ダメだ!
く………るしい………。
もう……走れ、ない。
ペース……を、上げた……の、に……、結局……追い付けない……まま……で……。
苦しい……。
息が………、肺が……痛い。
呼吸なんて……もう、滅茶苦茶……。
脚も……つまずき……そうだ……。
黒川さん……どこなんだよ……?
もう…ゴール……したのか?
児玉さんと……笑顔で……話してる、のか?
曲がり角……?
ああ……そうか、ゴールだ……。
この…突き当たり……。
あと少し……。
あと……少し……。
とにかく…休みたい……。
寝転がりたい……。
順位なんか……どうでもいい。
ああ……、きっと今……、俺のフォーム……ひどいだろうな……。
でも……、もう、どうでも…いいや……。
黒川さんには……負けちゃった…んだし……。
とにかく……完走だけは……したんだから……。
児玉さん……。
俺……、負けちゃいました……。
負けちゃった……けど……、頑張ったんです……。
いつも…より、かなり……速い…ペース…で……。
だから……、ゴールしたら……褒めて……ください…ね。
たくさん……甘えさせて……ください……ね……。
「雪見さーん! あと少しよー!」
児玉さん……?
前方の道沿いに……。
あ……。
あんなに手を振ってくれてる……。
児玉さん……。
苦しいけど……。
やっぱり、カッコよく走りたい……。
と思っても……やっぱり無理です。
顔を上げるのも……苦しく…て……。
「雪見さーん!」
児玉さん……すみません……、こんな姿……で?!
「雪見さーん! 頑張って〜!」
「あと少しだぞ〜!」
「うお〜〜〜〜!」
「雪見さ〜ん!」
生徒?!
なんで…そんなにたくさん……?
「雪見さーん!」
ダメだ!
これじゃあ、みっともない姿で走れない!
もうプライドなんか捨ててしまいたいけど、児玉さんには恥ずかしい思いをさせられない!
くそっ!
「雪見さん! 頑張って!」
はい。
ゴールのあとに倒れたっていい。
児玉さん。
俺、あと少しだけ、頑張ります!
「45分58秒。」
ゴールラインを通過する瞬間、読み上げられたタイムに驚いた。
タイムをメモした紙を渡されたけれど、それを確認する余裕などなく、ゴールに入る前から目を付けていた芝生の斜面まで走って行って、倒れこむ。
とにかく苦しい。胸が破れそうだ。足が痛い。疲れた。頭がガンガンする。
目を閉じて横たわっていると、芝生から伝わって来る冷たさが、熱くなった体を冷やしてくれる。
ゴールをしたら、何をするんだっけ?
タイムを申請……だったかな?
でも、もう動けない。
苦しさが治まらない。
胸が痛くて、浅い呼吸しかできない。
「雪見さん!」
ああ……児玉さんの声だ。
目を開けると、タオルとベンチコートを持って走り寄って来る児玉さんが見えた。
こんなに苦しいのに、彼女を見たら、自然と笑顔が出る。
「雪見さん、お疲れさま。頑張ったね。」
泣きだしそうな笑顔の児玉さんがそっと頭を持ち上げて、タオルを敷きながら汗をぬぐってくれた。
その優しい手つきが嬉しくて、幸せで……、どうにか深呼吸をしてみる。
このままずっと、こうしていたい……。
「ねえ、雪見さん。ここに寝てたら、急に体が冷えて、良くないんじゃない?」
ああ、そうだった……。
「そうだよ。クールダウンもちゃんとやらないと、後がキツいぜ。」
誰だ?!
黒川さんか?!
焦って体を起こすと――― 。
児玉さんの後ろを囲むように生徒が。
そういえば、さっき、児玉さんの周りにいたっけ……。
「結構速いんですね。30位以内に入ってるんじゃないですか?」
「どうりでスマートになったと思った〜。」
「始めて4か月なんだよね? すげえ頑張ったじゃん。」
笑顔で褒めてくれてるけど……。
「児玉さん、この子たち……?」
「なんかね、陸上部の子たちが呼んだらしいの……。」
児玉さんが困った顔をして言った。
陸上部が……?
