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3. これから

 一ヶ月が経った。


 木谷はあれ以来美術室を訪れることも無く、日々は過ぎていった。季節はもうすっかり冬めいて、僕はぼんやりと外の夕闇を眺める。放課後の美術室、窓際の棚の上。一月前と同じ場所同じ時間帯から眺めているのに、外はすっかり暗くなっている。


 ガタン。と音がして、人が入ってくる気配がした。


「加藤君は?」


 遠慮がちな声に、僕が振り向く。


「加藤はいないよ。呼び出したのは、僕」

「えっと、隆志君が?」


 苗字ではなくいきなり名前を呼ぶあたり、加藤に教えられたのだろう。それにうなずくと、僕は木谷を見つめた。緊張して、心臓がばくばくといっている。手には汗。それでも何てこと無いような顔をして、話し始める。


「木谷さ、一月前の初めてあった時、青い絵の具を見て血と間違えただろう? あれがずっと不思議で理由を教えて欲しくて、だから今日、ここに来てもらったんだ」


 その途端、木谷が動揺したようにびくりとする。あっという間に赤く染まる頬。木谷は僕と目を合わせないように目線を落とし、まるで言い訳をするようにぼそぼそと呟いた。


「あれはとっさにそう思い込んだだけで……。自分でも変なこと言っちゃったなって思ったけど、二人とも突っ込まないで流してくれたからこっちから言い訳するのもおかしな感じだったし」


 そこで言葉を切ると、ちらりとこちらを見つめる。僕は何も返さず、彼女の次の言葉を待っている。不思議な言動を茶化すつもりは無く、ただ本当に理由を知りたいだけ。木谷は僕のそんな態度に気が付くとしばらく迷ったように視線を彷徨わせ、それから真っ直ぐこちらを見据えた。


「イメージが、浮かぶの。いつもはもっと捕らえどころが無くて、描くうちに定まってくるんだけれど、あの時は違っていた。私の中では、あれは例えどんな色をしていようとも血だったの」


 まるで挑むかのような言い方。でもそれは、僕の問いにはぐらかすことなく答えてくれた証拠なんだ。


「教えてくれて、ありがとう」


 僕はそう言うと棚から降りた。そして足元に立てかけておいたキャンバスを持ち上げる。けれどまだそれを差し出す勇気がもてなくて、戸惑う木谷に向かい、言葉を続けた。


「何で正反対の色なのに、血と間違えたんだろうって、加藤に聞いたんだ。そうしたら、木谷にとって色彩は多分血液と同じなんだよって、あいつ言って。最初、その言葉の意味が良く分からなかった。けれど木谷の絵を見ているうちに、だんだんと腑に落ちてきたんだ。血って自分の中を流れる、無くなると死に至る大切なものだよな。木谷にとって色彩は、そして絵は、それくらい大事なものなんじゃないのかなって」


 自分の想像が合っているのかうかがう様に彼女を見るけれど、無言のままだ。こちらをただじっと見詰めている。そんな視線の強さに覚悟を決めると、僕はようやくキャンバスを彼女に差し出した。


「木谷が血と間違えた空の色を使って、僕も何か描いてみたくなったんだ。……見てくれる?」


 尋ねているのに言い終わる頃には木谷の顔を見ることができなくなっている。視線を逸らしたまま、片手で差し出したキャンバス。彼女がそれを両手で受け取り、じっと見つめるのを横目で捉えた。


 しばらく続く沈黙。そろそろ恥ずかしさからわめきたくなってきたところで、息を吐き出す気配を感じた。


「これ」

「海。夕空に対抗して青空っていうのもちょっとなって思って、海にした」


 キャンバス一面に僕が描いたのは、海原。水平線や灯台も無い、ただ水面に波形の広がる海原。右上にぽつりと黄色く浮かぶのは、吹き飛ばされる風船の姿。


「デッサンとかちょっとやってみたんだけど、上手く描けない分嫌になってさ。とにかく色を使ってみたかったから、下書きをなるべくしないで描ける絵になったんだ。あの、風船、海に落ちているんじゃなくてちゃんと宙に浮いているんだけど、分かる?」

