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ヒーローなんていない  作者: サク
没落殿下と毒の花
59/73

―幕間― ある元王族の心情

 

 ヴィヴィエッタ・ラディアーチェがエーベルに連れ去られた翌日。

 アーダルベルト・フォビオ・サルヴァティーニ、現ラヴィラ男爵は、自身の屋敷の前で人の帰りを待っていた。今朝早くから己の婚約者の行方を探しに出ているセシリオ・アルファーノの帰りをだ。それと共に彼の雇っていた“警備兵”からの報告も待っていたが、生憎とそのどちらからも進展の報告はまだない状況だった。

 そうこうしているうちに日は暮れ始めていた。

 モニカはあとどれくらいで目を覚ますだろう、とラヴィラ男爵は考えて、そして考える間もなく夜半前だろうなと彼にはわかっていた。

 彼が心から大切にしているモニカのことで、彼にわからないことなどなにもなかった。

 なぜなら、モニカのことはすべてなにからなにまできちんと自分の手で管理しているからだ。食事から清潔についてなどの健康面、情緒などの精神面、それから“神の涙”の作用時間について、そしておそらくの寿命まで、彼は完璧にモニカを管理しているつもりだった。

 それを唯一予想外の展開に持ち込んだのは――そう思って彼は無意識に歯噛みしていた――あの元婚約者の存在だった。

 なんとか穏便に婚約解消してようやく騒動も落ち着いたと思った矢先のこと、兄のアルブレヒト・モルレ・サルヴァティーニから彼女が当の領地への旅行を希望しているから面倒を見るようにとの通達を受け、彼はようやく凪いできた己の心が再びささくれ立つのを抑えることができなかった。

 あくまで今度は賓客としての彼女と接するだけだ。そう自分に言い聞かせるも、久しぶりに見た彼女のいやに格式ばった真面目なカーテシーになつかしいやら辟易するやらで、自分もまだまだだなと己を叱咤したことは二人にはわかるはずもあるまい。

 ただ救いだったのは、元婚約者の侯爵令嬢は新たな婚約者に夢中だったことだった。

 未練たらしく自分のことを追いかけてきたのかと邪推もしたが、ただただ今の婚約者と楽しそうに毎日出かけていく様を見ていると、どうもそういうわけではないらしい。

 どうやら兄の言うとおりに、彼女は今の婚約者とただ旅行に来たかっただけらしい。それなら自分は彼女たちが満足して帰るまで、波風立てずにそっと様子を窺っていればいい。

 そう思ってなるべく寛容に接してきたつもり、だったのに――。

 と物思いに耽っていたところで、ようやく彼の待ち人が帰ってきた。ローザネラ山脈の向こうに消えていこうとしている日差しが、彼の項垂れた姿に深く影を落としている。ちょうど影になるような形で彼の顔は見えなかったが、重い足取りからするに彼の最愛の婚約者は見つからなかったのだろう。


「どうだった、セシリオ。ヴィヴィエッタは見つかったか?」


 彼は努めて冷静に、それでいて心配そうに彼に尋ねた。

 顔を上げたセシリオは色を失った無表情でしばらくこっちを見ていたが、結局ただ首を横に振っただけだった。


「そうか……」


 そうだろうな、という言葉をラヴィラ男爵は呑み込んだ。

 彼女が生きているか死んでいるか定かではないが、あのエーベルに連れ去られたのだからそうそう簡単には見つからないだろう。それにエーベルには自分に逆らえない理由がある。

 彼がいつか自分を裏切って“神の涙”の精製方法に手を出すだろうことはわかっていた。

 しかし彼が持ち去った書類だけでは“神の涙”は完成し得ない。あれはそんな単純なものではない。この地に咲く可憐な花と、我が王家の叡智があって初めて正真正銘の“神の涙”が完成する。無論彼がすべての情報をひとまとめにして管理するなど間抜けなことをするはずもない。

 そのことにエーベルが気づいたときに再び自分の元に戻ってくるだろうと、ラヴィラ男爵はそう確信していた。そのための対価としてヴィヴィエッタ・ラディアーチェの処遇について要求をしておいた。賢い彼ならこの意味を今ごろ理解しているに違いない。

 さて、今後だが――。


「ラヴィラ卿、そちらはどうだった?」


 目の前の男からの視線を受け、ラヴィラ男爵の思考は一旦現在へと戻された。できるだけ沈痛そうに首を振れば、目の前の男の顔に形容しがたい、敢えて言うならばどこか堪えるような感情が浮かび上がってきた。


