109、大人だって歯医者は恐い
「ああくそっ、こいつよくも……!」
地面に転がり動かなくなった冒険者に悪態をつく吸血鬼。彼は怒りに任せて冒険者の握ったモーニングスターを蹴り飛ばす。その行為からも分かる通り、戦いを終えてなお吸血鬼の体はしっかりと動くし四肢ももげていない。大きなダメージもなく内臓も出ていない、特別苦戦を強いられたわけでもない。
ではなぜ彼がこんなにも不機嫌なのか。それは息も絶え絶え瀕死の冒険者の一撃が、勝利を確信し余裕ぶっていた吸血鬼の顔面にクリーンヒットしたからである。
顔への攻撃というのは痛みはもちろんだが、精神的ダメージも大きい。瀕死の冒険者のひ弱な一振りとはいえ、鈍器で頬を殴られたショックは大きかったのだろう。吸血鬼は腫れた頬を押さえながら落ち着きなくウロウロしている。
「まぁ落ち着いてよ。切り刻まれた訳でも潰された訳でもないんだから、それくらいすぐ治るって」
「そういう問題じゃない! くっ、自分の血の味は最悪だ……!」
吸血鬼は苦痛に顔を歪めながら忌々しそうに口の中の血を吐き捨てる。瞬間、地面から「カツン」と固いものの転がる音が上がった。
思わず視線を向けると、小さな小さな血だまりに混じる、白く尖った陶器の欠片のようなものが目に飛び込む。
「あっ!? 吸血鬼、これもしかして……」
「ん……? うわっ!?」
吸血鬼も足元の血だまりに目を向け、そして悲鳴にも似た声を上げる。その拍子に見えた吸血鬼の口の中には本来あるはずの立派な牙がなく、代わりに空虚な穴が広がるばかりであった。
*******
歯が折れるというのは物凄くショッキングな出来事である。歯――特に前歯は人の目によく触れる場所だ。
大抵のことは許されてしまう「イケメン」すら、笑った時に歯がなければ女の子にドン引きされてしまう事だろう。
その上、サメならまだしも人の場合歯は一生に一度しか生え変わらない。笑顔を浮かべるたびに他人からギョッとされる恐怖を味わいたくなければ、高い金を歯医者に払って義歯を作ってもらう必要がある。
とはいえ、それは「人間」に限った話。
四肢をもがれても心臓を潰されても復活するアンデッドにとって、歯が折れたことなんて大した問題ではない。
俺も吸血鬼もそう信じて疑わなかったのだが、事態は思ったより深刻であった。
「食料の貯蓄については順調だけど、勝率は前月比マイナス10%。連日の戦いで疲れているのはもちろん分かるんだけど、もう少し勝率を高めるために――」
殺風景な会議室の中心、大きな長机の周りにずらりと並んだアンデッドたちが静かに俺の話に耳を傾けている。
とはいえ、俺の話がしっかりと頭に入っている者がどれだけいるのか怪しいものであった。何体かのスケルトンたちは虚ろな表情でここではないどこかを見つめているし、ゾンビちゃんに至っては椅子にも座らず部屋の隅で猫のように丸くなって寝ている。全く困ったものである。
と思ったのも束の間。我がダンジョンのボス、吸血鬼までもが「お前の話は退屈だ」とでも言わんばかりの大あくびをした。
「えっ。吸血鬼」
思わず声を上げると、吸血鬼は苦笑いを浮かべながら机に頬杖をつく。
「これは失礼。だが君の話は堅苦しくて――」
「まさかまだ歯が治ってないの?」
俺はこれから喋ろうとしていた作戦も、今現在会議中であることも忘れ、吸血鬼にそう尋ねる。すると吸血鬼は「しまった」とばかりに慌てて口を押え、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「あー……なんだか調子が悪いみたいでな。きっと疲れているせいだ、最近回復が遅くて」
「いやいや、そんな訳ないでしょ。顔の怪我は治ってるじゃん。ちょっと見せて」
「い、いや……」
今までうつらうつらしていたスケルトンも、それからまるで会議に参加しようとしていなかったゾンビちゃんさえ、興味津々とばかりにこちらに視線を向けている。しばらく口に手を当てて目を泳がせていた吸血鬼だったが、数度目の催促の後ようやく観念したのか彼は渋々その手をどけた。俺と、それから周りにいた数体のスケルトンが吸血鬼の口を覗き込む。
牙は確かに無残にも折れているものの、その歯茎からは微かに残った歯が頭を覗かせていた。
「うーん、根元から折れてるね。でも根っこはまだ歯茎の中に残ってるみたい」
『変な折れ方したせいで上手く生え変われないんじゃ?』
スケルトンはそんな文言の載った紙を掲げ、誇らしげに自らの白い歯を鳴らす。
それに釣られたのか、他のスケルトンも歯を鳴らしながら次々と紙を掲げた。
