105、モノマネ
「暇だなぁ……」
「お腹ヘッタナァ……」
雨粒が地面に叩きつけられる音を遠くに聞きながら、俺たちは浮遊霊の如くダンジョンを彷徨っていた。
いや、彷徨っているというのは少し違うか。正確に言うと、俺は緩やかにゾンビちゃんから逃げていて、ゾンビちゃんは緩やかに俺を追いかけているのだ。
近頃雨が降る日が多く、そんな日はダンジョンを訪れる冒険者もほとんどいなくなる。そのせいで冒険者の新鮮な肉を食べられず、いつも以上にお腹を空かせたゾンビちゃんは倉庫の中の肉をねだるべく俺の後ろをくっついて歩いているのだ。
もちろん俺だってお腹を空かせたゾンビちゃんに肉をあげたいのは山々だ。とはいえ、油断しているとあっという間に寒さの厳しい冬になる。冬に飢え死にしないためにも、そう簡単に倉庫の中身を減らすわけにはいかない。と言う訳で、俺はゾンビちゃんから目を逸らしながらふらふらとダンジョンを宛もなく歩いているのだ。
だが考えなしに歩いていたのがアダとなったか、いつの間にか知能無きゾンビの彷徨うフロアにまで上ってきてしまったようだ。このままだとダンジョンの入り口へ辿り着いてしまう。そろそろ引き返さなければ、などと考えていたその時。
「アッ! でっかいネズミ!」
ゾンビちゃんが俺の後ろで不意に声を上げる。その声に振り向き、彼女が嬉々として指差す方向に視線を向けると、確かに全身に毛を生やした四足歩行の獣がこちらへ歩いてくるのが目に入った。しかしネズミにしてはかなり大きい。闇の中に浮かぶシルエットもネズミのものとは全く違う。
俺はゾンビちゃんの方に向き直り、彼女の間違いを訂正した。
「ゾンビちゃん、アレはネズミじゃなくて犬って言うんだよ」
「イヌ? イヌカワイイ、オイシソウ!」
犬でもネズミでも、ゾンビちゃんにはそう大差ない事であるらしい。
いつもネズミに対しそうしているように、ゾンビちゃんはそろりそろりと犬へ近付いていく。それも満面の笑みを浮かべて、だ。
「ええっ、犬食べちゃうの……?」
不思議なもので、ネズミはもちろん人間が食べられることに対して何の感情も抱かないのに、犬が食べられるのは可哀想に思えてしまう。
人に慣れているのだろうか。その犬は待ち受けている残酷な運命も知らず、無邪気に尻尾を振りながら人に似た姿の化物に自ら走り寄っていく。
こんな感覚は久しぶりである。恐らく犬が食べられることに慣れていないからだ。ダンジョンに犬が入り込むことなんてそうそう――
「……あれ、なんでこんなとこに犬がいるんだ?」
そうだ、よくよく考えればこのダンジョンに野生動物が入り込むなんて今までに無かったことである。通常は動物がダンジョンに入り込んだとしても入口付近の知能無きゾンビに襲われ、ここまで来られないのだ。
ゾンビの攻撃を避けつつここまで来たというのも考えられなくはないが、ゾンビに追いかけられて命からがら逃げ延びてきたにしては全く怯えの色が見えない。
「ゾンビちゃん、なんかそいつ怪し――」
しかし注意も虚しく、ゾンビちゃんは俺の声など聞こえていないかのようになんの躊躇いもなく犬に手を伸ばす。
彼女の蒼い指が犬の鼻先をかすめたその瞬間、犬の頭がグニャリと歪んだ。
「アレ?」
瞬く間にほとんど透明のジェルと化し、膨張した犬の体がゾンビちゃんを濁流のごとく飲み込む。予想外かつ突然のトランスフォームにゾンビちゃんは全く動くことができず、逃げることはおろか悲鳴すらろくに上げられないまま今やほとんどゼリーと変わらない見た目となった犬の体に取り込まれてしまった。
「うわあああっ!? ゾンビちゃん大丈夫!?」
予想外かつ突然のトランスフォームに動揺しているのは俺も同じである。怪しいとは思ったが、体が液状に変化する事までは想像していない。
そして俺を動揺させる出来事はそれだけに留まらなかった。
