公爵家への一歩
嫌な夢を見た。久しぶりに見た夢だ。
アーダルベルト殿下の婚約者だったときの、あのどうしようもなく報われない自分。ニコレッティ嬢への嫉妬と羨望に焦がした、心の残骸。
もう終わったことだというのに、なんだか後味の悪い夢見に、ちょっと幸先の良くない予感がして身震いする。あーだめだめ、これ以上夢のことを考えるのはおしまいにしよう。こんな後ろ向きな気持ちは一旦忘れなければ。
なんてったって今日は、アルファーノ公爵家へと招待された日なのだ。
読み通り、公爵は即行で呼び出しの手紙を送りつけてきた。簡潔な文面にはただ指定された日時と、わざわざ馬車や服装の指定が。要は目立たないように来いということだ。
私たちが直接公爵家に乗り込まずに遠回しにアピールした意図は、どうやらちゃんと公爵に伝わったようだ。
「セシリオ、準備はできた?」
完璧に地味に装った私を見て、セシリオはギョッとしたように顔を引き攣らせた。
「ヴィヴィ、やはり君は残ったほうが……」
「いい加減くどい!」
いつまでも吹っ切れないセシリオに、大声で一喝する。
「ここまで関わっといて今さら? そもそも家に籠もってたって狙われるときは狙われるのよ! こんなことで言い争っている時間がもったいないわ。さっと行ってさっと終わらせたらそれでいいじゃないの」
アワアワしているセシリオの背を押して、ぐいぐい進む。
玄関ホールに辿り着くと、兄が2階の手すりにもたれて待っていた。
「いってらっしゃい。どこに行くのかぜーんぜん僕にはわからないけど、せいぜい頑張ってきてね」
「ええ、せいぜい頑張ってきますとも」
にこりと微笑んでやると、嫌味のようににこりと返される。ひらひらと手を振る兄に……足を止めた。
「……いざというときは、後は頼みますわ。お兄様」
「えー、やだよ」
まさかばさりと切り捨てられるとは思わずにずっこけそうになった。わなわなと言い返せない私に、兄は鼻を鳴らしてくる。
「自分で始めたことは自分でちゃんと後始末をつけなさい。いざとなったときの後のことなんて考えない。そんなことを考えて後ろ向きになるくらいなら、そうならないための方法を考えてるほうがよっぽど建設的!」
……さすが次期ラディアーチェ侯爵様。まるで父が言いそうな名言である(嫌味)。
「それでもどうにもならなかったときは、うん、まぁ……アレもついてるしね……」
肝心のところでなぜか言葉を濁されたけど、もだもだしているセシリオにこれ以上渋られたくないのもあって、そのまま兄に礼をしてバタバタと玄関ホールを後にした。
一旦街まで出たあとに、広場の乗降場で降ろしてもらう。そこから大通りへと少し歩き、空いている辻馬車へと乗り換える。
馬車の中ではお互い無言で、外の景色を眺めて過ごしていた。
セシリオにとっては、長年会うことも出来なかった父親との、久しぶりの再会ともなる。本当は心から喜び合えるような再会が良かったんだろうけど、それはベラドンナをどうにかしなければ叶わない願いだ。
しばらくの後に辻馬車はアルファーノの屋敷へと着いた。そのまま屋敷の裏門を通ると使用人入り口の手前でゆっくりと止まる。
そこから少し歩いて出入り口の扉に辿り着く。扉の横についている紐を引っ張ると、しばらくして中から白髪の男性が現れた。
「お入りください」
早口で囁くように言われ、すぐに中に通される。
「……トニオ」
「ほかに使用人がいます。お静かに」
トニオと呼ばれた使用人は、振り向かずに押し殺した声で応えた。そのまま沈黙を保ったまま、足早に使用人通路を抜ける。
幾人かの使用人とすれ違ったが、反応されることもなく、トニオも特になにも言わず、部屋につくまで歩みを止めなかった。
ようやく部屋へと入り扉を閉めると、トニオは深く頭を下げた。