「雪見さんと黒川さんがこの大会で勝負するって、連絡がまわったらしくて……。」
そうか。
メールで回せば、情報はものすごいスピードで広まって行く。
更衣室の前で今日のことを知った陸上部がすぐに知らせれば、俺たちがゴールするまでに来られる生徒はかなりいるはずだ。
その生徒たちの前で、俺は負けちゃったわけか……。
「とりあえず、タイムの申請をして来ます。」
負けたことを生徒に気遣われるのも、なんとなく気まずいし。
「うん。わたしも一緒に行く。荷物はあの子たちが見ててくれるから。」
立ち上がったときに一瞬よろけたけれど、心臓も呼吸も落ち着いていた。
ベンチコートを着せ掛けてくれながら、児玉さんがタイムを尋ねた。
そこでようやく思い出して、手に握っていた紙を開いて確認する。
「45分58秒です。」
「45分?! 新記録だ!」
「はい。」
新記録ですけど、黒川さんにはかないませんでした。
「すごいね、雪見さん! 本番で新記録が出せるなんて、ホントにすごいよ! おめでとう!」
記録係のテントに向かいながら、児玉さんが興奮気味にはしゃいでいる。
黒川さんに負けた俺が落ち込まないように、気分を盛り上げようとしてくれているのかも。
「ありがとうございます。」
児玉さんの気持ちが嬉しい。
それに……。
やっぱり、ほっとしている。
俺が負けても児玉さんが俺を捨ててしまうことはないと信じていたけど、それが本当だったと分かって、ものすごくほっとしている。
記録係の前で、彼女は俺の腕と背中にそっと手を掛けてくれた。
その優しい温かさに、胸の中が幸せで満たされる。
「黒川さんは、どれくらい前に着いたんですか?」
「え?」
「かなり頑張ったのに追い付けないなんて、よっぽど速かったのかなあ? 俺の方が若いのに、ちょっと悔しいです。」
悔しいけど、もういい。
児玉さんが俺だけのことを想ってくれているって分かったから。
「雪見さん……、途中で見なかった?」
途中で?
「いいえ。一度も。」
折り返しのときも気付かなかったし。
「黒川さん、戻ってないよ。」
え……?
「雪見さんの方が、先に帰って来たのよ。」
「え……、でも……、そんなはずは……。」
変だ。
でも……。
じゃあ、俺が勝ったのか?
いつの間にか追い抜いていた?
「もしかして、雪見さんは負けたと思っていたの?」
「はい……。」
「ああ、ごめんね。本当はもっと喜んであげたかったんだけど、周りに生徒がいたから……。」
生徒が……。
うん、それは仕方がないよな。
俺だって、生徒の前で児玉さんに抱きつかれたりしたら……。
あ、内緒ばなしですか?
「お祝いは、あとでね。」
あとでって……二人きりで?
お祝い?
……何をしてもらおう?
マッサージ?
いや。
疲れたから、膝枕で昼寝をさせてもらおうかな?
なんだかもう疲れなんか吹き飛んじゃったような気もするけど。
「あのう……。」
「え、あ、はい?」
ネクタイ姿の若い男の人に声をかけられて、児玉さんが振り向いた。
「あのう、児玉さんと雪見さんですか?」
「あ、そうですけど……。」
誰だ……?
「あ! さっき、スタート前に……。」
スタート前?
「あ、はい、そうです。僕、黒川誠司さんの部下の水落と言います。あの、黒川さんからお二人に伝言があって……。」
「伝言?」
「はい。あの、黒川さんは、途中で棄権になってしまって……。」
「「棄権?!」」
「はい。脚のけいれんで……、折り返し地点の直後に。」
「折り返し地点……。」
だからすれ違わなかったのか……。
「スタート前に仕事でちょっと危ないことがあって……、それでウォーミングアップの時間が十分に取れなかったせいだろうって、トレーナーさんが……。」
「そうだったんですか……。」
今日は特別に寒かったしなあ。
「黒川さんはトレーナーさんがジムに連れて行ったので、お二人に伝えてほしいって、電話が入ったんです。さっき会った女性と背の高い男性の二人連れだから、すぐわかるはずだって。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「伝言はこちらです。あり合わせのメモで申し訳ありませんが……。」
おずおずと差し出されたは紙は、どうやら手帳から破り取ったものらしい。
折りたたまれたそれを開きながら、児玉さんと一緒にのぞき込むと……。
『結婚おめでとう。お幸せに。』
ああ ――― 。
「黒川さん……。」
児玉さんの声が少し震えている。
俺も、鼻の奥がツンとした。
「水落さん、でしたね? 黒川さんに、『ありがとうございます。』と伝えてください。」
「はい。では、僕はこれで失礼します。」
ぼんやりとスーツの後ろ姿を見送っていたら、コートの袖をぎゅっと握られた。
泣いているのかも知れないと思いながら隣の児玉さんを見下ろすと、幸せいっぱいの笑顔が見えた。
「たくさん、たくさん、幸せになろうね。」
その笑顔と言葉だけでも、俺は十分に幸せです。
でも。
「はい。」
もっともっと大きな幸せを、二人で一緒に作りましょう。




