01
「ロックじゃなくていいの?」
「ああ、薄めに作ってくれ」
そう告げると、レイカは手際よくグラスに揺れる褐色を混ぜ合わせていく。大ぶりな氷が光を乱反射させながらクルクルと回っていた。
彼女には感謝してもし尽くせない。さしあたりの避難先としてユウスケのことは二つ返事で受け入れてくれ、のみならず随分と上手くやってくれたようだ。久留米での一件があったときはどうなることかと思ったが、ひとまずのところユウスケは落ち着きを取り戻した。突然泣き出したり暴れ出したりすることはもうなくなった。
今夜はそのお礼を兼ねてレイカの店に同伴したのだ。ボトルでも何でも好きなだけ入れて構わないと言ったが、自分はソフトドリンクを選んでしまう。
「……で、さっきのはどういうことだ?」
避難させていた間のユウスケの様子を聞いておくつもりだったが、席に着くなり繰り出されのは「オチがリストカット跡の話だけど聞きたい?」という台詞だった。一杯や二杯引っ掛けた程度では酔いもしないが、比喩でなく純水で喉を潤したくなるくらいには面を食らってしまったのだ。
「彼と初めて会った日のことを覚えてる? ユウスケくん、店はクビじゃなくて自分で辞めたみたいだよ」
「売り掛けでもあったのか?」
「そうでもないみたい。ある日突然辞める宣言して、ラストの十日だけきっちり出勤して辞めたんだって。そこに勤めてるホストに聞いたからこれは確実」
「クビじゃねえならなんであんなことになってたんだろうな」
水割りを一口含む。ゴミのように転がっていた姿が思い出され、氷の下に沈んでいく。
「そもそもあんまり出勤してなかったらしくて。人気上位のナンバーでも欠勤がちならそれこそクビになってもおかしくない。彼の場合は下から数えた方が早いくらいだったけど、ちょっとした事情があって……」
口ごもった合間にどこか離れた座席から下品な野郎の笑い声が響いてくる。事情ってなんだと、岸和田はレイカに耳を寄せた。
「なんだかんだでどこかから初回の女の子連れてくるんだって。それがまたとんでもなく金持ってるんだってさ。最終的には他に指名が流れちゃって本人はちっとも稼げてなかったみたいだけど。それでも金を落としてくれる太客を引っ張ってくるんだから、店としてはクビにする理由がない」
「それなのに自主退職なんて変だな」
「お酒弱そうだし、限界来たんじゃないの。いっそスタッフに転向するかって勧められたこともあるみたい。客引き能力はあるわけだし」
女受けしそうな顔立ちであり、何かと世話をかけたくなる雰囲気もある。その気になってナンパすれば掛かる女はいくらでもいるのだろう。
「で、それがどうしたらリストカットに繋がるんだ」
「まだ起承転結の一文字目よ」
空いたグラスに二杯目を作りながらレイカは続ける。
「少ないながらも指名客はいたの。その内のひとりに聞いた話。アフター……まあほとんど枕営業みたいなもんだけど、その子にDV紛いのことするんだってさ」
「はぁ?」
「あ、誤解しないでね。一応合意ありだし、言わばプレイの一環? 女の子自体にも癖があるというか、波長が合っちゃったパターンかな。女の子が望んで悦んじゃうなら仕方ないよね」
「だからって客相手に普通じゃねえよな」
「本当にそう、普通じゃない。酔い任せとかでなくシラフでやっちゃう。結構いっちゃってる感じで。彼女自身はそれが良いのって火照らせるんだから聞いてらんないわ」
岸和田の知る限りのユウスケという人となりに結び付かず頭を抱えた。レイカは噂話好きだけれども、裏の取れていない話をさもありげにすることはしない。当事者から直接聞いたなら信憑性はありそうだ。
「二文字目はお酒がマズくなる話だけど、どうする?」
「……続けな」