『多分きちんと根元から抜かないと次の歯が生えない』
『この大きさじゃペンチで引っこ抜くのは無理』
『歯茎を切開して取り除くのは?』
手術前のカンファレンスのような言葉が会議室のあちこちから上がる。普段の会議でもこれくらい発言してくれれば良いのだが。
俺はため息を吐きながら熱い議論を交わすスケルトンたちを制止した。
「ちょっと待って、さすがに今回は本職に任せた方が良いんじゃないの? 魔物の歯医者だっているでしょ。コウモリ便を飛ばせばすぐ――」
「ま、待て! 歯医者はダメだ、歯医者だけは!」
俺の言葉に異議を唱えたのは、不服そうな視線をこちらに向けるスケルトンではなく、真っ青な顔をした吸血鬼であった。
彼は引き攣った顔に無理矢理笑みを浮かべ、言い訳がましくペラペラとしゃべり始める。
「心配してくれているのはもちろん嬉しいが、そんな大袈裟にしなくたって僕は大丈夫だ。明日になれば生えているかもしれないし、もしダメだったとしても同じ場所にダメージを受ければそのうち抜けるだろう」
「はぁ? そんなの、いつになるか分からないじゃん。それまでずっとその状態で過ごすの?」
「べ、別に歯が一本ないくらいどうってことないさ。戦闘中にペラペラお喋りをしなければ冒険者にバレることもないし、僕はなにも困らないぞ」
「……本当? 折れたところは全然痛まないの?」
「ああ、全く!」
「……ほんの少しも染みたりしない?」
「ああ、もちろんだとも!」
そう言って胸を張る吸血鬼の横で、スケルトンがそっと紙を掲げた。
『さっきストローで血液飲んでたよ』
「あっ、馬鹿! 言うな!」
吸血鬼はスケルトンの手から紙をぶんどり、くしゃくしゃに丸めてそれを部屋の隅に放り投げる。俺の視線に気が付くと、吸血鬼は目を泳がせながら慌てたように口を開いた。
「ち、違うぞ。もともと少し知覚過敏気味で……」
「あのさぁ吸血鬼。恐いのも分かるけど、子供じゃないんだから」
「……恐いのも分かる、だって? いいや、お前は『歯医者』を何も分かっちゃいない!」
引き攣っていた吸血鬼の顔に、今度は怒りの表情が浮かぶ。
どうやら少々追い詰めすぎたらしい。これは俗に言う逆切れというやつだ。
「歯医者の正体を知らないからそんな無責任なことが言えるんだ! 良いか、歯医者っていうのはサディストだぞ」
「いきなり何言って――」
「ならば聞こう。君はあいつらがなぜ患者の顔にライトを当てるか知っているか?」
吸血鬼は妙な威圧感を放ちながら俺にそう尋ねる。何か言わなければ話を進めてもらえなさそうだ。俺は渋々吸血鬼の質問に答える。
「そりゃあ、歯をよく見るためじゃ」
「いいや違うね。苦痛に歪む患者の顔をよく見るためだ」
「そんなバカな……」
「ではあいつらがなぜマスクをするか知っているか?」
「ええと、歯の破片とか唾とかが顔にかからないようにするためでしょ?」
「違う! 嗜虐心が満たされ、歪な笑みが浮かぶ自分の顔を患者に見せないためだ!」
「いやいや、歯医者に怒られるよ……」
俺は苦笑いを浮かべ、吸血鬼をたしなめる。
ところが、よく見れば吸血鬼の顔は真剣そのもの。苦し紛れにただ開き直っただけ、というわけでもないらしい。
……今までの言動がすべて本気だとしたら、それはそれで問題ではあるが。
「吸血鬼、よっぽど歯医者にトラウマあるんだね」
同情的な口調でそう言ってみると、吸血鬼は沈んだ表情を浮かべて頷いた。
「ああ。奴らは幼気な子供だった僕の口にペンチをねじ込んで無理矢理歯を引き抜いたんだ。怯える僕に『痛くない』と嘘までついてな。左手だって上げたのに、奴らは歯を抜く手を止めようとはしなかった……。それ以来、僕は歯医者という人種を信用しないことにしている」
「そんな昔の事今でも引きずってるの……?」
「何言っているんだ! 幼気な子供にすら容赦しない奴らが、アンデッドにどんな仕打ちをするか――」
「分かった分かった。でもやっぱり今のままじゃ不便だし、歯の治療はしないと。歯医者が信用できないっていうならスケルトンたちにやってもらおう」
俺の言葉にスケルトンたちがにわかに色めき立つ。どうやらやる気は十分であるらしい。
不安そうな表情を浮かべてはいるものの、吸血鬼も俺の言葉に頷く。
「ま、まぁ歯医者に頼むくらいなら素人にやってもらった方がややマシではあるが……」
「よし決まり! じゃあスケルトン準備して!」
*********
『ねぇ歯茎ってどんなだっけ』
『忘れた』
『あのピンクのやつだろ』
『器具は揃った? メスは?』
『メスなんてない。ここはオスばっかりだよ』
『黙れ』