「うん、分かる」


 その言葉にほっとして、ようやく彼女と向き合う。木谷はとても真剣な表情で、僕の絵を眺めていた。


「描いているとき、ずっと夕日の絵を思い描いていた。あんな風に描きたいと思って。でも、僕にはこれが精一杯だった。そして木谷の絵をもっと見たいと思ったよ。木谷にしか描けない、木谷の絵がもっと見たい」


 どれだけの気持ちが伝わるのだろう。分からなかったけれど、それでも今のありったけの思いを込めて言ってみた。木谷はまだ絵を見つめたまま、何も言わない。


 もしかして、自分の行動で彼女を追い詰めてしまっただろうか。


 そこに思い至ると不安になる。慌てて絵を取り戻そうと手を掛けた。


「迷惑だったよな。ごめん」


 けれど木谷は勢い良く首を振ると、キャンバスを握り締める。


「この絵、もっと見ていたい」


 予想外の言葉に、一気に焦った。


「いやだって、下手だよ、それ」

「でもこれ、隆志君の血が描かれている。血、なんだよね。何でそれに気が付かなかったんだろう。馬鹿だな、私」


 内面の呟きのような言葉。けれどその言葉から、彼女の心が一歩動いたのを感じた。


「……そんなので良ければ、やるけれど」


 思い入れたっぷりに描いたのはいいけれど、かといって別に飾る予定も無い。それならばと試しに言った程度なのに、木谷はぱっと顔を輝かせ、僕に向かって深々とおじぎをした。


「ありがとう。大切にするね。私の絵は、……もうちょっと待っていて。でも必ず描くから」


 そして彼女は準備室から手提げの紙袋を探し出すと、僕の絵を大切そうにしまいこんだ。そしてもう一度「ありがとう」と言って、去ってゆく。


 僕は彼女が出て行った引き戸を見つめながらイスに腰掛け、無駄に力の入っていた体をほぐすように伸びをした。



「どうだった?」


 しばらくして、加藤が教室に入ってきた。


「絵、描くって」

「そうか」


 それだけ言うと、加藤は僕の目の前に座る。


「ありがとうな」


 短い言葉。けれど照れ臭い、感謝の言葉。今日はやたらに聞いたり言ったりしている気がする。けど、


「美術部のためにやったわけでも、お前に頼まれたからやったわけでもないぞ」


 僕はただ、木谷の絵を見たかった。木谷の絵を見て、彼女の発想に触発されて絵を描いた。それは本当に、ただそうしたかっただけの話。


「分かっているよ」


 そこで加藤は話題を変えるようにああと呟くと、急に口調を軽くして聞いてきた。


「それで、告白はどうなった?」

「はぁ?」


 何を言われているのか分からず、反射的に聞き返してしまう。告白って、誰が誰に?


「絵心の無い人間が急に決意をして、一ヶ月間地道に絵を描いていたんだ。そこに何かしらの目標があったんだろ? で、木谷とはどうなった」

「知るか!」


 鼓動が一気に早くなり、顔が赤くなる。この自分の反応、つい今さっき誰か他人で見た気がする。流して欲しかったところをわざわざ指摘されてうろたえていた、そうだ木谷だ。


 彼女の顔を思い出し、いっそう顔が火照るのを自覚した。


「で?」


 迷惑だと僕が態度で示しているのを気にもせず、にやりと楽しそうに微笑む加藤。何がどうであっても、本心を聞き出したいらしい。


 僕は諦めてため息をつくと、短く宣言をした。


「……とりあえず、トモダチからはじめるよ」


 一瞬の間。そして、


「ヘタレが」


 加藤が思い切り呆れた表情で呟いた。






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