「セシリオ様。ならびにラディアーチェ侯爵令嬢ヴィヴィエッタ様。このようなお出迎えで申し訳ありません。ですが、なぜ……こんなことを」
咎めるような響きに、セシリオの顔が一瞬、強張る。
「おぼっちゃま、いいですか。今日は旦那様の言う事をよく聞いて、すぐにお帰りくださいね。もう二度とここへは来てはいけませんよ」
セシリオは唇を噛み締めた。
返事をしないセシリオの様子にトニオは眉を下げると、もう一度深く頭を下げ「旦那様を呼んでまいります」と音もなく部屋を出ていく。
張り詰めた表情のセシリオと残される。
空気がとんでもなく重い。なんというか、この屋敷自体が薄暗く空気がどんよりと淀んでいて、生気がない。アルファーノ公爵家の屋敷なのでかなりの規模のもののはずなんだが、すれ違った使用人は少なく、息を殺すように密やかに働いていて、決して目を合わせようとしない。
案内されたこの部屋も元は豪華な客間の一室だったのだろうが、手入れされなくなってから久しいのか、絨毯やカーテンは色が褪せて裾が解れており、部屋の隅には埃が積もっていた。
セシリオはずっと俯いていて、私もこの鬱然とした空気に当てられそうになる。鬱々と考え込んでいるとようやくアルファーノ公爵が到着したのか、ギィィ……と重々しい音をたてて扉が開いた。
弾かれたようにセシリオが顔を上げる。
「……なんてことをしてくれた」
歳を経ても涼やかなその声。セシリオと同じ、さらりとしたプラチナブロンドは後ろへと撫で付けられている。
――すごい美貌だ。稀代の悪女ベラドンナが一目惚れしたというのも分かるほど、端麗な人だった。
だけどその美貌も今は忌々しげに歪められていて、氷のようなごく薄いブルーの瞳が射るようにこっちを見ている。
「ヴィヴィエッタ・ラディアーチェ。セシリオを唆したのはお前か」
公爵の声が鋭くなる。その圧に負けないように、ゆっくりと呼吸を数度、繰り返した。
簡単に礼をとり、公爵を見返す。
「お初にお目にかかります、アルファーノ公爵様。この度は……」
「御託はいい」
だけどその覚悟も簡単に遮られた。
「私が君に望むのは、今すぐここから出て行ってもらい、そして二度とセシリオに近づかないこと、ただそれだけだ」
分かっていたことだけど、取り付く島もない。まるで悪友と付き合う息子を必死に思い止まらせようとしている親みたい。……ま、私『悪役令嬢』なんで、間違っちゃいないんだけどね。
「それは聞けませんわ」
「……なに?」
色々と腹は括ってきた。なんと言われようとも絶対に折れないと決めたんだ。
「生憎と、ことはもう動き出してますの。わたくしはセシリオ様を諦めるつもりはございませんし、認めてくださらないのなら、何度でも希いに伺うだけですわ」
「なにが目的だ。この公爵家の財産か。悪いがそんなものはとうの昔になくなっている。今や領地も荒れ果て、なにも残ってなどいない」
「それはどうでもいいのです」
いや、どうでもよくはないけどね。領地はほら、全力で復興に勤しめばまだなんとかなるから。
「わたくしはただ、セシリオ様と一緒になりたい。それだけです」
「……なにを言うかと思えば、そんなふざけたこと」
「ふざけてなどいませんわ。真剣で、そして心からの思いです」
「ふざけるなと言っている!」
公爵が大声を上げる。あまりの迫力に、一瞬ビクついてしまった。
「なにが真剣な気持ちだ。お前はただ、一方的ではた迷惑な己のエゴを息子に押し付けているだけじゃないか! 今すぐ息子を解放しろ。そして二度とその姿を現すな!」
……くっそぉ。頭ガチガチで全然聞く耳持たないな、この親父。肝心の話に持っていきたいのに、帰れ帰れの一点ばりだ。
一旦頭を冷やしてもらおうと、さらに声をかけようとしたとき。
「父上、それは違います」
顔を上げ、拳を握りしめたセシリオが、シルバーの瞳を爛々と燃え上がらせて公爵を見つめていた。