『くだらないなぁ』
『短剣で良いよもう』
『金槌はいる?』
『ノミはある』
『ノコギリ持ってきたよ、一応ね』
不穏な会話が飛び交い、日曜大工でも始めるのかと思うような道具が簡易な手術台に寝かされた吸血鬼の周りへと次々運ばれていく。知らない人が見たらこれから拷問でもされるのか、あるいは死体の解体でもするつもりかと思われる事であろう。
第三者である俺ですらこれから吸血鬼を襲う「治療」に身がすくむくらいだから、本人からすれば死んだ方がマシかもしれないと思うほどの恐怖だろう。しばらくは手術台の上で大人しく体を強張らせていた吸血鬼だったが、ノコギリが枕元に置かれたあたりで体を起こし立ち上がった。
「ちょっ、吸血鬼!?」
「や、やっぱり嫌だ!」
そう声を上げ、逃げ出そうとする吸血鬼をスケルトンたちが慌てて押さえつける。
「なんだよ今さら!」
「離せ! こんなに恐い思いをするくらいなら歯の一本や二本無い方がマシだ!」
「だから子供みたいなこと言うなって! みじん切りになった経験も内臓ぶちまけた経験もあるでしょ? それに比べたら歯の治療くらいどうってことないから!」
「いいや、嘘だね! 歯の痛みってのは他のどこの痛みよりも辛く苦しいんだ。あれに比べれば八つ裂きにされるくらいどうってことない。どうしてもと言うなら麻酔を用意しろ! 鎮痛薬もだ!」
「麻酔なんてあるわけないじゃん」
「なら治療はやめだァ!」
吸血鬼はそう叫びながら押さえつけようと飛びかかるスケルトンを次々放り投げていく。
彼を力づくで押さえつけるのは至難の業だ。ゾンビちゃんに協力を仰げば拘束することもできるかもしれないが、無理矢理手術をするのは吸血鬼にとってもスケルトンにとっても危険である。とはいえ、麻酔なんて簡単に入手できるはずも……
「マスイ……大人しくサセレバ良イ?」
いつの間に潜り込んだのだろう。ゾンビちゃんが手術台の後ろからぬっと顔を出してそう言った。
俺はギョッとしつつゾンビちゃんの言葉に頷く。
「え? まぁ、そうだけど……」
「フーン」
ゾンビちゃんは何でもないようにそう言うと、手術台の上に飛び乗り吸血鬼の頭を両手で掴んだ。
「な、何を――」
「ヨイショ」
掛け声とともに、ゾンビちゃんは吸血鬼の首をぐるんと捻る。
「あっ」
ゴキゴキッと嫌な音と共に吸血鬼の首が妙な方向に曲がる。次の瞬間、吸血鬼は受け身も取らずうつぶせの格好で地面へ倒れこみ、そのまま動かなくなった。
「ハイ、寝カセタよ! 褒メテー」
「う、うん。確かに大人しくなったね……ありがとうゾンビちゃん」
かなり乱暴な方法ではあるが、確かに意識はないし暴れ出す心配もない。心肺が停止していることに目をつむれば、全身麻酔と言えなくもない……か?
「ま、まぁやっちゃったものは仕方ないか。改めて……手術、始めよう」
俺の合図に合わせて、スケルトンたちはいっせいに大工道具――じゃなかった、手術道具を意気揚々と手に持った。
だが歯に関して我々はしょせん素人。手術は想像以上に困難を極めた。
『うわっ、血で滑るね』
『見にくいな』
『もっとほじるね』
『あれ? ここどうなってるの?』
『狭い。ここもう少し裂いて良い?』
「あっ、スケルトンもうちょい右。いや、そっちじゃなくて……うわっ……あーあ……」
吸血鬼に意識があったら卒倒するようなセリフや、工事でもしているようなゾッとする音が飛び交う。
道具もスケルトンの手もみるみる血に染まり、手術台ももはや血の海だ。とめどなく溢れる血のせいで患部がよく見えず、まさに手探り状態。
図らずも、俺たちは吸血鬼があれだけ憎んでいた歯医者の凄さを身をもって体験することとなった。
*******
「おお、綺麗に治ったじゃないか! すごいぞ君たち、さすがの仕事ぶりだな!」
手術からおよそ数時間。
大規模な手術とゾンビちゃんによる「麻酔」のせいで回復にはだいぶ時間がかかったものの、俺たちの努力が実を結び、吸血鬼の口には見慣れた牙が生えてきていた。
まだ麻酔による違和感があるのか変な方向に首を傾げてはいるものの、吸血鬼はその仕上がりに満足しているようだ。
だが手術の過程を実際に見ていた俺は、罪悪感が胸にのし掛かってきて吸血鬼の顔を直視することができない。
「はは……よ、よかったね」
俺は目を逸らしながらやっとの思いでそう絞り出す。
だが真に凄いのは俺たちではなく吸血鬼の治癒能力だ。俺たちがやったのは「治療」というよりは「破壊」である。
自分の顔や髪に異常な量の血がべったりとこびりついていることに、吸血鬼はまだ気が付いていないようだった。