「セシリオ、すまない。私があのときヴィヴィエッタを引き留めていれば……」


 それにセシリオは被せるように首を振る。

 ヴィヴィエッタに嗅ぎつけられたときのことを思い返し、ラヴィラ男爵は顔を歪めた。








 ヴィヴィエッタがエーベルに連れ去られた後のことだ。ラヴィラ男爵がモニカの身の回りを整え終え、屋敷をあとにしようと玄関に向かうと門のところにセシリオが立っていた。

 彼はヴィヴィエッタの髪飾りを握り締めていた。聞けばこの屋敷の玄関前で拾ったのだという。そのせいで言い逃れできなくなった彼は、正直に先ほどまで彼女と一緒にいたと言うしかなかった。


「先ほど偶然そこの通りでヴィヴィエッタと会ったんだが、」


 ヴィヴィエッタがエーベルを見つけて一人で走り去ってしまった、というセシリオの説明を受けて、それに合わせて話を作り上げていく。


「ああ、そうだな。彼女はたしかにエーベルを追っていたところだ、と言っていた。だけどどうやら見失ったみたいだったよ」


 ここはモニカが臥せっている屋敷だ。その世話のために訪れるところだと言えば、彼女もぜひお見舞いしたいと言い出したので、先ほどまで会わせていた。その後彼女は先に戻ると言って去っていったよ。

 そう説明すればセシリオはどこか納得していないような顔をした。しかしそれ以上はなにも言われなかったので、そのときはもしかして先に屋敷に戻ったのかもしれないなと気休めの言葉をかけるに留めた。

 それから彼は日が暮れるまで彼女を探し回っていたようだが、当たり前だがヴィヴィエッタ・ラディアーチェが見つかることはなかった。

 夜になり、さらに広範囲を探すため一旦身支度を整えにセシリオは戻ってきた。


「悪いことは言わない。明日日が昇ってからにしたほうがいい」


 そんな彼を引き留めるのには一苦労した。彼は頑なに探しに行くといって聞かなかったからだ。


「こんな夜に出ていって、そのせいで君になにかあったらどうする。ヴィヴィエッタも絶対に心配する。止めなかった私を責めるかもしれない。お願いだから少し休んでくれ。明日になったら町の人々にも声をかけて捜索の手を増やすから」


 万が一まだここら辺にいられたらたまらない。少しでも見つかる可能性を減らしたくヴィヴィエッタの名前を出すと、ようやく憔悴した彼は頷きを返してくれた。

 そんな彼をよく休むようにと半ば押し込めるように部屋に返してからその日の夜、ラヴィラ男爵はモニカのいる別邸に寄ったあと、ある人物の元へと足早に向かった。

 ――ある裏路地に面した、寂れた集合住宅の一室。酒瓶の転がった薄暗い部屋の中。そこで酒瓶を片手に酔いどれている男にラヴィラ男爵は声をかけた。


「仕事だ」

「あ?」


 男は酔った目で見上げてくると、「誰かと思えば旦那じゃねえか」とせせら笑った。


「喜べ。仕事ができたぞ」

「そりゃあ嬉しいねぇ。こんなしけた町じゃ暇潰しすらねぇときた。ほかの奴らも呆れて呑みに出たまま戻ってこねぇ始末よ」


 男の軽口に動じることもなく、ラヴィラ男爵は淡々と続ける。


「女だ。男の方は命をとるな。彼はまだ利用価値がある」

「へぇへぇ。それで?」


 片手を差し出してきた男をじっと見返すと、男は大きな笑い声を上げた。


「おいおい、馬鹿にしてもらっちゃ困るよ。仕事だろ? 仕事ってのは報酬がなけりゃ成り立たねぇ。ただ働きってのはよっぽどの善人ヅラしたバカしかやらねぇもんさ。そして俺はそのバカじゃねぇ」

