どうしてですか? その3
児玉さんは一応警戒しているのか、奥のカーペットの部屋ではなくダイニングテーブルにココアを出してくれた。
たしかにテーブルをはさんで向かい合っていれば、俺が彼女に手を出せないのは間違いない。
けれど、彼女が身を乗り出すと、ダブダブのパジャマの開襟の胸元から中が……見えそうで見えない。
視線が引き寄せられそうになるのを、どうにかこらえる。
「ええと……。」
どう説明したらいい?
黒川さんのことを確認することだけを考えていたから、頭の中を整理していなかった。
そこに、目の前にちらつく景色で後ろめたい気持ちが重なって、ますます言葉が浮かばない。
「わたし……、元気がなかった?」
先に児玉さんが尋ねてくれた。
話のとっかかりができて、ほっとする。
「はい……。たぶん、日曜日から……ですよね?」
「あ……、だから、黒川さんが原因だと思ったの?」
「はい。」
「でも……、あのとき、黒川さんのことは、目の前でちゃんとお断りしたのに。」
「ええ、でも……、俺……、自信がなくなってしまって……。」
そうだ。
結局はそこなんだ。
「自信……?」
「はい……。俺、黒川さんが言うように情けないところばっかりで……。もちろん、児玉さんのことを幸せにしたいと思っています。でも、黒川さんと比べたら、やっぱり……。」
「自信がないの……?」
「児玉さんが、俺のことを不安に思っているだけなら、もっと努力します。でも、俺を選んだことを後悔しているなら……、」
頭で考えるのは簡単だ。
けれど、それを口に出すのは苦しい。
「俺は諦めた方がいいのかも知れない、とか……思って……。」
そして、それを実行することは、もっと苦しい。
「雪見さん……。」
「でも、やっぱり諦められません。そんなに簡単に諦められません。俺の気持ちは、そんなに軽くはないんです。」
そうなんだ。
諦めるなんてできない。
「俺、諦めません。頑張りますから、俺のことを……。」
児玉さんが微笑んだ……?
ほっとする。
安心する。
児玉さんは俺に、 “諦めなくていい” と言ってくれているのか……?
「同じなの。」
「……え?」
「わたしも自信がなくなっちゃったの。」
児玉さんも……?
「日曜日だけじゃなくて、前から何度かあったの。わたし、いいところなんて何もないし……、それに、まだ半年だし……、それで……。」
時間が短かったことも不安の原因だった……?
「児玉さん……。」
児玉さんには素敵なところしかないのに。
そういえば……。
俺、児玉さんの料理以外のことを口に出して褒めたことがなかったかも……。
「雪見さんが、本当にわたしのことを好きなのか不安になって……、もしも違っていたら、諦めなくちゃって思って……。」
そこまで考えていた?
だから指輪を買いに行くのを渋っていた……?
「児玉さん、そんなこと言わないでください。俺は児玉さんのことを……」
「うん。ありがとう。」
もう一度笑顔を作って俺を見つめる。
その表情は少し悲しそうで、でもやっぱり微笑んでいて。
「わたしね、雪見さんに嫌われたら……、雪見さんがほかの人を好きになったら、諦められると思ってた。」
「児玉さん!」
どうしてそんなことを?
俺はいつだって…………そうか、自信がないからだ。
自分が好かれているのかどうか、不安だからだ。
俺が、ちゃんと言わなかったから……。
「だけどね、無理みたい。わたし、雪見さんのことを諦めるなんてできない。雪見さんがいなくなることに、耐えられないと思う。」
ああ……、児玉さん。
「さっき、雪見さんがなかなか来なくて、事故にでも遭ったんじゃないかって思ったとき、分かったの。雪見さんがわたしの生活からいなくなってしまったら……たぶん、わたし、元どおりではいられない。」
児玉さん……。
「外見上は変わらないかも知れないけど……、心が痛くて、ずっと悲しいままで、誰のことも好きにならないで過ごして行くと思う。」
「児玉さん。俺は、ずっと児玉さんと一緒にいます。事故に遭っても死にません。だから、そんなこと考えないでください。」
俺の必死な気持ちが伝わったのか、児玉さんから淋しげな表情が消えた。
その微笑みは優しくて、間違いなく俺への愛情が宿っていた。
「うん。今、わかった。自信がなければ頑張ればいいんだね。」
「頑張る……?」
「雪見さんが、今、言ったじゃない? 諦められないから頑張るって。」
「あ……。」
「わたし、自信はないけど、雪見さんと一緒にいたいの。雪見さんの役に立ちたいの。だから、自信がない分は頑張る。それしかないよね? だってわたし、雪見さんのことが好きなんだもの。」
児玉さん……。
止める暇もなかった。
気付いたときには、すでに涙が頬を伝っていた。
「あ……、あの……、すみません、なんか……。」
自分が泣いてしまうとは思わなかった。
だけど……、彼女の言葉が嬉しくて……。
「あの……、やだな、好きな女性の前で泣いちゃうなんて……カッコ悪い、ですよね。」
泣いたのなんて、何年振りだ?
