クリスマスの決意
「乾杯。」
薄暗いバーのカウンターで、隣に座った児玉さんと軽くグラスを合わせる。
彼女の持つ細い脚のついた逆三角形のグラスには、透き通ったブルーのカクテルが。
俺の前の背の高いグラスの中は、透明から緑へのグラデーションの液体にふわふわと泡が泳いでいる。
クリスマス・イブの今日、奮発してホテルのレストランで食事をした。
そのあと、俺がこういう店に入ったことがないと言ったら、彼女が「ノンアルコールのカクテルも出してくれるから。」と誘ってくれたのだ。
ノンアルコールのカクテルにはちょっと恥ずかしい思い出があるけど、せっかく誘ってくれたので行くことにした。
それに、店の人が作ってくれるカクテルなら、間違ってアルコールが入ってしまうこともないだろうし。
一歩踏み込んだとき、一瞬、気後れしてしまった。
薄暗くて、みんながひそひそ声で話していて。
でも、新調したスーツは児玉さんが「ちょっと見惚れちゃう。」と褒めてくれたし、彼女にいいところを見せたかったから、なるべく堂々と見えるように頑張った。
席に向かう途中で女の人が流し目を送ってきたのは、自信を持っていい証拠?
こういう店に児玉さんと来ていることだけで、ものすごく嬉しい。嬉しいって言うか、誇らしい。
ほかのお客さんをそっと見回しても、児玉さんほど可愛らしい女性はいない。
服装だけを見れば、まわりの女性の方がもっとセクシーだったり、上品な雰囲気だったりはしている。
けれど、児玉さんのように、見た目も中身も優しさと可愛らしさを兼ね備えた女性は、どんなに見回しても見つからない。
そんなひとが、俺の婚約者なんだから!
「どう? お店の雰囲気は?」
隣から身を寄せて、児玉さんがそっと尋ねる。
黒い縁取りがあるグレー系ツイードのノーカラーのジャケットと、同じ生地のスカート、それに黒いパンプス。
今日の児玉さんは、落ち着いた雰囲気。
でも、その顔にはからかうような微笑みが浮かんでいる。
「少し、緊張します。」
「そう? でも、ちゃんと馴染んで見えるよ。」
この雰囲気に? 馴染んで?
また見回しそうになったけどやめて、児玉さんに微笑んでみる。なるべく格好良く見えるように。
目が合うと、彼女も嬉しそうににっこりしてくれた。
ああ、もう、幸せだ!
「ねえ、雪見さん?」
「……なんですか?」
せっかくだから、声も男前に聞こえてほしい。
お店の雰囲気に合わせて、いつもより低めの声で……。
「わたし、結婚式はしなくてもいいよ。」
「はあ?!」
格好なんかつけてる場合じゃないかった!
結婚式をしないなんて……。
「どういうことですか?!」
「しーっ。雪見さん、声が大きいよ。」
「だって……。」
いきなり結婚式をしないだなんて、意味が分からない!
パニックになりかけている俺の腕にそっと手をかけて、児玉さんが「まあ、落ち着いて。」と可笑しそうな顔をして言った。
テーブルに置いた右手の薬指には、俺が送った指輪が光っている。
まだ指輪をはめているってことは、結婚を断ってきたわけじゃない……?
