親子の心
「セシリオ……」
「お久しぶりです、父上」
セシリオをその目に映し、アルファーノ公爵は言葉を詰まらせる。
「父上、今までずっと目を背けていてすみませんでした。私はこの家のことを、本当のことを少しも知ろうとしなかった」
セシリオは存外と静かな声で父親に語りかける。
「一人だけヴェルデに逃げ込んで、父上にすべてを押しつけて、そのおかげで私は生き長らえることができていた。でもそんなことも今まで気づかなかったような愚か者でした、私は」
「違う……セシリオ、そんなふうに思わないでくれ」
くしゃりとアルファーノ公爵は顔を歪める。
「私は幼い息子をたった一人きりでヴェルデに追いやった。奴の悍ましさに立ち向かう勇気もなく、お前の栄光ある未来を犠牲にして、ただ無事に生きていてくれたらいいと……自分勝手な安寧を図って」
アルファーノ公爵の手から力が抜け、ぶらりと垂れ下がる。その手が小刻みに震えているのに気づいた。
「あのとき、お前を守る術はそれ以外になかったと、そうでもしなければ、奴は私に深く関わろうとした者を悉く排除していってしまうと……まさに死神だったんだ。あやつは私に取り憑いた、忌々しい死神だ。私には今も昔も、奴に抗う術が見出だせなかった」
「父上がどのようなお気持ちであったとしても、それは私を守るためにしてくれたことであり、そしてそれに甘えて私はすべてから逃げていた」
いっそ静かな声だけど、シルバーグレーの瞳は圧倒されるような強い光を湛えている。
「それがこの人生において、最適な選択だとずっと信じて生きていた。でも今のこのわずかな安寧を捨ててでも、取り戻したい幸せがあることを私は知ってしまった。奴がいる限り、本当の安寧も自分の居場所も、心からの幸せも私はなにも手に入れられない。そしてそれはあなたもだ。そうでしょう? 父上」
セシリオが唇を噛みしめる。シルバーの瞳がわずかに潤む。その唇から押し出された言葉は、掠れ声にも関わらず悲痛な叫びに聞こえた。
「だって今の父上は、母上の死を悼むことだってできないじゃないか」
アルファーノ公爵の目が見開かれた。わなわなと震えた唇が開かれる。
「父上は私たちを愛していた。私はちゃんと覚えています。父上と母上と、三人で過ごした温かいあの日々を。急に変わってしまったあなたを恨んだ日々もありました。母上をまるで最初からいなかったように扱い始めたあなたが許せなかった。でも、父上はいまだに私を愛してくださっている。母上をその心に留めていてくださっている。それをあなたはわかっているはずだ」
セシリオはアルファーノ公爵に歩み寄ると、その手を掴んだ。
「ベラドンナの部屋はどこですか」
「なにを……」
「書斎、寝室、どこでもいい。なんでもいいのです。なにか奴の尻尾を掴むきっかけがあれば……教えてください、父上。教えていただければ、あとは私が勝手にやります」
アルファーノ公爵は戦慄いた。
何度も口を開けたり閉じたりして一人葛藤していたが、やっと言葉を発しようとしたときだ。
「旦那様」
扉からチラリとトニオが顔を出した。
「お戻りください。これ以上はもう……」
「……。セシリオ、今日はとりあえず帰ってくれ」
「父上」
セシリオがアルファーノ公爵に縋り、引き留めようとする。
「坊っちゃま、これ以上はもうご勘弁を……ぐずぐずしていたら見つかってしまいます!」
慌てたようなトニオの声。
無作法にも引っ張られ、廊下に引き摺り出される。抗議の声を上げようとして、急に止まったトニオにぶつかった。
「なーんかコソコソしてると思ったら、トニオ、これはどういうことかな?」
嗜虐的な男性の声。ぶつかったその背中がぶるぶると震え出す。
「そちらのお嬢さんは、もしかして……あのおろかなヴィヴィエッタ・ラディアーチェ様か?」
いたぶるような、面白がるような声。顔を見ることはできなかった。
酷く甘ったるくて強い香水の匂いが漂ってきて、頭がクラクラとしだす。
「いつか来るだろうと思っていたが、まさかこんなにすぐにとはなぁ」
回りだした視界に上下も左右も分からなくなって、真っ直ぐ立っていられない。
私は地面に倒れ込んだのか、それとも宙に浮いているのか。
「今日の俺はついてるな。お嬢さんとセシリオ坊っちゃん、両方手に入れることができるなんて……」
最後に絶望的な言葉を聞いたような気がしたけど、意識が耐え切れずにすぐにブラックアウトした。
なんだか不思議な夢を見ていたような気がする。とてもいい気分で浮上して、それからハッと意識がクリアになる。
目を擦ろうとして、手が動かないことに気づいた。後ろ手に縛られた両手。両足もしっかり縛られている。
薄暗く汚い部屋に、出入り口は木の扉だけ。なんの荷物も置かれていないがらんどうな部屋だ。恐らく地下の倉庫かなにかだろう。部屋の上方に小さな明り取りの窓がついているが、とてもじゃないが届きそうにないし、仮に届いても通れそうにない。
ため息をついてもう一人、地面に倒れているセシリオに声をかけようとして――ギョッとした。
銀色の髪。すらりとした体躯。……これ、セシリオじゃない。よりによってエヴァルド・ダリアなんですけど!?