ゾンビちゃんを包むゼリーにみるみる赤黒いモヤが広がって行くのだ。それは紛れもなくゾンビちゃんから吸い出された血液であり、透明だったゼリーを赤黒く染めてゾンビちゃんを覆い隠してしまった。
「うっ……」
ブヨブヨした赤黒い血の塊と化した化物を前に、俺は言葉を失った。この出血量だ、ゼリーに囚われたゾンビちゃんが無事であるとは考えにくい。自力での脱出は不可能と考えるのが自然である。そしてもちろん、俺が直接ゾンビちゃんを助けることもできない。
ここまで来て、混乱のさなかにあった俺の中にようやく「助けを呼ぶ」という選択肢が生まれた。
「ちょっと待ってて、今すぐ誰か呼んでくるから!」
俺はそう声を上げながら、ゼリーの中のゾンビちゃんに背を向けて走り出した。
それからおよそ15分後。
俺は自室で通販カタログを読みふけっていた吸血鬼を半ば無理矢理部屋から連れ出し、例の事件が起こった現場へと共に向かっていた。
「こっち、こっちだって。早くして!」
「一体何の用だ。人を呼びつけるなら先にその理由を説明しろ」
吸血鬼は俺の指示通りに通路を走ってはいるものの、眉間には皺を寄せ明らかに不機嫌そうな表情を浮かべている。大慌てで連れ出したため、「ゾンビちゃんが危険な状況である」ということ以上の情報を伝えられていないのである。
俺は走る速度を落とさず、こんがらがった頭をできる限り整理しながらつい先ほど起こった出来事を言葉にしていく。
「ええと、とにかく大変なんだよ! 犬が入ってきたと思ったら液状の化物になって、ゾンビちゃんに襲い掛かったんだ。それから血を吸われて、うーんと……まるで煮凝りみたいになっちゃってるんだよ!」
あの時の光景を頭に浮かべながら、俺は吸血鬼に事件の一部始終を伝えた……つもりだった。しかし俺の説明が悪かったのだろう。吸血鬼は怪訝な表情を浮かべて言う。
「はぁ? あいつが、なんだって?」
「だから! ゾンビちゃんが――え?」
再び説明をしようと口を開きかけたその時。思わぬものを目にし、俺は思わず足を止めてその場に立ち尽くした。
一方、吸血鬼は目の前の光景を眺めながらゆっくりとした口調で俺にこう言い放つ。
「いいか、もう一度聞くぞ。あいつが一体どうしたっていうんだ?」
「あ、あれ……?」
俺は吸血鬼の質問に明確な答えを返すことができず、ただただ狼狽えるばかりであった。
なぜなら、俺たちの目の前に元気な姿のゾンビちゃんがいたからである。煮凝りのような状態にはなっていないし、あのゼリー状の化物も、もちろん犬も俺たちの目の届く範囲には見当たらない。
まるで幻覚でも見ていたかのように、なにもかもが「あるべきダンジョンの姿」に戻っていた。
「もう良いか? 僕も忙しいんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 確かに……」
そう言いかけて、俺は吸血鬼を呼び止める言葉を飲み込む。
俺が彼を呼んだのはあくまでゾンビちゃんを化物から救うためである。しかしゾンビちゃんは現に俺たちの目の前にいて、血の一滴すら流れていない。そして化物の姿もどこにも見当たらない。
これ以上吸血鬼に頼めることなど何もなかった。
俺は去っていく吸血鬼の背中を横目に、暢気に地面に座り込むゾンビちゃんに尋ねる。
「ねぇ、一体どうしたの? あの後なにが起こったの?」
「イヌ……」
「そうだよ、あの犬は? どうやって逃げ出したの?」
「イヌ……カワイイ……」
「ゾ、ゾンビちゃん?」
ゾンビちゃんは俺のことなど見えていないかのように、何もない通路を見つめながら嬉々として声を上げる。
「イヌ……イヌカワイイ……オイシソウ!」
そう呟いた後のゾンビちゃんの表情は、先ほど例の犬を発見した時と寸分違わぬ満面の笑みであった。
********
暗く、埃っぽい、無数の棚が並べられた大きな部屋。
ここには冒険者たちの鞄から出てきた古今東西様々な本が集積され、なかなか外の世界を見ることのできない俺たちアンデッドの見識を広めるのに一役買っている、いわゆる「図書室」だ。
