、いるんでしょ。吸血鬼くーん」
居留守を決め込みんでいた僕もその言葉に慌てて飛び起き、被った毛布を放り投げて転がり出るように扉を開けた。
「馬鹿! でかい声出すな」
「っと、ごめんごめん」
あまりに薄っぺらい謝罪の言葉を吐き、銀髪をかき上げながらヘラヘラと笑うのは、この街で唯一僕の正体を知っている化物。狼男だ。
ヤツも街から街へ渡り歩いて生活をしていたから、行く先々の街でバッタリ顔を合わせることも多かったんだ。同じ場所に化物が二人いると食い場を取り合って敵対することも多い。が、ヤツは大して肉を食わないし、街や人間に関する情報提供もしてくれた。関係は良好だったよ、今よりずっと。
「で、どうしたんだ。なにかあったのか」
「ああっ! そうだった、大変なんだよ吸血鬼君!」
狼男は僕の腕を掴み、緊迫した表情で俺を部屋から引きずり出した。
「だ、だから一体なにが――」
「説明はあと! とにかく急いで」
鬼気迫る表情、緊迫した雰囲気。こんなに真剣な顔をした狼男を見るのは初めてだった。
この時、僕の脳裏を過ぎったのは昨夜の忌々しいトラブルだ。
あのヴァンパイアハンターの女どもが仕留め損ねた獲物を探してあちこち嗅ぎ回っているだろう事は容易に想像できる。もしかしたら僕の居場所がバレて、今にもハンターがここを襲撃しようと準備を進めているのかもしれない。
だとしたら狼男の慌てぶりにも納得がいく。僕は玄関に掛けておいたジャケットを羽織り、狼男に促されるまま走り出した。
そして僕らが辿り着いたのは、賑やかな声と暖かなオレンジの光が窓から漏れ出す酒場だった。
「ここにいったい何があるんだ?」
尋ねると、狼男はあの憎たらしいニヤニヤ笑いを浮かべて言った。
「なにがあるって? そりゃあもちろん――」
「あっ、いたいた。こっちよ!」
隅のテーブルからこちらに向かって手を振るのは、若い女二人組だ。何かの間違いかと思ったが、狼男がその二人組に手を振り返しているところを見るに、間違いだったのは僕がこの男を信じてここまで走ってきた事であるらしい。
「……何の真似だこれは」
「ん? 合コン」
今までも薄々馬鹿っぽいヤツだとは思っていたが、こいつが本物の馬鹿だと確信したのはこの時だった。
「帰る」
「ちょ、待って待って! 合コン付き合ってくれる友達なんて他にいないんだよ」
「馬鹿なことを言うな。いつから僕は『合コンに付き合ってくれる友達』になったんだ」
「そう言わないで、合コンなんて形だけだよ。俺もほかの人を巻き込みたくはなかったんだけど、あの子たちが一対一じゃ会ってくれないって言うから仕方なく……ほんと、吸血鬼君はそこにいてくれるだけでいいんだ」
「それをして僕に何の得がある? 戦いと引っ越しの準備で疲れているんだ、くだらない事に巻き込むな」
「疲れてるならなおさらだよ。可愛い女の子と合コン、これ以上に癒される事ってある?」
「ねぇ、何してんの? 待ちくたびれたんだけど」
僕らがなかなか席に来ない事に痺れを切らしたらしい女の一人が明らかに苛立ちを含んだ声を上げた。
それに返事をしながら、狼男は僕の腕を掴んで半ば無理矢理女が待つテーブルへと連れて行く。
「ほらほら女の子待たせたら悪いでしょ。行くよ」
「女性の顔を見て引き返すのはもっと悪いと思――」
そう言いながら席に座る女二人組の顔を見て、僕は思わず体を石のように強張らせた。
待ちくたびれたというのは大袈裟なセリフではないのだろう。テーブルの上にはすでに半分ほど空になったボトルと汗をかいたグラスが並んでおり、柔らかいオレンジ色の証明に照らされた彼女たちの頬はほんのり赤らんでいる。
が、そんなことは問題じゃない。問題なのは、彼女たちが昨夜僕の食事を邪魔した挙句、未だ癒えない傷を負わせたヴァンパイアハンターだという事だ。
「お、おい……これはちょっと」
顔を引き攣らせる僕をよそに、狼男は嬉しそうにニコニコ笑いながら言った。
「ね? 可愛いでしょ?」
「いいから早く座りなさいよぉ」