じょっ……状況が全く分からない。まじまじと見つめるけど、どんだけ眺めたってエヴァルドはエヴァルドのままだ。
なんでエヴァルドが一緒に捕まってるの? さっきまで一緒にいたセシリオは一体どこに消えた。なにが起こったらセシリオとじゃなくて、エヴァルドと捕まることになる? ってかここって普通、話の流れ的にセシリオと二人捕まって絶望からの、それを乗り越え助け合って絆を深め、最後はハッピーエンド! みたいな流れじゃなくて?
予想外な展開に頭がついていけず、じっと呆けるしかない。バカみたいに倒れ伏したその姿を眺めていると、やがて少し身じろぎしたあとにエヴァルドが目を覚ました。
「ここは……」
目蓋の下から現れたアンバーの瞳に、一気に緊張が走る。こんな非常事態に愛だの恋だの騒ぎはしないと思うが、どこかぶっ飛んだ彼のことだ。
万が一、億が一ということもある。
「なぜダリア様がここに」
数度気だるげに瞬きをすると、エヴァルドはぼんやりとしたその瞳を向けてきた。
「ヴィヴィエッタ?」
ふるふると頭を振って、もう一度確かめるように見上げてくる。
「頭が重い……」
どうやらエヴァルドもなにかしらの薬を使われたようで、まだ完全に意識が覚めきっていないようだ。そんなまだまともに意思疎通を図れていない状況で、今度はガタリと木の扉が開く音がした。
「いやー、しかしすごいな。時間ピッタリに目が覚めてやがる」
「恐ろしい薬だな」と一人ごちりながら入ってきたその声は。
「あなたは……」
「お嬢ちゃん、目が覚めたか? そちらの坊っちゃんはまだ残ってる様子だな」
あまり綺麗とは言い難い身なりの男だが、腰に剣をさしている。口元ににやにやと下種な笑みを浮かべていた。
「しっかしヴィヴィエッタ様にセシリオ様か。やっぱ子供の考えることは拙いよなぁ。そんな調子でよくあの悪魔に歯向かおうなんて思うこった」
「なにを……」
「悪いがご主人にはあんたたちのこと、報告させてもらうからな。俺も自分の命が惜しいんだ。といっても俺は慈悲深いから、公爵様と密会していたことまでは内緒にしといてやる。ご主人の機嫌が悪くなりすぎてもめんどくせぇからな。ま、この薬なら天国見ながら楽に死ねるだろ」
「おい、待て……」
徐々に意識が覚醒し始めたエヴァルドが、男になにか言おうとした。
「貴様、私を誰と間違っている。私は……」
「セシリオ!」
思わず大きな声でセシリオの名を呼んだ私に、エヴァルドが怪訝な顔を向けてきた。
「セシリオ! 意識が戻ったのね!」
不安な気持ちを目一杯表すかのように、思いっきり顔をくしゃりと歪めてみせた。
みっともないとか、毛嫌いしてる相手にだとか、そんなこと言ってられない。よく分かんないけど、目の前の男はエヴァルドのことをセシリオだと勘違いしているようだ。ならエヴァルドには悪いけど、セシリオのためにもここは勘違いさせておきたい。
エヴァルドは急に感情丸出しに振る舞いだした私に思考が追いついていないのか、戸惑ったまま固まっている。
「ヴィヴィエッタ?」
「私たちこれからどうなるの? セシリオ、私……」
エグエグと顔を背け、みっともなく泣き喚くフリ。
おろおろしだしたエヴァルドとは対照的に、騎士崩れのような男はヒッヒッと笑い声を上げている。
「せいぜい泣いて悔いでも改めてろ。恨むなら自分たちの軽率な行動でも恨めよ。あーあー若さ故の暴走ってのは怖いねぇ」
とりあえず私たちの覚醒状況を見にきただけなのか、男はそう吐き捨てるとすぐに部屋を立ち去っていく。閉じられた扉に鍵が閉められる音がガチャリと重苦しく響き渡った。
「ヴィヴィエッタ、私以外のことで泣くな。落ち着け」
慰めるような声がかけられた。……ちょっと余計な言葉がついてたけど。
「泣いてません」
すぐに泣くフリをやめる。
エヴァルドに視線をやると、ようやくぼんやりしたアンバーの瞳に光が戻ってきたところだった。
「ヴィヴィエッタ、お前が泣くときは私が……」
「すみません、今はそういうのいいですから」
そういうの今はいいんで、求めているのはその騎士としての手腕なんで。
「……それで? これは一体どういう状況だ。なぜ私をセシリオと偽った」
「その前に、わたくしもお聞きしたいことがごさいますの」
食い入るように向けられるアンバーの瞳を見返す。
「なぜエヴァルド様がここにいらっしゃいますの?」
ぱちくりと瞬きをしたあと、エヴァルドはなぜか恥ずかしそうに頬を染めながらはにかんだ。