普段はあまり人気のないこの部屋だが、今日は閉店セール中の古本屋並の混雑を見せている。俺がスケルトンたちをこの部屋に集めたからだ。
すべては俺の見たあの化け物の正体を探るためである。
「スライムみたいな粘液状の体を持つ、もしくはそういった状態に変化ができて、そして他の生物に擬態する魔物――なにか、それっぽいの見つかった?」
期待を込めて尋ねるが、スケルトンたちは視線を落としたまま静かに首を振る。
ここにある本のほとんどは冒険者の遺品だ。その性質上、本の種類にはかなり偏りがある。小説など読みものの類は少なく、主流となるのは地図や魔導書などの実用書、そして「魔物図鑑」だ。
これだけの魔物図鑑を片っ端から調べれば、なんらかの情報は見つかるはず。そう信じてスケルトンたちに情報収集を頼んだのだが、残念ながら今のところ有益な情報は得られていない。
胸にくすぶる一抹の不安と共に図書室をうろうろと彷徨っていたその時。
「ネェ」
不意に声がして振り返ると、不機嫌そうな表情を浮かべたゾンビちゃんと目が合った。
俺は思わず口から飛び出そうになる悲鳴を何とか飲み込み、引き攣った笑みを浮かべながらスケルトンたちに目配せをする。
「あ、ゾ、ゾンビちゃん……なんでこんなとこに……」
俺は絞り出すようにそう言いながら、そっとゾンビちゃんを観察する。
確かに見た目や声は完全にゾンビちゃんだ。だがあの化物が犬に擬態して俺たちに近付いてきたことを考えると、このゾンビちゃんも本当にゾンビちゃんなのか怪しい。しかもあの時のゾンビちゃんの様子……まるでモノマネの練習をしているかのようだった。
まさか化物について嗅ぎまわっていたことがバレたのか。だとするとここにいるスケルトンたちも危ない。
「い、一体どうしたの?」
俺はできる限り平静を装いゾンビちゃんにそう尋ねる。
すると彼女は頬を膨らませ、いつもと全く変わらない様子でこう言い放った。
「お腹スイタ! ニクまだ!?」
「……え? に、肉?」
思わぬ言葉に首を傾げていると、スケルトンが思い出したようにペンを取り出し紙に走らせた。
『夜になったら肉あげるって、約束してた』
「あ……そういえばそんな事言ったね」
朝、朝食の保存用干し肉の量に文句を言っていたゾンビちゃんに「夜になればまた肉を上げるから、それまで我慢しろ」というようなことを言って宥めていたのだ。もちろんゾンビちゃんがそんな言葉で静かになるわけもなく、文句を言いながら俺を追いかけていたわけだが、約束自体は覚えていたようだ。
彼女の言葉により数体のスケルトンが手に持っていた図鑑を置き、ゾンビちゃんを連れて図書室を後にした。
俺は図書室の扉が閉まるのを見て大きくため息を吐く。
「はぁ。何されるかと思ったけど、出て行ってくれてよかった。じゃあ残ったスケルトンたちは引き続き情報収集を――」
『ねぇレイス』
一体のスケルトンが手に持っていた図鑑を机の上に置き、一枚の紙を掲げた。俺が喋るのをやめてその紙を見つめると、スケルトンはさらに紙へ文字を付け足していく。
『約束したのって朝?』
「ああ、夜になったら肉をあげるってヤツ? そうだよ」
『化物が現れたっていうのはその後、午後になってから?』
「そ、そう……だけど」
『化物が入れ替わったって言うなら、朝にした約束を覚えてるなんておかしい』
スケルトンのその言葉に、他のスケルトンたちもつられるようにして紙を掲げていく。
『確かにおかしい』
『別に変な様子もなかったし』
『魔物なんてとっくに死んでるんじゃないの?』
スケルトンたち一人ひとりの心にくすぶっていた疑惑が爆発的な勢いで図書室中に広まっていく。
「で……でも! 俺が見た時はゾンビちゃんの様子もおかしかったんだよ!」
『死んだ魔物を食べてお腹壊してたんじゃ?』
『もともと空腹だし、まともな精神状態じゃなかったんだよ』
「うっ……」