「女の子たちをどうやって店に連れて来るのか。そこは人伝に紹介されたり。あとはほら、彼に会えたらトップ取れるって噂あったでしょ? それで私らみたいな嬢が冷やかしで付いてったような、そんなありきたりな理由だった。ところで出勤しない日、どんな場所に出入りしてたと思う?」
「ヤンキーの溜まり場にでもいたのか?」
「そんな話ならわざわざしない。これも彼と直接会ったって男に聞いた話だけど、ハッテン場にも出入りしてたって」
これまた触れにくいワードが出てきて手持ち無沙汰にグラスを撫でた。酒がマズくなるほどでもないけれど口に含んだそれに何の味わいも感じない。
「月に何度かは必ずいるんだって。そもそもそういう場所だし、身体目当てな人ばかり集まるわけでしょ。その男も例に漏れずであの子のことナンパして、咥えさせるくらいはしたんだってさ」
ほとんど水しか飲んでいないはずなのに、妙な酔いが回り始めた気がする。浮かんでいる氷をかじり気を落ち着かせた。アイツは何をしているのだ。
「そんなとこで知り合って、そんなことになれば続きを期待するでしょう。でも彼のことを触ろうとしたら豹変してボコボコにされたってさ。もちろんこっちは合意なし」
「意味分かんねえな」
「ほかにも似たような被害に遭った人いるみたいよ。それでも必要以上に触んなきゃある程度はオッケーな子って、近頃は認識されてたみたいだけど。中には本当にゲイだけど、本命以外とは手も繋がない人だっているわけで……」
「ユウスケもゲイだってことかい」
「まだ二文字目なんだから最後まで聞いて」
一文字目からクライマックス並みのインパクトがあったが、やっと折り返しかと今度は変な汗が出る。レイカの手からボトルをひったくりグラスの縁まで注いで一気に飲み干した。
「三文字目は何なんだ」
「ここからは私の推論よ。まずお店を辞めた理由だけど、外でこんな暴力沙汰を繰り返してるんだから、それが明るみになる前に自分から身を引いたのかなって。私たちにはクビだって言ったのは初対面の出任せなんだろうけど」
レイカの推測は自然の流れとして受け止められる。口の中でアルコールの匂いを転がしながら岸和田は天井を仰ぎ見た。騒ぎになる前に姿をくらますのは逃げの手段としては有効だ。
「でも私たちの前では粗暴な感じしないよね。出てくる話があまりに極端過ぎて不思議が多すぎる」
「……いいや、そうでもねえな」
思い出したのはもちろん久留米の出来事だ。ヒデキと二人がかりでようやく暴れるのを収めたようなもので、そういう側面は必ずしもゼロでない。ドライと見えて思いのほか沸点は低い。
「ふーん。やっぱりそうなんだ」
「やっぱりって?」
「私も色々と調べて回ったの。そうしたら誰それと喧嘩してぶん殴ったとかそんな話が出てきたり……又聞きだからどこまで盛った話か知らないけどね」
岸和田は腕を組んでしばし思案していた。感情の起伏は激しいけれども時間をかけて言い聞かせれば聞き分けるし、最低限の分別だってある男だと思っていた。
「彼がどんなセクシャリティだろうと構わないけど、喧嘩はよくないよね。今、色々とトラブってて大変なんでしょう?」
「そりゃあ、そうなんだけどよ……」
あちらこちらで起こすいざこざの相手が厄介者と繋がっていた日には久留米の二の舞だ。こんな話を聞かされてしまっては最低限の分別とやらも疑わしくなってくる。
グラスを傾け氷を回しながら岸和田は思考を巡らせた。金目当てでウリをしてるのか、それともただの色ボケか。しかしどう考えても拳が出てくる流れにならない。
「私、思ったんだけどね」
今度はレイカの方から耳元に寄せてきた。