女の一人がそう言いながらテーブルを手のひらでバシバシ殴る。もう一人の方もグラスを両手に持ったままここではない何処かをじっと見つめている始末だ。
思ったより飲んでいるのか、それともアルコールに弱いのか。女たちはすでに酔いが回っているらしい。
そのお陰もあってか、僕の正体には気付いていないようだ。もともと顔を見られないよう、昨夜の追いかけっこでも用心はしていた。今ならまだ引き返せるかも、と僕は考えた。
「さぁ座って座って」
「いや、僕は――」
そう言いかけたところで気付いた。
慌てて家を飛び出したせいで、僕は破れたジャケットを着てきてしまっていたんだ。それが木に引っ掛けて破れたものだったらまだ良かったんだが、ジャケットを傷付けた張本人は僕の目の前にいる女たちだった。僕はよりにもよって、昨夜彼女たちから攻撃を受けた際に着ていたジャケットを羽織ってきてしまってたんだ。
ジャケット自体はありふれたものだが、ジャケットの背中にできた刀傷を見れば僕の正体に勘付くかもしれない。ジャケットを脱いでしまえば、とも思ったがやはりそれも無理だ。抉られた脇腹がまだ再生しきっていなかったからな。包帯に滲んだ血が万が一にでもシャツから透けたりしたら……。
彼女たちのせいで昨日は血液を飲み損ねたし、負傷だってしている。まともにやりあえば永遠の命に終止符を打たれかねない。
この絶体絶命の危機を無傷でやり過ごす方法は一つ。彼女たちに背中を見せず、この合コンを乗り切ることである。
僕は絶望を胸に宿しながら断腸の思いで席につく。
「遅い! 一体何してたのよ」
「……誘ったの、そっちでしょ」
赤い顔をした女二人がそれぞれ文句を言いながら狼男に鋭い視線を向ける。
すると狼男は悪びれる様子もなく、ヘラヘラ笑いながら心無い謝罪の言葉を吐いた。
「ごめんごめん、準備に色々手間取っちゃって。紹介するね、こちらがメアリちゃん」
そう紹介されたのは、長い髪に長身の少々キツい顔をした女だ。剣を手に俺を追いかけていた時は髪を後頭部で無造作に束ねていたが、オフだからかその時は下ろしていた。僕のジャケットを斬撃で破いたのがこの女だ。
「で、こっちがアンちゃん」
そう紹介されたもう一人の女は、綿菓子のようなふわふわ丸い髪をした子供みたいな女だ。しかしその顔には表情らしいものが全く見えず、まるで生気のない人形のようである。フード付きのローブを被り、自分の身の丈より大きな杖を振るって僕の脇腹の肉を抉ったときはその幼い顔に似合わぬ凶悪な笑みを浮かべていたような気がしたのだが。
その女――アンの人形のような顔をじっと見ていると、その視線に気付いたのかアンもこちらに目を向けて呟くように言った。
「……で、そちらが昼間言ってた男?」
「へぇ、想像してたのと違うわ。もっと陰気そうなヤツかと思ってた。ねぇ?」
メアリの言葉にアンも小さく頷く。
彼女たちの口ぶりから察するに、どうやら僕はあまり良い紹介の仕方をされていなかったようだ。
「お前、一体僕のことをどう言ったんだ……」
僕はそう耳打ちしつつ狼男を睨んだが、ヤツの視線はすでに目の前の女子二人に注がれており、こちらに向ける余裕などないようだった。
一通り自己紹介を終えた僕らは次のステージ、質問タイムへと移っていく。
「あなた達、普段なにしてる人?」
メアリの当たり障りない質問に、狼男がいち早く答えた。
「んー、強いて言うなら旅人かな? 街から街へ自由気ままに……ってやつ!」
「ふーん、つまりフリーターね」
メアリはつまらなさそうに狼男の小洒落た物言いを一蹴してみせる。だが狼男はメアリの言葉に顔色一つ変えず笑い飛ばしてしまった。
「あはは、手厳しいなぁ」
さすが場馴れしているだけある、といったところか。だが僕は経験の面でヤツと圧倒的に差がある。
密かな祈りも虚しく、次にアンはその生気のない目を僕に向けて呟くように尋ねてきた。
「……そっちのあなたは?」
「ええと――」
僕も狼男と似たような生活をしているが、それを言ってフリーター扱いをされるのは嫌だ。という事で、僕は狼男とは少し違う方向で回答してみた。