ゾンビちゃんの様子はおかしかった。それは間違いないし、スケルトンたちの言う「混乱」とも多分違う。
だが今の俺にはスケルトンたちの推理を否定し、説得するだけの材料を持ち合わせていない。すべては俺の感覚でしかないのだ。
『まだ仕事あるから、とりあえずそっちに戻るよ』
何も言い返せない俺を横目に、スケルトンたちは本を置いて次々図書室を後にする。
残ったのは数体のスケルトンのみ。だが彼らも半信半疑といった様子で俺のことを見つめている。
「違うんだ……勘違いなんかじゃない。確かに……」
いつもの静けさを取り戻した図書室に、俺の情けない声がいやに大きく響く。
いっそ「俺の勘違いだった」と認めてしまった方が楽なのかもしれない。そんなはずはない……とは思うものの、これだけ多くの人に否定されれば決心も揺らぐ。
今に心が折れそうになるのを感じていたその時。
不意に図書室の扉が開き、思わぬ人物が部屋へと足を踏み入れた。
「うっ……なんだかいつにも増して埃っぽいな」
開口一番文句を言いながら入ってきたのは、眉間に皺を寄せて口元を手で隠した吸血鬼だ。
彼はすっかり数の減ったスケルトンと心の折れかけていた俺に視線を向け、至って真面目な表情で口を開いた。
「あいつの事調べてるんだってな。僕も手伝おう」
「……えっ、吸血鬼が? でもさっきは」
「あの時は君が早とちりをして僕を呼びつけたんだと思った。だがあの後、小娘に会ったんだが……その際の様子がおかしくてな。というか、変な事を言われたんだ」
「変な事?」
「ああ」
吸血鬼は胸の前で腕を組み、怪訝な表情を浮かべて口を開く。
「『忘れてしまったのか』とか『分からないのか』とか……具体的なことは言わないんだが、妙に馴れ馴れしく付きまとってきてな。良く分からないが、あいつがおかしいのは確かだ」
「『忘れてしまったのか』……? うーん、なんだろう。もしかして最近犬を助けたりした? 罠に掛かってるとこを救ってあげたりとか」
「そんな記憶はないが」
「じゃあ、液状の魔物に親切にした経験ない?」
「……一体何が言いたいんだ?」
「いや、鶴だって恩返しをするんだから、もしかしたら魔物もゾンビちゃんの姿を借りて吸血鬼になにかしようとしてるのかなー……とか思って」
吸血鬼は俺の言葉にため息を吐き、呆れたように首を振る。
「……レイス、馬鹿なこと言ってないでさっさと情報を集めるぞ」
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たった一人人員が増えた程度で作業ペースは大して変わらないし、吸血鬼の証言も化物の正体を特定する手掛かりにはなり得なかった。
しかし吸血鬼の言葉は俺の心が折れるのを確実に防いでくれた。俺と同じ考えを持つ者が現れたことにより、残ったスケルトンも、そして俺自身も自分の考えと直感を信じることができるようになったのだ。
そして図書室に収められた膨大な図鑑を調べていくこと数時間。
一体のスケルトンがページを捲る手を止め、突然ガシャガシャと騒ぎ始めた。
「ど、どうしたの?」
「何か見つかったか」
俺たちは本を机の上に放り投げ、騒ぐスケルトンの元へと競うように駆け寄る。
興奮のあまり筆談することも忘れ、ガシャガシャと全身の骨を打ち鳴らしながら、弾丸を受け止められそうなほど分厚い図鑑のある一ページを指差す。ページ上部にはやや大きめの文字で「モノマネスライム」との見出しが踊っていた。
俺ははやる気持ちを抑え、その下の細かな文字をゆっくり読み上げていく。
「ええと、『スライム状の体を持つ不定形モンスター。存在は確認されているものの、その生態はあまり知られていない。常に何かに完璧に擬態し、その正体がバレるのは大抵その個体が死んだときだからだ。このモンスターは捕食した物に擬態することができ、自分を襲おうとする天敵を逆に捕食し擬態を繰り返すことで食物連鎖を駆け上がっていく』……間違いない、ゾンビちゃんを襲ったのはこの魔物だよ!」