「生活するためにホストで稼ぐ。性欲を満たすためにハッテン場に出入りする。普通ならこう考えるよね。何のためにそうしているのか……ここがそもそも普通じゃないのかなって」
「まあ、そうなんだろな」
「そこでちょっとだけね、彼が寝ようとした時にイタズラ仕掛けてみたわけ。あの子の本質を暴いてやろうと思って」
「おい、お前っ。何してんだ!」
「ちょっと煽ってみただけよ。もしかして、妬いてるの? 安心してよ。あの子カンカンに怒るだけでそれっきりだったから」
無茶をしやがってと岸和田は額をおさえる。怒るだけで収まらなかったらどうするつもりだったのか。
「で、その時に服を脱がそうとしたらリストカットみたいな古傷を見ちゃったわけ。なかなか派手なのが残ってたわよ」
「最近のじゃなくてか?」
「何年かは経ってると思う」
ということはまだ大学に通っていた頃か、あるいはそれよりも以前のことか。問題を起こして退学になったと聞いているが、それが何か関係しているのか。
「……あ、まずい。他の指名が入った」
レイカが顔を上げるとスタッフの目配せがあった。
「行ってきな」
「ありがと。話の続きはあがりまで待てる?」
「待てねえと言っても待たせるんだろ」
「ふふふ、その通り」
レイカが席を外すとすかさずヘルプの女の子がやってきた。まだ数えるほどしか顔を見ていない新入りだ。こうやって空きになるテーブルを衛星のように回され続けているところを見るあたり、まだ指名もあまり取れていないのだろう。
「ここ、いいですか?」
「ずっといていいよ。指名にする」
「え、だってレイカさんの……」
「気にすんな。アイツも気にしねえって。しばらく休んどけ」
その顔つきはまだ若く幼さが残る。話を聞けば水商売で働くこと自体もここが初めてなのだそうだ。しかし開店からそんなに時間は経っていないはずだがすでに頬は赤くなり始めていた。
「好きなの頼みなよ。別に酒じゃなくてもいいから」
「大丈夫、私、結構何でもいける口ですよ!」
「ほっといても余所のテーブルで飲むことになるんだから酔い覚ましにしとけ。レイカだってそのつもりでジュースしか飲んでねえよ」
その頬がいっそう濃く染まる。控えめにこれでと注文したのは烏龍茶だった。
「実はさっきのところで何杯も注がれちゃって。ちょっとピンチだったんですよ……」
さっきのところ、とはあの笑い声が聞こえてきたテーブルだ。今はまた別の女の子をはべらせて乱痴気騒ぎを繰り広げていた。
「女の子潰して遊ぶのは関心しないねえ」
「でも私、飲むくらいしか出来ないから」
「無理に飲ませてくる客は切っちまった方がいいって、レイカもよく言ってるぞ」
「レイカさんは特別ですよォ。さすがトップ。今日も指名だけで埋まってる。私は選り好みなんてできる立場じゃありませんし」
そう言ってレイカに向けられたのは羨望の眼差しだった。
「あーっ、ムカつく!」
店を出てしばらくするとレイカの表情が露骨なほど不機嫌に変わった。どうしたのかと問えば、例の大騒ぎしていた客のことだった。
「ちょっと座ってあげたくらいで調子に乗って。遊び方を知らない馬鹿は来ないで欲しいわ。キャバは実物確認できる出会い系なんかじゃないっての! 店長に文句言って出禁にさせようかしら」
「お前が言ったら本当にそうなるぞ」
「いい気味。客だからって何しても良いなんて思うなーっ!」
大仰に振り回したバッグが岸和田の頬を掠める。それを受け止めてレイカの肩に手を置きなだめた。
「イラチな奴だな。少しは落ち着け」
「今日はダメ。なんだろう、本当にイライラしてる。ホテル行こ、ホテル」
「今からか?」
「嫌だって言うの? あのエロ爺、胸触ろうとしてきたのよ? このまま帰ったら部屋まで汚れる!」