「そうだな、普段は画廊に行ったり、劇場に足を運んだりなんかしているよ。あそこの歌劇は見たことがあるかい? 僕はあの音楽に心酔していて――」
「……へぇ、ニートなんだ。気楽なもんだね」
「うっ」
僕の言葉を遮って放たれたアンの静かな一言は、僕の心を矢のように貫いた。ロマンチックな意味じゃないぞ、どちらかといえば物理的な意味に近い。
「じゃあ二人は普段なにしてるの?」
場の空気が悪くなりそうなことを察したのだろう。狼男が話題の中心を僕から彼女たちへと移した。アイツ、こういう時ばかり鼻が効くからな。
アンとメアリは互いに顔を見合わせた挙句、意味深に微笑みながら呟いた。
「強いて言うならゴミ掃除……かな」
「そうそう。二人で日夜街のゴミ処理に勤しんでいるわ」
なるほど、どうやら彼女たちにとって僕らみたいなのはゴミでしかないらしい。
危ないところだった。万全の状態だったなら、僕は怒りに任せてこの爪を彼女たちの柔らかそうな喉に突き立てていたかもしれない。
だがそんな怒りも彼女たちの次の行動でどこかへ吹っ飛んでしまった。
「今日は機嫌が良いから、お仕事で使う技を少しだけ見せてあげるね」
ちっとも機嫌の良さを感じられない表情でそう言うと、アンはおもむろに何かをすくうような形にした両手を差し出し、意味の分からない言葉を歌にも似た調子で詠唱し始めた。すると彼女の手の中に丸い形をした眩い光の塊が現れた。光に呼応するように負傷した脇腹がズキズキ痛む。間違いない、それは昨夜僕の脇腹を抉ったあの光だった。
場馴れした狼男も、さすがにこのような事態に陥ったことはそうそうないのだろう。表情を強張らせながらやや焦ったようにアンをたしなめる。
「ちょ、ちょっと……もしかして酔ってる? こんなとこで魔法使ったら危ないよ」
「大丈夫よ、これは悪しきものにのみ反応する光の魔法なんだから。お店を破壊したり人に危害を加えたりはしないわ。まぁこの店内に悪しきものが混じっていたらその限りじゃないけどね」
詠唱中のアンに代わり、メアリがケラケラ笑いながら魔法についてそう説明する。
確かに昨夜も彼女の光の玉はジャケットやシャツを一切傷付けず、僕の肉だけをえぐり取っていった。彼女の説明は間違っていないのだろう。そして、「悪しきもの」は彼女たちの目の前に二人もいる。
「どうしよう吸血鬼君、目眩がしてきたよ」
狼男が負け犬のような情けない声で僕に耳打ちしてきた。だが辛いのはこちらも一緒だ。
「……元はといえば全部お前のせいだぞ。さっさとどうにかしろ!」
「ど、どうにかって」
狼男はあちこちに視線を泳がせるが、解決策というのはその辺に転がっているものでもない。その間にも光の玉はどんどんその大きさを増している。
目眩、吐き気、それから汗も止まらない。もしかしたら、これは今すぐ店の外へ逃げ出すべきなんじゃないか。いや、しかしこの玉はそもそも遠距離攻撃用の魔法だ。不審な動きをすればそれこそ玉をぶつけられかねない。
解決策を必死に考えていたその時、僕らのテーブルに思わぬ救世主が現れた。
「お待たせしました、シーザーサラダでーす」
はつらつとした店員が生野菜の盛られた大きなボウルをテーブルの上にドンと置いた。
その瞬間アンは詠唱を止め、反射的にトングと小皿を手に取りサラダを取り分け始める。それによりかなり大きく育っていた光の玉もあっという間に消えていってしまった。
女というのは切り替えの早い生き物なのだろうか。突然危機が過ぎ去った事で半ば放心状態だった僕らと違い、メアリの興味も光の玉からサラダへと移ったようだった。
「うんうん、相変わらず凄まじい女子力ねぇ……あ、料理適当に頼んどいたから」
「……ん」
アンは綺麗に盛り付けたサラダを僕の前に差し出した。あまりよく覚えていないが、僕は「ああ」だとか「どうも」だとか言ってそれを受け取ったんだと思う。
だが、考えなしにとったその行為が新しい危機を生むことになってしまった。だって、サラダだぞ。吸血鬼がサラダなんて食べられるわけ無いだろう?