俺は嬉々として声を上げ、さらにその先の文章を読み進めていく。
「『擬態と言っても真似るのは姿形だけではない。捕食し、血液を取り込むことでその個体の性質、骨格、臓器、脳までほぼ完璧にコピーし、その者の記憶すら持っているという。血液を吸い出したあとのカスを地面に埋めることで、モノマネスライムは擬態したものに完璧に成り代わるのだ』」
「ということは……本物の小娘は空気の抜けた風船のような状態で地中に埋まっているのか」
「そ、そうだね。早く助け出さないと」
「しかし小娘の性質をコピーしているとなると、ヤツも不死身の上に怪力を持っていると言う事になる。厄介だな」
「待って、ええと……」
俺はそう言いながら半透明の指で図鑑の細かな文字をなぞっていく。
どんな強力な化物にも――いや、強力な化物ほどあっけない弱点があるものだ。この法則は「モノマネスライム」にも当てはまったらしい。狙い通り弱点に関する記載を見つけることができた。
「弱点は塩だって! 大量の塩に触れるとナメクジみたいに溶けるって書いてある」
「なんだ簡単じゃないか。よし、ならさっさと偽物を始末しに行くぞ。あんな大食漢が二人もいたんじゃ、うちの食料庫が空になってしまうからな」
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「よーし、装備は万全だ。早く気味の悪い化物を退治するぞ」
壺入りの塩と魔物図鑑を携え、吸血鬼は殺る気満々とばかりに目を光らせている。そして早速とばかりにゾンビちゃん目撃情報のあった方角へ足を進めていくが、俺は慌てて彼を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待って。まずゾンビちゃんを救出しようよ。本物の方」
「そんなのはスケルトンに任せておけばいいだろう」
「でも戦力は多い方が」
「なにを怯えているんだ。塩を掛ければ死ぬ雑魚だろう? 第一、血を絞り出されてヘロヘロの小娘を発掘したところで戦力にならないぞ」
「そ、そっか……じゃあスケルトン、ゾンビちゃんの救出は任せたよ」
スケルトンは俺の言葉に頷き、早速通路を駆けだしていく。
俺たちもニセのゾンビちゃんを見つけるべくゆっくりと歩きだした。
ニセのゾンビちゃんを見つけるのはそう難しくはなかった。
正体がバレていることも知らず、ヤツは相変わらずゾンビちゃんのフリをして何の警戒もなく地面に寝そべっていたのである。この状況なら塩をぶつけることも簡単にできる。
だがそれではつまらないと思ったのだろうか。やめておけば良いのに、吸血鬼は塩の詰まった壺を見せびらかすように掲げ、ニセゾンビちゃんに挑発的な視線を送る。
「おい化物。いつまで小娘のふりを続けているつもりだ?」
「エ? ナニ?」
ゾンビちゃんはきょとんとした表情を浮かべてこちらに目を向ける。恐らくこのまま白を切るつもりだったのだろう。
だがその目が吸血鬼の持つ壺に向いた瞬間、彼女の顔色は一変した。
「ソ……ソレ……」
「ふははは、貴様の大嫌いなヤツだよ!」
吸血鬼は嬉々として壺を持ち上げ、高く掲げる。
ゾンビちゃんは身構えるように体を起こしながら、鋭い視線を吸血鬼に向け、吐き捨てるように言った。
「ホントにバカなヤツ! ソレを掴ンダラ――」
「掴んだらただじゃおかないっていうのか? 面白いな、やってみろ化物!」
「同族を殺ス気ナノ!?」
吸血鬼は壺を構え、じりじりとゾンビちゃんとの距離を詰めていく。
「この期に及んで何が同族だ。貴様アンデッドにでもなったつもりか?」
冷たく言い放し、吸血鬼は壺に入った塩を掴んで容赦なくゾンビちゃんに投げつける。
塩の塊はゾンビちゃんの頭にぶつかって粉々に砕け、彼女の全身に降り注いだ。
「あっ」
一瞬硬直したように固まった後、ゾンビちゃん――いや、化物は初めて会った時のようにほとんど透明の液体と化し、地面に大きな水たまりを作った。しかしそのジェル状の体が再び動いて俺たちを襲うようなことは無く、本当にただの水のように静かに地面に溜まっていた。
