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ヒーローなんていない  作者: サク
没落殿下と毒の花
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その背を追って

 

 思わず駆け出した私に、焦ったようなセシリオの声がかけられる。


「ヴィヴィ!? どこに行く!」

「エーベルが! エーベルがいたの!! 先に追いかけてるわ!」

「待て、一人はっ……!」


 急いで追いかけなければ見失ってしまう。行く先だけでも確かめようと、エーベルの消えた曲がり角を駆け足で曲がる。

 とうにあの緑頭の姿は消えていた。


「チッ……逃げ足の早い奴め……!」


 令嬢らしからぬ悪態をつきながら辺りに視線を彷徨わせて特徴的な緑髪を追い求める。

 ――チラリ。

 また通りの先の曲がり角からエーベルらしき緑の頭髪が覗き見えた気がした。咄嗟にその後を追いかける。

 エーベルはこの町にいた。ソーニャの花が群生するセレーノ湖を擁するこの町に。

 ラヴィラ男爵が夜な夜な出かけることにもしエーベルも関係しているのならば、一気にきな臭くなってくる。兎にも角にも、先日の件も含めてエーベルには問いただしたいことがたくさんある。

 彼の行方だけは逃すまいと必死にその後ろ姿を追いかけていたら、気づいたら見知らぬ家屋の前まで来ていた。

 慣れない追いかけっこに上がった息を整える。物陰に身を隠しながら、目の前の家屋を眺める。造りは古いがちゃんと整備されていて、一般の民が住む家よりも幾分か広く見える。ただカーテンはきっちりと閉められており、灯りが灯っている様子もなく、人がいる気配はない。

 ここにエーベルは入っていったのだろうか。

 できることなら踏み込みたい。でもエーベルがここに入ったという確証はない。

 とりあえずセシリオと合流してから考えようと踵を返そうとしたところで、前方から歩いてきた人物に思わず身を強張らせる。

 それは、いつも通り穏やかで理知的な微笑みを浮かべた、アーダルベルト……ラヴィラ男爵だった。彼は足早にやってくると、曲がり角に隠れている私には気づかずに素早く目の前の家へと入っていった。

 その姿が完全に消えたのを確認して、息を吐く。彼が吸い込まれるように入っていった眼前の家を眺める。

 相変わらず人の気配はない。彼は中に入っていったはずなのに、灯りがつく様子もカーテンを開ける様子もない。実際に目の前で彼が入っていったところを見ていなければ、この家に誰かが居るだなんて到底信じられなかっただろう。

 彼はいったいなにしにここへ? この家にはなにがある? エーベルとは本当に関係があるのか?  まさか本当に、彼は“神の涙”に手を出して……。

 だって殿下は知っていたはずだ。ベラドンナのせいで、“神の涙”のせいで、セシリオの人生がどんなに捻じ曲げられたか。セシリオたち家族が引き裂かれてしまったか。それなのに、その悲劇を知っている上で彼もまた“神の涙”に手を出しているというのか。

 今までの出来事が頭の中を次々と掠めていく。

 ヴェルデで初めて会ったときの希薄な空気を身に纏っていたセシリオ。人を信じることが怖いと、ヴェルデから出るのが怖いと吐露してくれたセシリオ。まるで幽霊屋敷のようなおどろおどろしいアルファーノ邸。震えながらも必死に父親に訴えたセシリオ。やつれきって限界まで追い詰められていたアルファーノ前公爵。

 そしてあの、世界中の虚無を詰め込んだかのような瑠璃色の瞳を持った、悪女ベラドンナ。

 ――そのとき、目の前を緑髪のあの男が通り過ぎていった。

 もう間違いようがなかった。奴は……エーベルはラヴィラ男爵の後を追ってきて玄関に手をかけると、懐から細長い小さな器具を取り出した。そしてそれを使って手慣れた様子で鍵をすばやく解錠すると、あっと言う間に家の中へと消えていった。その一部始終を私は見てしまった。

 それが決定打だった。

 今の行動からは二人の関係は推し量れない。エーベルもラヴィラ男爵の跡を追って、あの家に不法侵入したようにも伺える。だったらなおさらこの家にはなにがあるというのだろう。