だが食べなければならなかった。ここで下手に断れば怪しまれかねない思ったんだ。僕は毒でもあおるような気持ちで青臭い植物の葉を無理矢理口に押し込んだ。
しかしここでも経験の差が明暗を分けることとなった。
僕がこんなに苦労してサラダを食べているというのに、狼男は差し出されたサラダを拒否したのである。
「ああ、俺は良いや」
「……好き嫌いは駄目だよ」
威圧感を放つアンの言葉にも、狼男は自分のペースを崩さない。
「好き嫌い? とんでもない、俺は逆ベジタリアンなんだよ。こんなバラバラに千切られて野菜が可哀相でしょ?」
「アハハ、なにそれ。馬鹿なこと言うのね」
狼男のふざけた対応は、酔いにより感受性の高まったメアリの琴線に触れたようだ。店内に響くようなメアリの笑い声で好き嫌いがどうこうといった話は有耶無耶になり、なんだかんだでアンも野菜の盛られた小皿を引っ込めた。
野菜で喉が詰まっていなければ、「そんなのアリなのか」って叫んでいたに違いないよ。
まぁ序盤は色々とトラブルもあったが、その後は比較的穏やかな時間を過ごせたと思う。
転機はメアリがトイレに立った時に訪れた。アンも一緒に行くといって、二人まとめて席を外したんだ。
こんなチャンスは二度とないかもしれない。僕は二人がトイレに入るや否やすぐに狼男の腕を掴んだ。
「今のうちに逃げるぞ」
「何言ってんの? それ合コンで一番やっちゃいけない事だよ」
「馬鹿、お前とんでもないヤツらを連れてきてくれたな。あの二人ヴァンパイアハンターだぞ」
「あー、そうらしいね」
「知ってたのか!?」
「うん。でも美人でしょ?」
暢気に答える狼男を見て、僕は頭を抱えるしかなかった。こいつが女好きだってことは前々から知っていたが、この頃はまだここまでタチの悪い女好きとは思ってなかったんだ。
こんなヤツに付き合っていたら命がいくつあっても足りない。僕は椅子から立ち上がりながら言った。
「もういい、僕は先に逃げさせてもらう」
「ちょっと待ってよ吸血鬼君、夜はこれからじゃん」
「そうよ、夜はこれからじゃない」
背後から刺すような鋭い声が飛んできて、僕らは慌てて振り向いた。そこにいたのはもちろん先程の二人組だが、その手には先程までなかった杖と剣がそれぞれ携えられている。
「な、なんで……あっ」
僕は慌てて背中の破れを手でなぞる。
彼女たちから解放されるという安心感ですっかり忘れていたが、トイレは僕の後方に位置している。つまり、トイレから戻ってくる者は僕の背中を必ず見る事になるのだ。
だがヤツらは僕の顔を見てにやにやと笑い、こちらを指差して言った。
「あはっ、まさかソレでバレたって思ってる? 私たちヴァンパイアハンターだよ?」
「……ハンターじゃなくても分かる。赤い瞳、白い肌、牙、爪。化物がどうしてそんなに堂々と街を闊歩できるのか、私とっても不思議」
「ぐっ……」
都会では案外他人の顔など見ていないものだ。
近頃は特別な用事でもない限り肌の色を隠すメイクも瞳の色を隠す薬も使っていなかった。
そもそも狼男が突然呼び出すのが悪いんだ。最初から分かっていればそういう準備も――いや、そもそもヤツがいなければこんな場所には来ず、従ってこんな状況に陥ることもなかった。
……とはいえ今は怒っている場合じゃない。ここはいがみ合うのではなく協力する場面だろう。
「おい狼男、逃げ――」
そう言いながら振り向く僕の目に映ったのは寒々しい空席のみ。
この状況を作り出した糞野郎の姿はどこにもなかった。