「報酬は渡しただろう」


 声音に含まれた怒気を感じても尚、男は笑い声を深くした。


「冗談だろ? あんなの待ってる間の御駄賃にもなりゃしねぇよ」

「……」


 こっちの足元を見てせせら笑う男によほど思い知らせてやろうかとも思ったが、今さら新しく傭兵たちを雇う時間も手間もない。

 ラヴィラ男爵はポンと投げるように男の足元に革袋を投げた。男はそれを拾うと手の平の上でポンポンと投げて、怪訝な顔をした。


「これだけか?」

「残りは成功報酬だ。くれぐれも足をつけるなよ。それと、」


 ラヴィラ男爵はそばに屈むと、男の顔を覗き込むように顔を近づけた。

 いつも穏やかな紺碧の瞳は感情を浮かべることなく、それはまるで虚無――男は生憎と学がないので、その虚無をなんと現したらいいのかわからなかった。


「昼間、おまえのお仲間とやらがちょっとした騒ぎを起こしてくれたようだな?」

「あ?」


 男はしばらくラヴィラ男爵の顔をまじまじと眺めていたが、やがて笑い出した。


「あんた、知らないのか」

「……なにがだ」


 男はひとしきり笑ってから、グビリと一口手に持っていた酒瓶を傾けた。


「ありゃああの男からの()()()さ。俺たちゃ頼まれて一騒ぎしただけのことさ」

「どういうことだ?」


 ヘヘッと、男はせせら笑った。


「気になるならあの男から直接聞きゃあいいじゃねぇか。どうせ縄つけて引っ張って来なけりゃ残りの報酬ももらえないんだろ。心配しなくてもすぐ連れてきてやらぁ」


 ラヴィラ男爵がちらりと顔に浮かべた苛立ちを見て、男は肩を竦めた。


「仕方がねぇだろ。あんたは今まで顔も見せずに、あいつに任せっきりだったんだから」

「これ以上余計なことをするな。言われたことだけやってろ」

「わぁーったよ。人遣いの荒いこって」


 独りごちる男に一瞥をくれてから、ラヴィラ男爵は酒臭いみすぼらしい部屋を後にした。真っ暗な夜闇の中へと溶けゆくように消えていく彼の姿を目にする者は、誰もいなかった。








 ラヴィラ男爵が長い回想から戻ると、日暮れを背にセシリオが一足先に屋敷の中へと戻っていくところだった。

 その消えていった後ろ姿をしばらく眺めたあと、ラヴィラ男爵はふぅと長いため息をついた。

 さて、万が一のことも考えて、エーベルだけでなく“警備兵”にも手を打った。これ以上ヴィヴィエッタのことばかりも構っていられない。あの様子だとセシリオは当分部屋から出てこないだろう。彼女たちのせいでモニカの世話が疎かになることほど業腹なこともない。

 ラヴィラ男爵も自分のやるべきことをやるべく、屋敷の中へと姿を消した。








 翌日、正午前。

 モニカが目を覚ます前にと、彼女のいる屋敷へと赴く。ここでモニカが養生しているとセシリオに説明したのだから、もうここに通う建て前はできている。だが、問題は“神の涙”だ。

 ここには“神の涙”に関する物品がいくつかおいてある。モニカに使用する香。それを調合・使用するための器具・薬品類。そしてそれらに関する書類。モニカがまた眠りについたら、可能な限りこれらを移動・処分しなければならない。

 そう思いながらモニカの部屋の扉を開けると、珍しく彼女はもう起きていた。


「おや? 眠り姫はもうお目覚めかな?」


 朧気な明かりに照らされたモニカがあまりに青褪めた顔をしているものだから、ラヴィラ男爵は彼女を元気づけようと戯けたように声をかける。


「なんだか嫌な予感がしたの」


 モニカの仮面のような顔が動き、唇が震え、か細い声が辛うじて出た。


「この幸せな夢が終わってしまうような……」

「心配しなくても大丈夫だよ。ここにいる限り幸せな夢はずっと続く。終わるわけがない」


 彼女に軽食のサンドイッチとスープを出しながら、不安を解きほぐすように何気ない会話を続ける。このところモニカの不安発作の周期は短くなっており、あまり長く起こしていると“神の涙”をと強請ってくることも増えている。

 そんな彼女の様子を注意深く観察しながら、次の香の濃度をどうするか頭の中で計算していく。

 すべての身支度が整い終わって香の調合を終え、モニカと束の間の別れへの挨拶を交わす。それから点火しようとして――。

 ――リンゴーン――。

 玄関から呼び鈴が鳴り、ラヴィラ男爵はとっさに振り向いた。


「アディ?」

「ちょっと見てくるよ」


 ラヴィラ男爵は立ち上がり、不安そうに手を伸ばしてきたモニカの手を優しく握ると、そっと離して玄関へと向かった。

 その先に待ち受ける者にどこか胸騒ぎを覚えながらも、ラヴィラ男爵はそっと玄関の扉に手をかけた。









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