いくら涙をぬぐっても、なかなか止まらない。
鼻水も出ちゃうし……、こんな姿、見られたくないのに。
「すみません。どうしよう……。」
俺のために頑張ってくれるという言葉が嬉しい。
それに、児玉さんが「好き」って言ってくれたのって、初めてなんですよ……。
カタン、と音がして、児玉さんが席を立った。
彼女がいない間になんとか涙を止めようと、呼吸を深くしてみる。
「雪見さん、はい。」
優しく声がかかって、横から差し出された水色のタオル。
「あ……、ありがとう、ございます。」
とりあえず顔を隠そう。
そろそろ涙は止まりそうだけど、児玉さんにこんな顔を見られたくない。
両手に乗せたタオルで顔を覆って、落ち着こうと息を吸い込んだ途端。
――― え?
ふわり、と頭が横に引き寄せられて、思わず息を止めた。
左の耳と首のあたりに児玉さんの手が。
そして、反対側に俺が寄りかかっているのは児玉さんの……胸?
ウソだろ?!
息と一緒に体も固まる。
胸、だよな?
なんとなく柔らかい感じがする……けど、この状態で確かめるって言っても!
どうしよう?
一気に涙は止まったけど、これじゃあ顔を出せない。
絶対に普通の顔じゃないはずだ。
とりあえず、そうっと息を吐いて……この状態で俺が動いても大丈夫なのか?
いや、あんまり動かない方がいいな。警戒して、離されちゃうかもしれないから。
うわ……、ドキドキしてきたよ……。
せっかくだから、この幸せな状態を少しでも長く!
そうだ。
甘えさせてくれている今のうちに、普段は訊きにくいことを訊いてみようかな。
今なら、ものすごく嬉しいことを言ってくれそうな気がする!
「あの……、児玉さん。」
タオルに顔を押し当てたままだから話しにくいな。
「なあに?」
「俺……、いいところありますか?」
「ふふ、あるよ。」
う、わ。
ぎゅうって。
児玉さん、そんなに俺のこと好きですか?
いや、なんか、もう。
「優しいし、親切だし、頑張り屋さんだし、それから声と……見た目も……好き。」
!!
児玉さん。
この状況でそこまで言ってくれたら……もういいや。
「児玉さん。」
「え? あ。わ?!」
いきなり顔を上げた俺に驚いて手を離した児玉さんのウエストをつかまえて、くるりと横向きに膝の上に座らせる。
こういうときの行動を組み立てる脳の状況判断のスピードはすごいと思う ―― なんて考える余裕はなく、そのまま力任せに児玉さんを抱き締めた。
「う……、狭い……、苦しい……。」
児玉さんの反応がちょっと……。
こういうとき、「苦しい」は分かるけど、「狭い」って普通は使わないんじゃ……?
見回してみたら、俺とテーブルの間が近過ぎた。
こんな幅に入ってしまうほど、児玉さんは細いのか……。
逃げられないように腕の力は抜かないままで、足で床を押してガタガタと椅子を後ろに下げる。
二人分の体重が乗っている椅子は、簡単には動かなかったけど。
揺れる膝の上でバランスを取ろうと、彼女が俺の肩に手をまわしてきたのは想定外のおまけ。パジャマの胸元から中がちらりと見えてしまったことも。
移動が完了すると、彼女は少し怒った顔で俺を見た。
「泣きまねだったの?」
「いいえ、本当です。」
彼女を見つめ返す俺は、この状況だけでも、目がくらむほど幸せな気分。
いつもは俺の肩より下にある彼女の顔は、今は目の前。
「児玉さん。いつもの香りがしません。」
「え? ああ、あれは、朝に……。」
「そうなんですか。でも、今のお風呂上りの香りも好きです。」
そんなに目を剥かなくても。
だって好きなんです、児玉さん。