その後のことは、まぁ話すまでもないだろう。
こちらは負傷していて、相手は手練のヴァンパイアハンター二人だ。それでも死なずに済んだのは、奴らが本当に酔っ払っていたからだと思う。とはいえ無傷で逃げ出せたわけじゃない。体は傷だらけ、息も絶え絶えといったところだ。回復が終わっていない昨夜の負傷と空腹とのトリプルパンチだったよ。
出血も酷く、血の匂いを嗅ぎつけたんだろう。森の暗闇にギラギラした眼がいくつも浮かんでいて、まるで星空が落ちてきたみたいだった。まぁそんなロマンチックなことを考える余裕はその当時なかったがな。闇に浮かぶ獣の眼が狼男を思い出させて、怒りを抑えるのに苦労したものだ。
獣に騙された挙句、獣の餌になるなんてごめんだったから、僕は必死になって歩いた。
そして最悪の一日の最後の最後になって、ようやく僕にもツキがめぐってきた。
空が白み始め、背筋が凍るような太陽の気配を感じてきたその時。僕は不気味に口を開けた大きな洞窟を見つけたんだ。
あれほど不幸中の幸いという言葉がしっくりくる状況は今までになかったね。当時の僕にとって、その洞窟は高級ホテルのスイートなんかよりよっぽど魅力的に見えた。雨風と太陽の光が遮られて、おまけに瘴気も潤沢。休憩にはおあつらえ向きの場所だ。
心身ともに疲弊していた僕は、決して寝心地がいいとは言えない固い地面に横たわり、そのまま泥のように眠った。
が、僕は大事なことを忘れていたんだ。そんな条件のいい場所に先人がいないはずない。
僕の安寧は長くは続かなかった。火箸を押し当てられたような激痛が脚に走り、その刺激で僕は飛び起きた。
まず目に入ったのは、肉がえぐれて血に塗れた骨が丸見えになった自分の足だった。次に目が行ったのは、口周りを血塗れにしてなにかを咀嚼している化物だった。その少女の形をしたツギハギだらけの化物は、僕と目を合わせながら苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……マズイ!」
******
吸血鬼は大きく息をつき、長い長い話をこんな言葉で締めくくった。
「その後なんやかんやあって僕はこのダンジョンに住むことになったんだ」
「……なんていうか、吸血鬼ってダンジョンの外でよく生きてこられたよね」
俺の率直な感想に、吸血鬼は面食らったような表情を浮かべる。
「な、なんだその物言いは。もとはといえば狼男が――」
「分かった分かった。お陰でダンジョンでの生活がどれだけ快適なのか理解できたよ」
俺はニッコリ笑って吸血鬼にそう告げる。
どうやら俺たちは想像以上にこのダンジョンの恩恵を受けているらしい。
だが俺にとってそれ以上に重要なのは、ダンジョンの仲間たちの存在だろう。吸血鬼だって一人きりで当てどなく彷徨う旅よりダンジョンで仲間たちと過ごす生活の方が気に入っているのではなかろうか。まぁ彼の本心は分からないが、少なくとも俺は一人ぼっちで死んで、そのまま幽霊になっていたら寂しくて気が狂っていたかもしれない。
ソファに座る吸血鬼の背後にそろりそろりと忍び寄るゾンビちゃんを見ながら、俺は心の底からそう思った。暇を持て余した彼女は、その手に持った泥団子を吸血鬼の顔にでもぶつける気なのだろう。
「なにをニヤニヤしてるんだ? 気持ち悪いぞ」
「いや、別に」
俺は慌てて表情を整え、吸血鬼から目を逸らす。
そして吸血鬼が悲鳴を上げ、ゾンビちゃんが歓喜の声を上げるその瞬間を、ただジッと待つのだった。