「し、死んだ……?」
「ははは、あっけないものだな」
「うん、終わったんだね。あとは本物のゾンビちゃんが見つかれば――」
言い終わらないうちに、どこか遠くの方から忙しない足音が聞こえてくる。それは徐々に大きくなっていき、やがて暗い通路の奥に人影が見えた。
「おお、スケルトンたちも小娘を見つけたんじゃないのか」
「そうみたいだね……ん? でも、なんか……あれ?」
徐々に近づいてくる人影の姿がはっきり確認できるようになり、俺は息を呑んで言葉を失った。
そこにいたのはスケルトンでも、ましてやゾンビちゃんでもない。
アイツが向こうから歩いてきて俺の目の前に立つなんて、本来あり得ないことだ。アイツは既に俺の隣にいるのだから。
「やぁ、一週間ぶりだなァ」
そう言って俺たちに軽く手を上げたのは、吸血鬼であった。
「えっ……な、なんで吸血鬼が? ゾンビちゃんは……」
二人の吸血鬼を前にして、俺は頭がこんがらがって爆発するのをなんとか抑えながらそう呟く。
すると向こうから歩いてきた方の吸血鬼が、俺の疑問に訳知り顔で答えた。
「ああ、安心しろ。小娘もちゃんと救出されたぞ。まぁあれだけぐちゃぐちゃだとしばらくは指一本動かせないだろうがな」
「ゾンビちゃん……『も』?」
俺は近付いてきた吸血鬼と、塩の壺を抱え俺の隣で立ち尽くす吸血鬼とを何度も見比べる。俺の隣にいる吸血鬼はパリッとしたシャツと上着を纏い、髪も美容院帰りみたいに整えられていて……一言で言えば「いつもの姿」だ。
一方、俺の目の前の吸血鬼は適当に丸めたまま何日も放置していたような皺だらけの服を纏い、髪も乾かさずに寝てしまったみたいにボサボサ、不眠不休で仕事をしていたみたいに疲れ切っているのに目だけは飢えた獣みたいにギラギラ輝いていて、そして何より全身泥塗れだ。まるでさっき地中から発掘されたみたいに――
「なっ、まさか……」
俺は慌てて隣にいる吸血鬼から飛び退く。
その瞬間、俺はあることに気が付いた。吸血鬼の右手が、無いのだ。袖から透明なしずくが滴り落ち、地面に小さな水たまりを作っていることに当の吸血鬼は気付いていないようだった。
「なんだ? お、おいレイス、アイツはなんなんだ!?」
吸血鬼は手首から先の無くなった右腕をもう一人の吸血鬼に向け、悲鳴にも似た声を上げる。
するともう一方の吸血鬼は薄笑いを浮かべながら首を傾げ、口を開いた。
「『なんなんだ』だって? 人のことを埋めておいて、随分な事言うじゃないか。スケルトンが掘り出してくれなかったらあと三日くらいは土の中だったんだぞ」
「なっ……ち、違う! レイス、気を付けろ。新しいモノマネスライムだ」
「この期に及んで白を切るつもりか。それとも……まさか本気で言っているのか?」
吸血鬼は俺の隣の『吸血鬼』を見つめ、嘲るような笑みを浮かべる。
『吸血鬼』は恐怖に染まった顔に無理矢理笑みを浮かべ、手に持った壺を再び掲げる。
「よ……よし、良いだろう。見ていろレイス。今僕が本物だと証明してやる」
そう言うなり、吸血鬼は自らの頭上で壺をひっくり返し、その身に大量の塩を浴びる。
刹那、空になった壺が吸血鬼の手を離れ、音を立てて地面に転がった。
「あっ」
少し間をおいて、『吸血鬼』はまるで氷像が解けるのを早送りしたかのように頭から溶けてしまった。地面にできた水たまりの上に『吸血鬼』が小脇に抱えていた魔物図鑑が落ち、その拍子に付箋が挟んであったモノマネスライムのページが開いた。そこに書かれていた一文が俺の目に飛び込む。
『モノマネスライムは脳をコピーし、記憶をコピーし、そして時に精神をもコピーする。その場合モノマネスライムは自身が偽物であるということを忘れるのだ。本人すら、自分が息絶えるその瞬間までオリジナルとの区別がつかないのである――』