 念のため身につけていた髪留めを外すと、門のそばへと落としておく。それからフゥと一息吐いてもう一度覚悟を決めたあと、私はそっと玄関の扉へと手をかけた。








 当たり前のことだが、扉には鍵がかかっていた。


「そんなすんなりうまくいくわけないよねー……」


 ため息をついて一度手を離す。がっかりとした気持ちが半分、反面ホッとしたのも半分、といったところだった。

 これはセシリオが来るまで大人しく待ちなさいということかな。そう諦めつつも最後にもう一度だけ、扉を開こうと力を入れる。

 するとなんだかいやな音を立てた扉の奥からカチリとなにかが壊れる音がして、まさかのまさかで鍵が開いてしまった。いや開いたというか、壊したというか……これもある意味エーベルのおかげ、というべきかなんなのか。

 勢いで開いてしまった玄関からそっと中を覗く。あまりにも薄暗くて、目が慣れるのに少し時間がかかった。外から伺った通り、人の気配はない。彼らはいったいどこに吸い込まれてしまったのだろうか、そんなことを考えてしまうほどにそこはがらんどうだ。

 薄暗い気味の悪い廊下をそろりそろりと歩を進めていく。やがて曲がり角に着いて、そっと伺った先。

 曲がった先の右手側の部屋の扉がわずかに開いていて、うすぼんやりとした灯りが漏れている。そこからかすかな話し声が聞こえてきた。


「……気分はどうだい、モニカ」


 先ほど見かけたラヴィラ男爵の声だ。


「ええ、とても幸せな夢を見ていたわ」


 どこか夢見るように弾むふんわりとした声は間違えようもない、モニカ・ニコレッティ――ラヴィラ男爵夫人の声だった。


「それはよかった。君が穏やかに過ごせていたのなら」

「ねぇアディ、私、夢の中であなたとワルツを踊っていたの。ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリーって、それでみんなが私たちのダンスを見て口々に称賛してくれたのよ。誰も私の悪口を言う人はいなかったわ」

「もちろん、モニカ、君の悪口を言うようなそんな極悪人がこの世にいるわけないじゃないか。君はこんなにも可愛らしいのに、そんな君を悪く言う人がいるなんて、心底有り得ないよ」

「そう……そうよね、アディ、ありがとう」


 それからも二人はどことなく場にそぐわないようなチグハグな話題で談笑していたが、やがて唐突にモニカが不安そうな声を上げた。


「ああ、アディ。私やっぱり駄目だわ、どうしても不安になっちゃうの。私にはあなたの婚約者なんて務まらない。あの人みたいに完璧には振る舞えないわ。そしてそんな私を見てみんなが嗤ってくるのよ。どこに行ってもあの人と比べられるの。ああ、アディ、いけないわ。わたし……」

「モニカ、落ち着いて」


 段々と興奮して呂律が回らなくなってきたモニカを、彼は穏やかな声で宥めている。


「可哀想に、不安なんだね」


 その声には聞いたこともないような慈しみで溢れていて、心の底からモニカを愛していて大事にしていることが否が応でも伝わってきてしまった。


「いい子だ、私のモニカ。もうなにも不安なことはないよ。ここには私たちしかいない。二人きりの、決して誰にも邪魔されることのない、私たちだけの楽園だ。君を不安にさせる人はどこにもいないし、なにも心配することはない」

「ねぇ、アディ、」

「ああ、早く幸せな夢を見たいんだね」


 しばらくなにかをカチャカチャと用意する音がわずかに響いていた。


「おまたせ、モニカ。これで不安なことはもうなにもかもなくなるよ」

「ありがとう、アディ。愛しているわ」

「私も愛しているよ」


 それからほのかに漂ってきた甘い香りに、疑惑が確信へと変わる。忘れもしないこの香り。セシリオの家族を滅茶苦茶にしたあの代物。

 彼は“神の涙”をモニカに使っているのだろうか。しばらくしてモニカの話し声が聞こえなくなった。


「おやすみ、モニカ」


 彼が呟く声がして、それからギーッと静かに動くイスの音。それからしばらくして彼が、出てきた。

 なにかの機具を手に持ったラヴィラ男爵は部屋から出てくると、そのまま向かいの部屋へと入っていった。ガサゴソと、おそらく先ほど“神の涙”を嗅がせるのに使った器具を片付けているのだろう。

 今目にした現実が衝撃的で、半ばショックで、できれば信じたくないと思っている自分がいた。そのとき私の心を占めていたのは、怒りのような感情だった。

 ――あれだけいろんな人の運命を狂わせた“神の涙”を、よりにもよってそれを秘匿するべき立場の殿下が使用しているなんて……そんなこと、到底許されることではない。

 ラヴィラ男爵が出てくる前に、感情のままに歩を進める。

 モニカのいる部屋の扉は開いている。私は真実をこの目で確かめようと、そこへと飛び込んだ。








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馬鹿なんじゃないのヴィヴィ(呆)
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