「だってね、雪見さん。式場探しって、けっこう大変じゃない。いい日やいい時間帯はもう塞がってるし、空いているところはすごく高いし。」
ああ、 “式” に限った話か。
ほんとうに驚いた。
「たしかにそうですけど……。」
「わたしね、籍を入れるだけでもいいよ。式も披露宴もなければ、その分のお金を旅行とか新居に回せるでしょう?」
「でも……、誓いの儀式が……。」
「婚姻届を出すだけでも、ある程度は厳かな気分になるんじゃない? いざとなったら写真だけの結婚式っていうのもありかもね。」
「でも、それじゃあ、ご両親に祝ってもらえませんよ。まあ、披露宴は別の日とか……やらないっていう選択もあるかもしれませんけど、やっぱり結婚式は……。」
「だって、日にちが決められないのに……。」
あ……。
それが気になって、そんなことを……。
俺はどうしても春には結婚したい。
でも、児玉さんのお父さんとの約束がまだ果たせていない。
だから、あいさつにも行けないし、児玉さんをうちの親に会わせられないままでいる。
実を言えば、5倍そのものが達成できるのかどうか分からない。
坂口先生の協力は、3年生のLHRへの解放のほかに、来月の1年生への進路指導にも広がった。
それでも、見込みではギリギリなのだ。
このまま意地を張っていても、無理なのかも知れない……。
浮かぶたびに打ち消してきた予想が、今はずしんと胸の中に居座る。
目の前のグラスの中の泡が次々と浮き上がっては消えて行くのを見つめながら、いろいろな可能性を検討してみる。
婚姻届を出すだけなら簡単だ。
そういうカップルだって、ちゃんと幸せになれるはず。
でも、やっぱり児玉さんのご両親にはきちんと了解してほしい。
児玉さんを「おめでとう。」と送り出してあげてほしい。
でも……、その方法だったら3月まで待って、結果を見てからでも間に合う……?
届を出しに行くときに一緒に来てもらうとか、その日にあいさつをするとか、方法はいくらでも……?
いや。
違う。
約束を達成できない可能性があるから、確実じゃない。
達成できなかったら、もう一年? そんなに待てないよ!
それに、児玉さんのお父さんが、もう一度チャレンジするのを許してくれないかもしれない。
……そうだ!
それに、 “次は今年の5倍だ!” なんて言われたら……。
去年は少なかったから5倍の可能性だってあるけど、今年の5倍なんて、絶対に無理だ!
つまり、今回しかチャンスは無いんだ!
だけど、それさえも危うい……。
「雪見さん?」
児玉さん……。
優しい笑顔。
俺の大切なひと。
「ねえ、雪見さん、そんなに悩まなくてもいいよ。わたしは春に結婚できれば、どんな形でもいいんだから。」
「児玉さん……。」
春に結婚できれば?
どんな形でも?
俺は ――― 。
「児玉さん。ご両親にごあいさつさせてください。」
「雪見さん……、あいさつって……?」
「お父さんとの約束はまだ果たせていませんが、児玉さんとの結婚を許してほしいってお願いするつもりです。」
「雪見さん……。」
児玉さんには、俺との結婚で心残りがないようにしてあげたい。
幸せな思い出だけが残るようにしてあげたい。
「許してもらえるまでお願いします。だから、ご両親に会わせてください。」
「……はい。分かりました。」
児玉さんのためなら、いくら叱られても構わない。
どれだけ頭を下げても。
「じゃあ、お正月に来てね。そのあとで、わたしも雪見さんのご実家に連れて行ってね?」
ん……?
「はい……。」
児玉さん、なんとなく口調が軽い……?
なんだろう?
もう少し感激してくれるとか、心配そうな顔をするとか……ないのかな?
「あの……、児玉さん……?」
「うふふ、雪見さん、ありがとう。」
「いいえ、俺はべつに……。」
児玉さんを幸せにできるなら……あ、内緒ばなし?
「雪見さん。大好き♪」
「え?」
うわ?!
児玉さんの言葉に焦って彼女の方を向いたら、素早くキスが!
こんなところで?!
「あっ、あのっ、児玉、さん……?」
「うふふ。ちょっと飲みすぎちゃったかも♪」
そう言って笑う彼女の瞳は、たしかに少し潤んでいるように見えるけど……。
飲み過ぎって……児玉さんが?
ちょっと信じられない。
でも、こういう飲み過ぎなら、たまにはいいかな。
だけど、できればこういうのは、二人きりのときにお願いしたいです……。