これはもう何を言っても聞かないモードに突入してしまっている。セクハラ場面を見ていないわけではない。店内である手前、レイカはやんわりとあしらっていたけれどもその目には怒りの炎が燃えていて、それが今こうして大爆発しているのだ。
「分かったから。キンキン騒ぐな、耳が痛え」
「……ありがと。大声出したらちょっとすっきりした」
シャワーを浴びたレイカはバスタオルもつけない姿のままでベッドに身を転がした。濡れた髪が素肌にべたりと張り付いている。
「髪くらい乾かしてこいよ。風邪引いても知らねえぞ」
「だいじょーぶ」
「……で、話の続きは」
「ああ、それね」
ずるずるとシーツを引き上げながらレイカは続ける。
「リストカットの理由なんて聞くだけ無駄だし触れてない。でも、あれが根本的な何かな気がしちゃうんだよねえ。これといった根拠はないけどね?」
「自傷してたのが今度は他傷に向かっちまったのかね」
「それは私も考えた。でもなんだろ、ちょっと違うんだよなー」
「あのさあ」
「分かってる分かってる。ユウスケくんに関わった男と女に会ってみたいんでしょ?」
こちらが言いたかったことを先回りして連絡先を書き付けたメモを渡された。
「女の方は昼間なら基本的にいつでもオッケー。男の方は週末が都合いいみたい。何なら他も当たってみるよ?」
「いや、とりあえずはこれでいい。ありがとうな」
レイカでなければこの情報は入らなかったかもしれない。水の街に巡る情報網は侮れず、住む世界が違えば見える世界も全く違うものだから。
「ところで、彼らに会ってみてどうするつもり?」
「どうするって……まあだユウスケのやつ、馬鹿なことしようってんならやめさせねえとさ」
「そのことだけどね、中途半端にするくらいならもうあの子に関わらないっていうのもアリだと思うんだ。私たちと会う以前の行動まで面倒見る義理はないわけだし」
「なんだよ、らしくねえこと言うじゃねえか」
「中途半端はかえって傷付けることになるの」
「途中で投げたりはしねえよ」
もう黙れと言わんばかりに彼女を抱き寄せた。
「なあ、ミヨ」
「……その名前で呼ばないで」
「ちょっとそんな気分になっただけだろうが」
「迷惑!」
顔を埋めるなんて優しさではない。勢い付いたレイカの頭突きをみぞおちに食わされた。その細い身体に揺れる胸、セクハラ野郎の痕跡なんて消えちまえと押し付けるようにベッドの深くへと沈めたのだ。
その週末、岸和田は男と会う約束を取り付けた。
実際にその目で現場を確かめたいというのもあったが、待ち合わせには例のハッテン場を指定した。
その男より早く着いてしまったがために時間ばかりを持て余す。それだけであればまだしも常連客には一見と分かる岸和田へ好奇の視線が注がれて、場所の選択を後悔させるのに数分とかからなかった。
約束より十分ほど遅れて男はやってきた。どこにでもいそうなごく普通の中年男性で、バラエティで表現されるようなステレオタイプな雰囲気などどこにもない。しかし、岸和田の姿を認めるなり彼の表情は凍りついた。
「あ、あなた……、道心会のっ!」
「馬鹿、大声出すな」
「もしかして、ユウスケくんってあなたの……スンマセン、知らなかったんですよこっちは!」
「だから大声を出すな、みっともない」
本当に知らなかったんだと喚く男が土下座までしようとするのをなんとか阻止する。向き合って落ち着くまでに疲れて果ててしまった。
「どんな想像してるんだか知らねえけど、俺はアイツの色恋沙汰に口出しするような立場じゃねえから。ここでユウスケは何をしていたのかが知りたいだけなんだ」
「本当にそれだけですか……?」
「包み隠さず聞かせてくれるなら何もしないよ」
焦りばかりの男がようやく安堵の表情を浮かべた。




